そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
<説教>「新しい生き方」
昨日は、8月15日。アジア・太平洋戦争の敗戦を記念する日でした。ハワイの真珠湾攻撃が有名ですが、日本が中国に侵略を開始した柳条湖事件から数えて15年戦争とも呼ばれています。私の祖父も当時、同志社大学の学生で、二回徴兵され、約七年兵隊に行っていたと聞きました。「起きろよ起きろよ皆起きろ、起きないとげんこつくらわすぞ」「兵隊さん泣くのかね、また寝て泣くのかね」軍隊での起床と就寝時のラッパにあわせて歌っていたと聞かされました。嫌でも入らなければならず、常に暴力にさらされる体育会系のパワハラ組織で過ごす兵隊の悲しさが伝わってきます。この教会にも戦中に子ども時代を過ごされた方々がおられ、当時のお話を聞く機会があり、とても貴重な時だと思っています。
一方で、日本では平和教育というと、空襲や広島・長崎への原爆投下、敗戦時の引き揚げの苦しさを聞く機会が多いように思います。同時に自国の犯した重大な加害の歴史も忘れないようにしたいと思います。「戦争を知らない子どもたち′83」(北山修作詞、坂庭省吾作曲)という有名な反戦歌の中で、「私たちは被害者の子どもで、加害者の子どもなんだね。私たちも殺されたけど、私たちも殺したのですね」という歌詞があります。本当にその通りです。
日本では約310万人~390万人が亡くなったそうですが、アジア全体では日本が引き起こした戦争によって、約2,100万人~3,100万人の人が亡くなりました。日本の被害のおそよ10倍近い人が亡くなっています。
二度と殺されたくないし、二度と殺したくない。そのことを心に刻んで忘れないようにしなくてはなりません。政治家たちは「仕方ない」「自衛のためだ」と何かと理由をつけて戦争をさせようとしますが、自分たちでは決して戦争にはいきません。殺し合いをさせられるのは私たち一般人です。どんなに綺麗ごとでごまかしても、私たちや私たちの大事な子どもたち、孫たち、友だちたちが、殺し合いをさせられるのが戦争です。正義の戦争なんてものはありません。戦争で金儲けしようとしている人以外には、私たちにとっては、戦争はただただ悲惨なものです。命を失い、大事な人を失い、財産や住む所を失い、飢えや病気に苦しむ…。心はすさみ、罪の意識やトラウマに苦しむ。
そんな思いは二度とご免です。そのことを忘れないために、私たちは毎年この夏を過ごしています。この記念するという行為はとても大事です。
私たちは忘れていく。忘れるという事は、生きる上で大切なことでもあります。悲しいこと、苦しいこと、嫌なことをいつまでも覚えていたら、心が壊れてしまう。でも、忘れてはいけないこともある。忘れたら、私たちは同じような過ちを犯してしまう。そうならないためにも、記念し続けることが大事ですし、そのことを通して普段から戦争反対、平和を求める意識を持つことが出来ていきます。日本は戦争の反省から、戦争放棄を決めました。それなのに政府が平和憲法を捨てようとしている。そのような中で、戦争反対、平和や憲法擁護の意識はますます大事になっています。
思えば、私たちが毎週している礼拝も、記念する行為です。何を記念しているのか。それはイエス・キリストの十字架の死と復活です。イエス・キリストは私たちの罪のために、私たちの身代わりとして死んでくださった。私たちには罪があるのだ、それを忘れないためです。
それと同時に、その罪をイエス・キリストは赦してくださった。私たちが負うはずだった罪への罰を身代わりに負ってくださった。そのことによって、私たちは恩赦された。そのことを忘れず、感謝するためです。
自らの罪の自覚、それは他者への寛容さを呼び起こします。たとえ他者に腹を立てても、「でも自分もそうだよな」と思えるようにしてくれます。イエス・キリストへの感謝、それは謙遜な思いと喜びを与えてくれます。私たちは自分自身で赦しに値するようなことをしたわけではない。そんなことはできない。でも、そんな私を赦すために、イエスさまは身代わりになってくださった。私は自分で自分を誇ることは出来ないし、そんな必要はない。どんな人も神さまの前では罪人であり、同時に、愛されている、罪赦された罪人です。
誰にも自分を誇って誰かを見下すことは出来ないし、そんな必要もない。誰かと比べる必要もない。
私たちの住む社会では誰かと比べられながら生きてきますから、傲慢になったり、卑屈になったりしてしまう。でも、神さまはそのようには見られない。比べるから、苦しみや妬みが起こる。そんな物差しは捨ててしまえばいい。この世の「当たり前」ではなく、神さまの国の「当たり前」を求めて行く、そのために、私たちは神さまに招かれてここにいるのです。それは簡単なことではありませんが、だからこそ私たちは毎週集まって、イエス・キリストを記念し、心に刻み付けるのです。
8月2日の平和聖日の礼拝の後、平和の学習会をしました。そこでローマ・カトリックの教皇レオ14世が戦争に反対した言葉が紹介されていました。
『…兄弟姉妹の皆様。〈平和の君であるイエス〉――これがわたしたちの神です。この神は、戦争を拒絶します。戦争を正当化するためにいかなるものをも用いることができません。戦争を行う者の祈りには耳を傾けず、そのような祈りを拒絶してこういわれます。「どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を」(イザ1・15)。…(中略)…
平和の君であるキリストは、十字架上で再びこう叫びます。神は愛です。憐れみをもってください。武器を捨ててください。あなたがたが兄弟であることを思い出してください。…』(2026年3月29日、受難の主日ミサ説教より)
聖書はイエス・キリストを指し示すためのものです。イエス・キリストは平和の君であり、神さまは愛です。私たちを愛してくださっている神さま、イエスさまは「人を殺してはならない」、「復讐してはならない」、「敵を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」、「互いに愛し合いなさい」と明確に命じておられます。そのことを心に刻み、この声にこそ聞き従いましょう。
時に宗教が平和を訴えることに対して、政治的だと言う人がいますが、平和を訴える声を消そうとする方がよほど政治的です。それに政治とは生活に直結するものです。良い政治が行われなくては、生活は苦しくなります。また、信仰は生活実践と深く結びついているのですから、そもそも政治と宗教は切り離すことは出来ません。政教分離とは政治が宗教や個人の信仰に口を出したり、特別に便宜を図ったりすることを禁止しているもので、宗教が平和を訴えることを禁止するものではありません。
信仰が生活の中での実践を求めるものだというのは、今日の聖書箇所からも分かります。今日の手紙の著者とされるパウロは、イエス・キリストへの「信仰による救い」について説いた人として有名です。それは時に「信じる者は救われる」のだから、何もしなくていいのだと誤解されます。
しかし、パウロはそんなことは言っていません。「信仰による救い」とは、イエス・キリストによって「救われたことを信じる」のであり、救われて神さまの子どもとされたのだから、神さまの子どもとして神さまに喜ばれるように生きなさいということです。
今日の手紙でも、『心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません』と語っています。
キリスト教は昔、「この道」と言われました。日本でも「~道」という言い方がありますよね。それは修練であり、生き方を表します。その道を歩いて生きて行くのです。私たちの生き方は、聞いて終わるのではなく、愛と平和の君であるイエス・キリストに従い、神さまの子どもたちとして、互いに愛し合って、「お互いさま」と赦し合って生きる道です。
もちろん、簡単なことではありません。私も我が身を振りかえって、あまりの変わらなさにげんなりする時が多々あります。でも、それはパウロも知っています。それを知った上で、そうなるように目指そうとパウロは励ましているのです。
私が今日の所で好きな箇所がいくつかあります。一つは、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」という所です。イエス・キリストを信じて、クリスチャンになっても、相変わらず短気なまま…。でも、大丈夫。怒りたくなる時はあるよね、分かる分かる。でもさ、その怒りを直接ぶつけることはやめよう。怒っても、次の日まで持ち越すことはやめよう。そうパウロは言うのです。
パウロ自身、きっと短気な人だったのかなと聖書を読んでいて思うことがあります。そしてそれで人を傷つけてしまったこともあるんだろうなとも思うのです。そんな経験はどんな人にもあるんじゃないでしょうか。でもそれは相手を傷つけ、自分も傷つきます。良いことなんて何一つありません。むかっと腹が立った時、すぐに相手にぶつけるのではなく、まずイエスさまのことを思い出したいと思います。イエスさまは、私たちを赦してくださった。もちろん、非難すべき時もあると思います。それによって相手が気がついて、良い道に帰るということもあるでしょう。戦争反対や平和を求めることは、そのような絶対に言わなければならないことです。でも私たちの身近に起こることの多くは、私たちにも「お互いさま」なところがあるんじゃないでしょうか。
『聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。』これは、私も出来ているとは言えないけれど、そうでありたいと思う言葉です。教育や保育の現場で、そして日常でもとても大事な言葉だと思います。どのように言えば相手に届くか、祈りながら言葉を探し、紡いでいきたいと思わされます。
すぐに出来ないのは分かっている。もしかしたら一生出来ないかもしれない。それでも、一生かけて出来るように目指し、努力する価値のある生き方です。「神さまは成功することを望んでおられるのではなく、挑戦することを望んでおられる」と信仰の先輩であるマザー・テレサは言ったそうです。保育や教育の場でも同じですよね。日常でもそうです。挑戦し、失敗し、そこから学んで、また挑戦していく。挑戦のないところに成長はありません。たくさん失敗したからこそ、大きく成長していきます。失敗してもお互いさまと、私たちも失敗を恐れず、挑戦していきましょう。
私たちを赦し、愛してくださっている神さまを悲しませず、喜んでもらえるように、私たちも互いに赦し合い、愛し合いながら、平和を求めて生きる、新しい挑戦、新しい生き方を、今週もしていきましょう。
