2023年12月17日 降誕前第2主日・待降節第3主日 マラキ書3章19~24節

19 見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。

 高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。

 到来するその日は、と万軍の主は言われる。

 彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

20 しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。

 その翼にはいやす力がある。

 あなたたちは牛舎の子牛のように 躍り出て跳び回る。

21 わたしが備えているその日に あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。

 彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

22 わが僕モーセの教えを思い起こせ。

 わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた。

23 見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

24彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。

 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように。

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<説教>「見よ、その日が来る」

アドベント第三週目です。三本目のろうそくに火が灯りました。希望、平和に続く、三つ目のろうそくは「喜び」を表しています。いよいよ主が来られる!その待ちきれないほどの喜びがテーマです。それを表すために、紫のろうそくではなく、薄いピンク、バラの色のろうそくを使うところもあるそうです。今日は喜びをテーマに見ていきましょう。

今日の聖書箇所は旧約聖書の一番最後に置かれている預言書、マラキ書です。マラキというのは「わたしの使者」、つまり「神の使者」という言葉に由来するもので、個人名なのかは分かりません。書かれた時代は、エズラ記とネヘミヤ記の少し前、新バビロニア帝国がペルシャ帝国によって滅び、バビロン捕囚が終わった後の時代と考えられています。

捕囚とされていたユダヤ人たちは、ペルシャ帝国から故郷に帰ることが許され、粗末ながらもイスラエル神殿を再建することもできました。ユダヤの地にはペルシャ帝国から総督が派遣され、占領下ではありましたが、比較的平穏に暮らしていたようです。

しかし、平穏なとき、私たちの神への信仰は薄れやすくなるようです。江戸時代、キリスト教が禁止され、九州にいたキリシタンたちは弾圧を受けましたが、その程度はそれぞれの地域・藩ごとに違っていました。激しく弾圧された地域ではかえって熱心に信仰が継承されましたが、弾圧が緩かった地域では反対に信仰を継承することが難しかったそうです。信仰は私たちに希望を与え、私たちが生きる上で、私たちを支えてくれる杖のような存在です。それは迫害などにさらされ、生きることが苦しければ苦しいほど大きな支えとなるでしょう。しかし、平穏に暮らせているときには、それほど必要を感じないものなのかもしれません。故郷に帰ったユダヤ人たちもそれと同じような状態だったのでしょうか。災害や敵対者などもいたとはいえ、平穏な暮らしの中で神への礼拝は形式的なもの、手抜きとなっていった。神を大事にしない、神を畏れなくなった民は道徳的にも堕落していった。マラキ書では民と祭司のそのような態度に対して警告が発せられています。

マラキ書の冒頭では神がイスラエルの人々を愛してきたことが語られます。それにもかかわらず、イスラエルの人々は神からの愛を認めず、神を尊重していないことが告発されます。当時の礼拝は祈りと賛美、そして捧げものから成っていました。人々には傷のない最上の生け贄を捧げることが求められていましたが、人々は最上のものを捧げることを惜しみ、誰かから盗んできたものや傷ついたもの、病気のものを捧げました。そして祭司もそれを受け入れていました。

マラキはたとえを用いてそのおかしさについて述べます。あなたたちは自分たちを治めているペルシャの総督に捧げものをするとき、最上のものを持っていくのに、なぜ神には最上のものを持って行かないのか。もし総督に盗んだものや傷ついたものや病気のものを捧げたとすれば、それは喜ばれることはないことを知っているのに、なぜ神にはそれをするのか。言われてみればもっともです。

今日、私たちは生け贄ではなく献金という形で捧げものをしています。しかしこの献金についても同じことが言えると思います。こんな話を聞きました。アメリカである人が教会に対して、これまで献金したものを返すことを求めて裁判を起こしたそうです。その理由は、献金しても自分には神からなんの恵みもなかったからだというものでした。これはもしかしたら訴えられた教会がそのような間違ったことを教えていた可能性もあるのですが、大きな勘違いからきています。

私たちのする献金は何かの恵みの対価なのでしょうか。自動販売機のように、お金を入れて、恵みという商品を買うようなものなのでしょうか。お金によって天国への入場券を買うようなものなのでしょうか。もちろん違います。それでは宗教改革者ルターが批判した、免罪符・贖宥状と同じになってしまいます。また、神をお金を求める守銭奴のようにしてしまっています。しかしこの世界を造られたのは神であり、もともとすべての所有者は神です。私たちが命を与えられたこと自体、神の恵みであり、また、私たちはイエス・キリストの十字架を通してすでに救われている。これは神の恵みによるものです。私たちはすでに神から恵みを受けている。献金はその感謝の応答なのです。私たちがそのことを認めないとき、先ほど述べたような勘違いが起こってしまうのです。

この世界も、私たちもすべては神に造られた神のものです。私たちはこの地上に生きている一時の間、神からお借りして生かされているにすぎません。それは私たちが互いに助け合い、一緒に幸せに生きていくために、私たちに預けられているものです。献金はあくまでも神に感謝を表すために行っているもので、神と取引しているのではありません。カルト宗教が言うような、お金が汚くて、それを清めるためにするのでもありません。お金はあくまでも手段、道具にすぎません。私たちはこの世で生きている間、神から信仰を頂き、その希望によって生きています。教会は信じる人たちの共同体であり、その共同体を維持していくために私たちは献金します。また、神はすべての人を愛しておられますが、特に病人や差別される人、迫害される人を愛しておられますから、私たちもそれに倣って、集めた献金を寄付したりします。こども園でもアドベントの時期に献金を集めて、ユニセフに献金します。私たち月寒教会でも、クリスマス献金などを行っています。

当時のイスラエルの人々もアメリカで裁判を起こした人のように勘違いをしていたようです。それは神を、ただ恵みを引き出すための道具のように見なす、神を軽んじる行為です。そのような価値観では、損得勘定でしか他者を見ることはできないでしょう。

イスラエルの人々もまた、そのような価値観に飲み込まれ、兄弟で裏切りあうようになってしまった。簡単に妻と離縁して、異教の神を信じる若い妻を迎える。呪術を行い、姦淫し、偽って誓い、雇い人の賃金を不正に奪い、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる。そのような他者を尊重しない、愛のない行い。それは、神を畏れていない、神を軽んじていることだ、とマラキは告発します。そして裁きが来ることを告げます。

「見よ、その日が来る 炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。」(マラキ3:19)

あぁ、また裁きの話か。これだから旧約聖書は嫌いなんだ、そう思われる人もいるかもしれません。私もそうでした。でも、聖書における裁きには良い面もあるのです。それは裁判官が公正と正義と憐みの神だということです。だからこそ、迫害されている人からすれば、裁きは恐ろしいものではなく、むしろ待ち遠しい、嬉しいものなのです。

「主は世界を正しく裁き 諸国の民を公平に裁かれる」(詩編98:9)のように、聖書には神の裁きを待ち望む言葉がたくさんあります。また、今日の箇所でも言われています。

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。」(マラキ3:20)

神を畏れ敬い、神に従うものにとって、裁きは太陽のように待ち遠しい、嬉しいものです。それなのに、「裁き」を怖い、嫌だ、と思ってしまうのは、私たちが自分は正しくないということを知っているからかもしれません。私も自分を振り返ると、とてもじゃないけれど自分が清い正しい人間だとは思えません。

でも、大丈夫。そのような私でも、神は愛してくださっているとイエス・キリストは言ってくださる。そのような私でも愛し、私を赦すために、私の代わりに十字架についてくださった。私たちはイエス・キリストによって生かされて神の子とされている。それがキリスト教の信仰です。私たちは自分だけで神にふさわしい人間になろうと頑張る必要はありません。そんなことは到底できません。でも、私たちにはイエス・キリストが一緒にいてくださいます。

私はイエス・キリストのもの。こんな私でも、イエス・キリストのもの。そのことは、私たちが神に従いたいと思う動機を与えてくれます。神はキリストを通して、すでに、私を、すべての人を赦し、神の子となるようにと招いてくださっています。

マラキはイスラエルにモーセの教えを思い出すようにと言われます。モーセの教え、律法とは何か。それは、神を愛し、隣人を自分のように愛することです。それはイエス・キリストを通して神の民とされた私たちにも向けられている教えです。

聖書は神の裁きを語ります。でも、それは私たちを滅ぼしたいからではない。滅ぼすことが目的なのではない。そうではなく、私たちが神に立ち返って生きるようになるためです。神は私たちを生かしたい、互いに愛し合い、大切にしあう世界で、生きて幸せになってほしいと願っておられるのです。

「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。

あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。

あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラキ3:1)

「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。

わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように。」(マラキ3:23~24)

この世の終わるとき、メシア・救い主が来る。その前に、預言者エリヤが遣わされると言われています。そしてイエスは、そのエリヤとは洗礼者ヨハネのことだと言います。(マタイ17:10~13)

メシアが来る前に来るはずの預言者エリヤはすでにやって来た。そしてついに、約束された私たちの主、イエス・キリストがやって来られる。「見よ、その日が来る」。

私たちは旧約の時代を生きた人々よりも幸いです。私たちはクリスマスを知っています。神の御子が来られたことを知っています。神が十字架によって私たちを救ってくださったことを知っています。もう、いつ神は来られるのかと心配する必要はありません。神は私たちと共におられる、神の救いはすでに始まった、そのことをお祝いするのがクリスマスです。

いよいよ来週はクリスマス礼拝です。救い主の訪れを記念し、私たちも一緒に喜び祝いましょう。

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