しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。
<愛あるところに>
今日は平和聖日です。私たちの教会の属する日本キリスト教団では8月の第一日曜日を平和聖日と定めています。これは、原子爆弾が落とされた広島のある西中国教区の、「原爆の惨禍の悲劇を忘れず、平和のために祈る日を教団全体で持ちたい」との願いから、世界平和と核兵器禁止のために祈る時として1963年から始まったものです。
また、当教会では今年からまた日本キリスト教団戦争責任告白を礼拝の中で用います。これは、教団が第二次世界大戦に協力した罪を公式に認め、悔い改めを表明したもので、1967年の3月26日、イエス・キリストの復活を記念する日に合わせて当時の教団議長名で発表されました。植民地支配への加担や、天皇崇拝をしたことなどへの反省が足りていないという指摘もありますが、戦後、他教団・他宗教に先駆けて責任を認め・謝罪を表明したという点で画期的なものでした。
この中で、「見張りの使命をないがしろにした」と語られています。これは、旧約聖書、エゼキエル書33章の預言に由来しています。
「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」
(エゼキエル書3章7~9節)
戦後80年が経ち、過去の侵略戦争の過ちを忘れ、戦争の惨禍の記憶が薄れてきた昨今、日本には非核三原則があり、憲法でも戦争放棄を掲げているのにも関わらず、防衛大臣が核武装や先制攻撃を言いだしたしました。少し前なら、こんなことを言えばすぐに批判されて政治家を辞任していたのに、今では居直って責任をとることもしません。この国が再び戦争を選ぶ過ちの道を選ぼうとしている中、人の命の大切さや、人の生きるべき道を説く宗教界や教育界には、ますます「見張りの役目」が求められていると感じます。
そもそも、日本キリスト教団は1941年の宗教団体法によって、戦争協力のために、それぞれ信じ方の強調点や教会運営の仕方が違う33の教派が合同して出来たという歴史があります。だからこそ、戦後「明日の教会」を考える上で、過去の反省は避けて通ることは出来ません。
徹頭徹尾、戦争や植民地に反対した柏木義円牧師のような方々もいましたが、しかし当時の日本の教会の大多数は植民地主義を教勢拡大のために肯定し、宮城遥拝をし、必勝を祈願し、若者や牧師を戦地に送り、戦闘機購入のため献金をしたりして、積極的に協力してきました。
過去は変えられませんし、過去を断罪したいわけでもありません。当時の強権的な軍国主義体制下では、そうしなければ信仰を守れなかったという事情もあったでしょう。戦争に反対し、投獄され、拷問を受けて殺された信仰者たちもいました。私たちも当時に生きていたら、怖くて戦争反対を言うことは出来なかったかもしれません。
でも、幸いにして日本は負け、大日本帝国は滅びました。平和な民主主義国家日本になったのだから、過去とは決別し、同じ過ちは犯さないようにしたいのです。
私たち人間の一生は短いのですから、過去に学び、今度こそ、「敵を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」と言われる主、イエス・キリストに従って生きたいと思うのです。
本当に敵を愛することが出来たなら、私たちに敵はいません。戦争の多くは、「自衛のため」、「仕方ない」、「やられる前にやれ」という言い訳から始まります。でも、本当にそうでしょうか?本当に仕方がないのでしょうか?もっと互いを知れば、別の道、一緒に生きる道があるのではないでしょうか。誰かが、「あの人は敵だ」、「攻撃しろ」というとき、「本当にそうか?」と疑うところから平和は始まるのだと確信しています。
日本の教会だけでなく、キリスト教は2000年の歴史の中で、国家と結びつき、戦争を肯定するという過ちを度々犯してきました。その中で特に有名なのは「十字軍の遠征」ですが、今日でも、アメリカなどで自国の戦争を肯定する様な発言をする宗教者もいます。
しかし、神さまは「殺してはならない」、「復讐してはならない」、「互いに愛し合いなさい」と言っておられます。人間の言葉ではなく、神さまの言葉にこそ耳を傾けたいと思います。
戦争と平和を考える上で、教会が2度と戦争に加担しないために、皆さんに紹介したい短編小説があります。「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」を書いたアメリカの作家、マーク・トウェインの「戦争の祈り」という物語で、100年程前に、戦争に熱狂する自国を批判するために書かれました。
「戦争の祈り」引用
私は初めてこの物語を読んだとき、本当に恐ろしくなりました。
私たちの世界にはこのような誘惑が、ごく身近にあります。愛を説く教会でさえも、そのような熱狂に容易く飲み込まれてしまうことがあります。また、駄目だと思っていても、周囲からの圧力に負けることもあるでしょう。しかし、このような誘惑がもたらすものは破滅だと聖書と、人類の歴史は教えています。
マーク・トウェインは当時の、戦争に熱狂するアメリカの人々を風刺するためにこの物語を書きましたが、80年前の日本もそうだったでしょうし、今日のわたしたちもそうなる危険性はあるでしょう。
神さまは「互いに愛し合いなさい」と言っておられるのに、自分たちの都合のいいように聖書を読み、自分たちの悪を肯定するために利用しようとする、そのような誘惑があります。
私たちは聖書のみ言葉を求めて、教会に来ます。しかし、その教会のなかにおいて、イエス・キリスト以外の誘惑に目を奪われて、イエスさまご自身を求めることを忘れるようなことになってはなんの意味もありません。今日の聖書箇所でイエスさまは、ユダヤの人々がモーセを通して与えられた律法を重視するのに、そのモーセに律法を与えた、神から遣わされたイエスさまご自身を信じようとしない、ということを指摘されました。この警告は今日の私たちにも当てはまります。
私たちは、しばしば、聖書を自分の都合のいいように読み、他者を攻撃するために用います。しかし、それは神さまが与えてくださった祝福を、呪いに変える行為です。イエスは、そこには神さまへの愛はないのだと指摘します。
では、私たちはどうしたらよいのでしょう。どのようにすれば、そのような読み方にならずに済むのでしょうか。他者への呪いを祈らずにすむのでしょうか。イエスさまは、聖書はイエスさまを証しするためのものだと教えます。ですから、私たちはまず、イエス・キリストを求めましょう。
イエス・キリストを求めるということは、何よりもまず愛を求めるということです。
イエス・キリストは神からの福音を伝えるために私たちのもとへと来られました。
その福音とは私たちへの、神に対する罪からの赦しと解放の知らせでした。そのために、
イエスは小さくされた人々のもとへ来て、愛の業を通してそれを示してくださいました。
そしてついには、私たちの身代わりに十字架にかかって死に、復活なされたのです。
それはすべて神さまの私たちへの、一方的ともいえる愛からでした。
神の子であるイエスさまは、父なる神さまと、その神さまに造られたのに、道にはぐれた子である私たち人間たちを和解させるために来られたのです。
それは神さまからの一方的な愛の関係から、神と人間との相互の愛の関係に引き戻すためでした。そのことは、ただ個人と神との関係だけではなく、分かたれた人と人との関係も含みます。
イエスはヨハネによる福音書のなかで私たちにこのように言っています。
「互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、
それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」
(ヨハネ13:34-35)
イエス・キリストを求めるということは、愛の道を求めるということなのです。
互いに愛し合うということなのです。
それは自らの思いや願いだけでなく、視点を変えて相手の立場に立って見るということです。
私たちが神から与えられている想像力を働かせましょう。
私たちが自己中心的になるとき、その裏で誰かの不幸を祈っていないでしょうか。
そのような誘惑は力強く、また様々な姿で私たちの前に姿を現します。知らず知らずのうちに、私たちはそのような誘惑によって偽りの道に導かれているかもしれません。
そんなとき、一度立ち止まって、私たちのために、愛の業によって、神の私たちへの愛を示してくださったイエス・キリストのことを思い出しましょう。
そうして、互いに愛し合うことをこそ、祈り求めて行きましょう。
愛があるところにこそ、イエス・キリストはおられます。「神は愛」なのですから。
