2026年7月19日 聖霊降臨節第9主日 コリントの信徒への手紙Ⅱ6章1~10節

わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

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<説教>「神からいただいた恵み」

今日の聖書箇所は、異邦人への使徒パウロと同労者テモテから、ギリシャのコリントにあった教会へ宛てられた手紙です。

コリントはヨーロッパとアジアを繋ぐ貿易の拠点として栄えた都市で色々な国の人々が住んでいたようです。コリントの教会はパウロの第二次宣教旅行の際にできた教会で、パウロはここに約1年半滞在して宣教しました。パウロ以外にもアキラとプリスキラ夫婦、雄弁家のアポロなど様々な人が力を尽くし、教会の発展に仕えました。しかし、やがて教会の中で分派争いが起こります。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(1コリ3:6)

パウロは、どの宣教者も、同じ神さまの僕に過ぎないのだから分派争いなど愚かなことだ、私たちの頭はイエス・キリストであり、どの人もイエスさまの体である教会を形成する大切な部分であると説き、誰も自分を人より誇ったりできないし、その必要もない。弱く見える部分こそかえって必要なのだ、最も偉大なものは愛なのだということを、手紙を通して訴えかけます。

パウロももともとは自分に誇りを持っていました。イスラエル王国の初代の王、サウルと同じベニヤ民族の出身であり、ローマ市民権も持っている。ユダヤ教の中でも熱心に聖書を学ぶファリサイ派の一員で、高名な聖書の教師であるラビ・ヒレルの孫であるガマリエルの下で学んだユダヤ人でした。そしてユダヤ人として律法を守り、熱心にキリスト教徒を迫害してきた。けれども、すべての人のために十字架について死に、復活した神の子イエス・キリストに出会い、自分の誇りがなんとちっぽけなものだったのかに気が付かされたのです。

それから彼はキリスト教の熱心な宣教者に変えられました。迫害をしていた自分が、今度は同じユダヤ人たちから迫害されるなど様々な苦難にあい、また仲間であるキリスト教徒からもなかなか理解してもらえず、最後には暴君として有名なローマ皇帝のネロによって殉教の死を遂げたパウロ。普通であれば何度も挫けてしまいそうな目に遭いながらも、最後までイエス・キリストに従ったパウロ。なぜ彼はそのように生きられたのでしょうか。

それは神さまから頂いた恵みに気が付いたからでした。彼はキリスト教徒を迫害し、死にさえ追いやりました。それはイエス・キリストを迫害したのも同じでした。けれども、神さまは彼を赦し、イエス・キリストの赦しと愛を伝える人として用いてくださった。自分の罪を自覚し、そしてその罪を赦して頂いたという実感が彼を突き動かしたのです。

有名な讃美歌に、「アメージング・グレイス」があります。日本語に訳せば「驚くべき神さまの恵み」といった感じでしょうか。この讃美歌の作詞家はジョン・ニュートン。彼は若い頃に奴隷貿易に関わっていました。初めはそれが悪いことだと感じていなかったようですが、後に回心し、牧師の道に進みます。そして自らの過ちに気づき、罪を悔い、それでも愛して赦してくださる神さまの愛への感謝からこの讃美歌の歌詞を書いたのだそうです。

パウロも『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。』(Ⅰテモテ1:15)と語っていますが、ジョン・ニュートンも同じ感覚を味わったのでしょう。

キリスト教では罪や悔い改めを説きます。それは自らの罪に自覚する時、神さまの愛にも気が付くからです。神さまからの驚くべき恵みとは、神さまから先に与えられる赦しであり、愛です。

私は罪深く、神さまの愛に値するものではないけれど、しかし神さまはこんな私の罪をも赦し愛してくださっている。神さまの愛と赦しは、一方的に神さまから与えられる恵みです。それは太陽の光のように、雨のように、すべての人に注がれている。イエス・キリストはそのことを教えてくださいました。他者への愛なき罪人だった自分が、神さまの敵だった自分が、今や罪を赦され、神さまの協力者として用いられている。その感謝がパウロを突き動かしていたのです。

パウロが頂いた恵みは、ジョン・ニュートンがそうであったように、すべての人に注がれています。彼らが神さまからいただいた恵みは、私たちも受けているのです。だからこそ、パウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と私たちにも語りかけています。

パウロがこの言葉を語った時、この手紙を書いた時、コリントの教会の人々は信仰の危機にあり、神さまから頂いた恵みを無駄にしているような状態でした。互いに誰が正しいかと裁き合い、パウロが伝えたイエス・キリストの愛から離れてしまっているような状況だったのです。

パウロはイエス・キリストを通して受けた愛を思い出し、神さまに赦された者として、お互いに愛し合い、神さまからいただいた恵みを無駄にしないようにと教えているのです。

パウロは今日のところで「左右の手に義の武器を持ち」と言っていますが、これは本当の武器、誰かを傷つけるためのものではありません。パウロが生きた時代は戦争が身近にあった時代ですから、こうしたたとえが分かりやすかったのでしょう。彼はローマの信徒への手紙やテサロニケの信徒への手紙といった他の手紙でも同じようなたとえを用いていますが、神さまの言葉であり、信仰であり、善い行いであり、悪から遠ざかることを指しています。

パウロほどではないにしても、私たちもこの世界で生きる時には様々な困難があるでしょう。そんな時、私たちは到底自分の力だけで困難や悪を退けることは出来ません。だからこそ、神さまの言葉や信仰や愛によって、身を守る必要があるのです。しかしそれはこの世の武器ではありません。人間が生み出したこの世の武器は人を傷つけ、殺し、破壊しますが、神さまの言葉である見えない武器は人を赦し、人を生かし、和解へと導くものです。

私たちはこの世の武器ではなく、人を生かす神さまの愛の言葉を身につけ、両手に持ちたいものです。そしてどんな時も、私たちを愛し生かしてくださるイエス・キリストの愛に従って生きて行きましょう。

この世の権力も武器も富も、どれだけ強く見えても、最後には必ず滅びていきます。そんな不確かなものではなく、永遠になくならない神さまの愛にこそ頼りましょう。神さまの愛はすでに私たちに注がれている。誰かを傷つけ奪う必要はない。神さまからの恵みはすでにここにあり、すべての人に注がれ、独り占めしようとしなくても無くなりません。神さまにいただいた恵みに感謝して、今週も一緒に歩んでいきましょう。

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