2026年5月10日 復活節第6主日 ヨハネ福音書 16章12~24節

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

目次

<説教>「喜びのために」

神の子イエス・キリストはすべての人の罪の身代わりになって十字架で死に、そして3日目に復活した後、弟子たちの前に現れて、彼らを赦し、祝福し、教え、そして天へと帰って行かれました。

今週の木曜日にある「キリスト昇天日」はそのことを記念する日です。

神の子イエスさまは、父である神さまのもとに、元居たところに帰って行かれたけれど、この世界の終わりの時に再び帰ってきてくださる。その時には、悪や憎しみは滅び、愛だけが支配する完全な世界になる。私たちはその世界で神の民として、神の子どもたちとして互いに大切にし合いながら永遠に生きるようになる。これが聖書の語っている私たちの希望です。

では今はどうなのでしょう。神さまは、そしてイエスさまは天の国に居られて、私たちとは一緒に居られないのでしょうか。私たちは遠く神さまから離れて、見捨てられたような状態なのでしょうか。そうではない、ということを今日の聖書から見ていきましょう。

神さまのもとから来たイエスさまはご自分の使命を知っておられ、復活した後は天に帰り、弟子たちとの別れが来ることを知っておられました。そしてあらかじめそのことを弟子たちに教えておられました。今日の聖書箇所も先週と同じく、イエスさまの惜別説教の箇所です。十字架にかかる前に、自分が殺される前に、弟子たちにあらかじめこの先に起こることについて、イエスさまは教えておられました。

これからイエスさまは十字架にかけられて殺される。死んで墓に葬られて弟子たちの目には見えなくなる。でも、大丈夫。それは「しばらく」の間。ごくごく短い間のこと。イエスさまと別れて弟子たちは悲しむけれど、またすぐに会うことができ、悲しみは喜びに変えられる。

「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

また、イエスさまは天に帰るから、弟子たちの目には見えなくなるけれど、その時にはもう、弟子たちはイエスさまとの別れを悲しみはしない。イエスさまは復活され、そしてまた帰って来られるのだから。それにイエスさまの代わりに遣わされる聖霊を通していつも一緒にいてくださるのだから。

イエスさまの十字架の苦しみ、弟子たちとの別れという苦しみは、この世が喜ぶため。私たちの喜びのためでした。私たちのために、すべての人のために苦しんでくださった。でも大丈夫。この苦しみは過ぎ去り、思い出されることはない。それに優る喜びがあるのだから。私たちが生かされる、その喜びのためにイエスさまは十字架についてくださったのです。

この時、イエスさまの言われたことは弟子たちには理解できませんでした。でも、いいのです。イエスさまはそのことを知っておられました。今は分からなくても、ご自分の代わりに神さまのもとから遣わされる聖霊によって後に分かるようになると知っておられたのです。

イエスさまは神の子であり、神さまのもとから来られました。神さまはこの世界をお造りになったお方であり、私たち人間をはるかに超えたお方です。神さまのお造りになったこの世界や自然を見て、神さまについて感じることはあるでしょう。でも、不完全な存在である人間には、完全には神さまのことを理解することは出来ない。神さまのことを完全に分かるのなら、それは人間ではないし、人間の力や知恵だけで分かるようならそれは本当の神さまではありません。

では不完全な存在である私たち人間がどうしたら神さまのことを知ることが出来るのか。それは神さまの側からの働きかけ、啓示によるのだと言います。この世界をお造りになり、私たち人間を愛してくださっている神さまはご自分から私たちに働きかけてくださって、度々ご自分を顕された。

聖書には神さまに出会い、み言葉を預かった人々の物語です。神さまは預言者と呼ばれる人々を用いて、たびたび人間に働きかけてくださった。それはギュッと要約するならば、私たちが幸いに生きるために、神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいということでした。

けれども、人間は何度も失敗してきました。そこで最後に、神さまはご自分の子であるイエス・キリストをこの世界に救い主として遣わしてくださった。自力で、正しいことをして救われるのではなく、まず神さまの方が私たちを赦し、救ってくださった。それが十字架の出来事です。自分の知恵や力を誇るのではなく、他者を見下すのではなく、皆が神さまの前では同じ存在であるということを認めること。等しく罪人で、等しく神さまに愛されているのだということを受け入れ、自分の傲りを捨て、遜って、神さまに感謝して一緒に生きるようになるためです。

このことを私たちに教えてくださったのは、イエスさまの代わりに私たちのもとへ遣わされた真理の霊、聖霊なる神さまの働きです。

真理の霊とは真理を悟らせる霊、聖霊、神から遣わされた霊のことです。真理とはイエス・キリストのこと。イエス・キリストによって私たちは赦され、救われたということ。聖霊は私たちをイエス・キリストへと導く方です。私たちはすべて、聖霊なる神に導かれてここにいます。自分の力でも自分自身の功績でもなく、すべては神さまによるのです。

聖霊は風のように自由であり、この世界に今も生きて働いておられる神さまの力のような存在です。イエスさまは弟子たちに聖霊を受けなさいと言われました。今月の末にはその聖霊が与えられたことを祝うペンテコステがあります。

聖霊なる神は、今も私たちと共におられ、聖霊を通して、神さまとイエスさまは私たちと一緒にいてくださいます。目には見えなくても、一緒にいてくださっている。だから悲しむことない。この喜びを私たちから奪える者はいないのです。

キリスト教には大事な儀式の中に、洗礼と聖餐があります。どちらもイエスさまを通して自分たちが神さまと結びつけられたことを心に刻む大事な行為で、洗礼は神さまに良心を願い求め、神さまに従って生きて行くということを表明する大切な時です。

洗礼は、父と子と聖霊、父なる神さまと子なる神さまであるイエスさま、そして聖霊なる神さまの名前によって受けます。だから、洗礼を受けたとき、あなたは聖霊を受けています。あなたには聖霊を通して、イエスさまがいつも一緒に居られます。

洗礼を受けていない皆さん、また、様々な事情があり洗礼を受けられない皆さん。大丈夫です。聖霊はあなたとも一緒に居られます。いま、皆さんがここにいるのがその証拠です。皆さんは聖霊なる神さまに導かれてここにいるのです。

イエス・キリストはすでに十字架によってすべての人の罪を赦し、すべての人を招いてくださっています。洗礼を受けていても、いなくても、私たちに注がれる神さまの愛は変わりません。ではなぜ洗礼を受けるのか。それは、神さまの愛を受け入れて、神さまに従って生きて行こうという決意表明です。私たち人間は弱く、時に不安になります。神さまは本当に私を愛してくださっているのだろうか、私と一緒にいてくださっているんだろうか。そんなとき、大丈夫だ。だって自分は洗礼を受けたんだからと思うことが出来る。洗礼は自分が神さまに愛されていることを想い出させてくれます。だから、何か特別な事情がなければ、洗礼を受けませんかとお勧めしています。何も資格はいりません。イエスさまが自分を愛してくださっていると信じたいという気持ち、そしてイエスさまに従って生きたいと思う気持ちがあれば十分です。もし興味があれば、牧師までご相談ください。

洗礼は自分が立派だから、人より清いから受けるのではなく、イエスさまに従って生きたいと思うから受けるもの。それは私たち私たちを安心させるために、私たちの喜びのために、与えられたものです。私たちを愛し、悲しみを喜びに変えてくださる神さまを信頼して、今週も一緒に歩みましょう。

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