2023年 10月 8日 聖霊降臨節第20主日  フィレモンへの手紙 1-25節

1キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、 2姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。 3わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

4わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。 5というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 6わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。 7兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。

8それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、 9むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。 10監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。 11彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。 12わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。 13本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、 14あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。 15恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。 16その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。

17だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。 18彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。 19わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。 20そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。

21あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。 22ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。

23キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。 24わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。25主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

目次

<説教> 「愛する兄弟として」

今日は神学校日、伝道献身者です。これは私たちの教会も所属する日本キリスト教団が、10月の第二週目の主日(日曜日)を、伝道者を養成する神学校を覚える日と定めたものです。日本キリスト教団では同志社大学、関西学院大学、東京神学大学、東京聖書学校、日本聖書神学校、農村伝道神学校などの神学校を卒業し、教団の試験を受けて教師となります。また、神学校を出ずに独学で学び何年かかけて受験して教師になるケースもあります。そうした神学校や神学生を覚えてお祈りして頂けましたら幸いです。

今日、日本や世界のあちこちで少子高齢化が問題となっていますが、教会でも同じ問題を抱えています。それと連動するように、教会で牧師や伝道師として働くことを目指す、献身者と言われる人々も、高校を卒業してすぐに入学する人は少なくなってきたと言われています。しかし、献身とは召命、神からの招きであり、何歳からでも遅いという事はありません。旧約聖書に出てくるアブラハムは75歳で召命を受けたとされています(創世記12:4)。今日では、違う職を辞めたり、定年退職した後に神学校に入って教師になる方も多いです。神はさまざまな仕方で、それぞれをご用のために招かれます。コロナ下でオンライン授業も普及し、働きながらや遠方にいても、オンラインで神学校の授業を受けることが可能になったとも聞いています。皆さまの中からも、主の招きを受ける方がおられるかもしれません。

もちろん、主のご用は様々ですし、その働き方も様々です。必ずしも教会で働くことだけが召命ではありません。キリスト者になった、教会に来てみようと思った、それも立派な召命です。日常の生活の中で、神の愛を証ししながら生きることも立派なお働きです。礼拝や教会活動や伝道は牧師だけがするものではなく、教会に集う皆さんでする、チームプレイです。そしてその私たちの中心におられるのはイエス・キリストです。私たち、教会に集う者のチームプレイの一環として、神学校や神学生のことを覚え、お支え頂けましたら幸いです。

さて、今日の聖書は、異邦人の使徒パウロが書いた、最も短い手紙で、コロサイという町の教会の人々に宛てて書かれた手紙のようです。パウロはキリスト教を宣教したために何度か投獄されていますが、この手紙も獄中で書いたもののようです。

この手紙は主に、フィレモンという人に向けて書かれています。姉妹アフィアはフィレモンの妻、アルキポは彼らの子どもだったのかもしれません。フィレモンは自分の家で教会を開いていたようです。資産家で、ある程度の人々が集まれるほどの大きさの家を持っていたのでしょう。そして、彼は奴隷も所有していたようです。

人権や民主主義が普及した今日では考えられませんし、考えたくもありませんが、当時は奴隷制度が当たりまえにあった時代でした。そして、イエス・キリストを救い主だと信じ、キリスト者になった人の中には、貧しい人も、裕福な人も、奴隷とされた人も、奴隷の主人であった人もいたのです。

パウロはフィレモンに対し、ある目的を持ってこの手紙を書きました。それは、フィレモンの奴隷であるオネシモという人を、フィレモンに解放してもらうためです。

オネシモという人はフィレモンの奴隷でしたが、何か事情があってそこから逃げたようです。そして、キリスト教を宣教したために監禁されていたパウロと出会い、キリスト者となってパウロを手伝うようになりました。パウロはオネシモのことを「私の心」と呼ぶほどに頼りにしたようですが、一つ問題がありました。

オネシモは逃亡奴隷であり、その主人はフィレモンです。パウロは禍根を残さないように、オネシモをフィレモンのもとに返します。しかし、当時は逃亡奴隷には酷い罰が下され、最悪、命を失うこともあったようです。パウロはそうした酷い扱いをされることなく、オネシモが善い行いをするようにと望んでいます。

オネシモという名前は「役に立つ」という名前に由来し、当時の奴隷の名前としてよく使われていたものだそうです。だとすると、本名ではないのかもしれません。どこかから奴隷として連れてこられ、その時に名前を奪われ、使用者から呼びやすい名前を付けられた。古来、名前を付けると言う行為には、祈りや呪いのように、特別な意味が見いだされてきました。その一つに自分の支配下に置くというものがあります。少し前の映画ですが、スタジオジブリの「千と千尋の神隠し」でも、主人公の少女、千尋は名前を奪われセンと呼ばれるようになる場面がありました。

フィレモンが住んでいたであろうコロサイの教会は、パウロの仲間、エパフラスの宣教によってできました。しかし、パウロは宣教者として異邦人たちの教会で影響力があり、フィレモンにも何らかの貸し、恩義があったようです。そうした影響力を使って高圧的に命令することも出来たのかもしれませんが、それを匂わす程度にして、フィレモンがオネシモを奴隷としてではなく、イエス・キリストを信じる家族、愛する兄弟として自発的に迎え入れることを頼んでいるのです。

ここでパウロは言葉遊びも使っています。「役に立つ」という名前を付けられたオネシモは、フィレモンのもとから逃げて、フィレモンにとって「役に立たない」者となりました。でも、いまオネシモはパウロのもとで、フィレモンの代わりにパウロの役に立っています。もしフィレモンがパウロを仲間だと言うのなら、オネシモのことも受け入れてほしいというのです。もし、オネシモを受け入れないなら、パウロも受け入れないと言うことになります。

当時、逃亡奴隷を匿ったものに、奴隷の所有者は賠償を求めることが出来たそうです。パウロはオネシモがなにかフィレモンに損害を与えたのなら、自分が賠償するからと言います。これはイエス・キリストの行いを模倣したものと言えるかもしれません。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架の上で死ぬことによって、私たちを罪から解放されました。パウロにとって、キリスト者として生きるという事は、イエス・キリストを模範にして生きるという事なのです。

私たちが祈る「主の祈り」。これはイエス・キリストが教えてくださった祈りですが、その中に「われらが罪を赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という一節があります。この「罪」、とは「負い目」、「負債」を意味します。イエス・キリストは、ご自身が私たちを赦してくださったように、私たちにも他者を愛する兄弟として受け入れ、赦すことを求めておられます。

この手紙をフィレモン個人に宛てず、彼と家の教会の人々に宛てたのも、パウロの戦略であるかもしれません。当時、文書は黙読ではなく音読されていたそうです。この手紙をフィレモンに届けたのがオネシモ自身だとすると、オネシモを主にある兄弟として受け入れるか否か、恩があり牢獄で苦労しているパウロを受け入れるか否か、人前で判断しないといけません。手紙の冒頭で、さんざんパウロに褒められておきながら、最後にそのパウロを裏切るような返答はしにくかったのではないでしょうか。

また、ダメ押しのように、パウロの名前だけでなく、コロサイ教会の創始者エパフラスや、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカといったパウロの協力者たちからもよろしく、との言葉が並んでいます。奴隷は当時、財産でしたから、フィレモンも困ったなあ、と思ったかもしれませんね。手を変え品を変え、なんとかフィレモンから良い答えを引き出そうとしているパウロの姿が浮かびます。

フィレモンはこの後どうしたでしょう?逃げたことを赦し、愛する兄弟として受け入れたでしょうか?

後の文献、紀元1世紀後半から2世紀頭ごろの記録で、エフェソの教会にオネシモという司教、教会の指導者がいたことが記されているそうです。このオネシモが、この手紙のオネシモだという確証はありませんが、その可能性はあります。また、そうであってほしいなと思います。

パウロはただ赦して愛する兄弟として接するだけでなく、それ以上のことをしてくれるはず、とパウロは言っていました。

しぶしぶかもしれませんが、フィレモンはオネシモを赦し、愛する兄弟として受け入れる。しかし、奴隷のままで。それはありえそうなことです。

しかし、パウロが望んだように、フィレモンはオネシモを赦し愛する兄弟として受け入れた上で、奴隷の身分から解放し、自分のもとに留め置かず、パウロのもとに、パウロを助けるために送り返したのではないでしょうか。

そして、オネシモはパウロとフィレモンの期待に応え、宣教者となり、後にエフェソの司教になった。

この手紙は他の手紙とは違い、なにか神学的な教えがあるものではないかもしれません。

しかしその手紙がこうして聖書に残されている。それはエフェソの司教、オネシモが大切にした手紙だったからなのかもしれません。

この手紙は奴隷とされた人々や、社会的に隅へと追いやられた方にとって希望になる書だったと思うのです。今日でも社会の中で抑圧された人々はたくさんいます。そのなかで、私たちはどう生きるべきなのか、そのことを聖書は私たちに指し示してくれています。

私たちもパウロの、そしてイエス・キリストの期待に応えて、互いに愛する兄弟として生きていくことが出来ますように。

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