2026年3月1日 受難節第2主日 マルコによる福音書 3章20~30節

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

目次

<説教> 「赦される」

イエス・キリストはイスラエルの北部、ガリラヤから神の国の福音、良き知らせを教え始めました。

また、病をいやしたり悪霊を追い払ったりと癒しの奇跡も行われたので、たちまち評判になり、多くの人がイエスさまに癒してもらおうと押し寄せたようです。

イエスさまはガリラヤにある湖、ガリラヤ湖の畔にあったカファルナウムに家をかまえてそこを拠点に、あちこちへ出かけて宣教されていました。あるとき、弟子たちと家に帰ると、そこにもイエスさまに癒してもらおうと人々が集まって来て、食事をする暇もないほどの忙しさとなりました。

旧約聖書のイザヤ書35章には、「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」と神が来られるときに起こる回復の奇跡について語られています。イエスさまの癒しを見た人々は、彼こそが約束された救い主だと期待をかけたことでしょう。

けれども、そうした人々とは対照的に、イエスさまのことを「あの男は気が変になっている」と言っていた人もいたようです。それを聞いて、イエスさまの身内、親戚たちが取り押さえに来ました。今日の少し後にはイエスさまの母マリアや兄弟たちがイエスさまを捜しに来た様子が描かれています。イエスさまの身内の人々は、イエスさまが十字架につけられて死に復活した後には、彼が神の子であり、すべての人の救い主と信じるようになりましたが、それまではそのことを理解できませんでした。

それも当然だと思います。想像してみてください。自分の息子が、自分の兄が、自分の親戚が、大工の長男として生まれ、父が亡くなった後はきっと一家の大黒柱として家計を支えていたであろう人が、30歳くらいになった時、ふらっと家を離れてどこかへ行ってしまったと思ったら、人々に神の国について教えている。昔からイエスさまのこと知っている人であればあるほど、何が起こっているのか理解できなかったことでしょう。そして「気が変になっている」という誹謗中傷を聞いた時、それを鵜吞みにして取り押さえにきたのです。「預言者は故郷では敬われないものだ」とイエスさまも言っておられます。神の国の福音というものは、血縁だから分かるというようなものではないようです。

さて、イエスさまの身内の他にもイエスさまについて理解していない人たちがいました。それは聖書の専門家であったエルサレムの律法学者の人たちです。イエスさまがあまりに評判になっていたからでしょうか、わざわざエルサレムからガリラヤにまでやってきて、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言いました。

「ベルゼブル」とは、ヘブライ人と敵対することの多かったペリシテ人の都市エクロンで崇拝されていた異教の偶像で、悪霊の頭と目されている存在のようです。エルサレムから来た律法学者たちは、イエスさまがしていた悪霊祓いの奇跡を目撃し、その力を認めた上で、しかしそれは悪霊に憑りつかれているからで、その悪霊の力を借りて悪霊を祓って見せているのだ。だから、彼は神さまからの預言者ではないし、約束された救い主ではないのだと誹謗中傷し、イエスさまの評判を落とそうとしたのです。なぜそんなことをしたのか、聖書にはそれは妬みのためだったと書かれています。妬み、嫉妬が彼らの心をかたくなにし、耳と目を閉じさせ、イエスさまと敵対したのです。

イエスさまは、身内の人たちと、エルサレムから来た律法学者の人々を呼び寄せ、たとえを用いて語りかけます。

「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」

家も、国も、内輪で争えば成り立たず、滅びてしまう。それは人間の歴史を見れば明らかです。日本でも応仁の乱など、身内で争った結果、たくさんの家が、国が、滅びていきました。今日、世界は分断の時代だと言われます。貧富の差が広がり、生活が苦しくなった不安や不満を外にぶつけたくて、攻撃していい「敵」を作りだすことによって、鬱憤を晴らそうとしているようです。しかし、それは何の解決にもならず、差別や暴力、悲劇を生み出し、国が滅びる結果になっていきます。

これは教会でもそうでしょう。「自分が正しい、優れている!」と「敵」を作って攻撃しても、それは教会が滅びていく原因にしかなりません。神さまは「互いに愛し合いなさい」と言われ、「互いに敬意を持ちなさい」と言われているのですから、滅びたくなければ、互いに歩み寄っていくしかありません。

サタン、悪霊は賢いので、身内では争いません。悪霊は悪霊を追い出しません。その意味では、私たち人間よりも悪霊の方がよっぽど神さまのことを理解しているし、賢いと言えるでしょう。私たちが互いに見下しあって争うとき、私たちは、私たちを神さまから遠ざけようとする悪霊に、まんまと踊らされているのかもしれません。

イエスさまもう一つのたとえを語ります。

「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」

押し入って略奪するとは物騒なたとえですが、今から約2,000年前、イエスさまの時代には戦争が身近にあり、ローマ帝国軍が支配する世界でしたから、そのようなことが日常的にあったのかもしれません。少なくとも、人々が聞いた時、すぐに理解できるようなたとえであったはずです。

「強い人を縛り上げる」とは、悪霊、人を神から遠ざける存在、罪を、神さまの霊が縛り上げ、そして人々を開放し、神のものにするということでしょう。だからこそ、イエスさまは、まず罪の赦しを宣言し、十字架の上で赦しを実現させたのです。福音とは良き知らせ、神の子であり、すべての人の救い主であるイエス・キリストによって、すべての人が赦された!という恵みの知らせです。

イエスさまは続けて言われます。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

私たち人間が犯してしまう罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。イエスさまはそう宣言してくださいます。これはどんなに心強い言葉でしょう。

私たち人間はどんな人も罪があるけれども、神さまから離れてしまい、時に神さまを冒瀆してしまうようなことを言ってしまうこともある。でも赦してくださるというのです。

イエスさまはそれを十字架で殺される際に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈り、体現してくださいました。復活した時、イエスさまを裏切った弟子たちの前に現れて「あなたがたに平和があるように」と語って祝福してくださいました。

イエスさまを十字架につけた人々、イエスさまを冒瀆した人々、そして私たちも赦してくださる。

「神は愛」であると聖書は語りますが、本当にそうなのだとつくづく思います。

聖書の言う「罪」とは、つきつめれば愛である神さまから離れてしまうことです。だからこそ、罪の赦しは神さまの業であり、聖霊の業であり、イエス・キリストの業です。それなのに、神を認めず、悪霊の仕業だというなら、一体誰が私たちを赦し、救うことが出来るというのでしょう。イエス・キリストを受け入れないということは、自ら救いを受け入れないということなのです。

「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とは、そういうことです。神さまが赦すと言っておられるのだから、私たちはそれを感謝して受けるだけでいいのです。

また、イエスさまを通して神さまの霊、聖霊が働いて癒しの奇跡や悪霊が追い払われたのなら、そこにはもう神の国が来ているということであり、癒された人たちは神さまに赦されたということです。それなのに、イエスさまを認めない、悪霊の仕業ということは、イエスさまだけでなく、癒された人々をも侮辱することになり、ひいてはその人たちを赦して癒した神さまを冒瀆することになります。一体自分が何を口にしているのか考えなさい、とイエスさまは身内の人々や律法学者たちをたしなめたのです。

私たちも、時に、自分が赦されるのか不安になることがあるかもしれません。また、誰かを貶めるようなことを言ってしまうかもしれません。しかし、どんな人も等しく神さまは愛して赦してくださる。今日の聖書箇所から、そのことを学び、謙虚に感謝して神さまの赦しを受け取りたいと思います。

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