六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
<説教>「わたしの愛する子」
先日はこども園で第五回目の卒園式がありました。黎明幼稚園から認定こども園しののめになって初めて入園した乳児さんたちが卒園するということで感慨深かったです。卒園していった子どもたちの人生の上に祝福が豊かにあり、楽しい小学生生活となりますように。また子どもたちのためにいつも心を砕き、力を尽くしてくださっている教職員の皆さんや保護者のみなさん、地域の皆さんにも、主の顧みと労い、祝福が豊かにありますように。
私たちはいまレント・受難節の歩みをしています。この時期、私たちは自らの歩みを振り返ります。教会も園も、それぞれに課題があります。また、私たちそれぞれの人生においても、様々な課題に直面します。時に、闇の中にいるような無力感や葛藤、苦しみに囚われる時もあります。けれども、闇の中から光を輝かせてくださった主が共にいることを覚えて希望を頂き、乗り越えていけたらと願います。
さて、今日の聖書箇所は先週の続きです。イエスさまと弟子たちはガリラヤの北フィリポ・カイサリア地方に行かれました。そこでご自分が受けようとしている迫害と死、そして復活について教えはじめられました。それからしばらくして、イエスさまは弟子たちの内のペトロとヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登ります。その山がどこの山なのか、聖書には詳しく書かれていません。
一行が高い山に登ると彼らの目の前でイエスさまの服が白く輝き、モーセとエリヤと語り合ったのだそうです。白は聖なる色であり、清さの象徴です。聖書には「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。」(イザヤ1:18)という言葉があり、またダニエル書の幻でも、神さまの衣は「雪のように白い」と言われています。
エリヤは預言者を、モーセは律法を代表する、旧約聖書の登場人物の中でも大きな働きをした二人です。イエスさまより何百年も前に活躍したはずのその二人がイエスと語り合っていたという不思議な光景です。それ見て恐れ、動転した弟子たち。
よく分からないままにペトロが仮小屋を三つ建てると口走ります。仮小屋とは、お地蔵さんを祭っているお社みたいなものを想像すると分かりやすいかもしれません。旧約聖書でもヤコブが夢で天使が現れたことを記念して石を立て、ベテルと呼んだという記事があります。何かを記念し、祀るということ、礼拝所を建てるということは、世界中の色んな宗教にも見られますから、人間の根源的な営みなのだと思います。また、そこに自分の理解を越えたものを留めておきたいという人間的な思いもあるのかもしれません。よく分からなくて怖い、恐ろしい。だから祀ってなにか祟りがないようにしたい。ペトロもそのように感じ、思わず口にしたのかもしれません。
そのような彼らの周りを雲が覆い、声が聞こえてきました。聖書では雲はしばしば神さまの臨在の証しとして描かれています。出エジプト記でも、雲の柱によって神さまはヘブライ人たちを導かれました。神さまはイエスさまを指して「これは私の愛する子、これに聞け」と言われます。イエスさまは神さまの子、愛されている子ども。その人に聞きなさいと言われます。よく分からない存在として祀り、自分から遠ざけるのではなく、イエスさまの教えを聞き、教えに従って生きるという関係を求めておられるのです。
一同が山を下りたとき、イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じました。福音書の中には、イエスさまが奇跡的なことをした後などに他の人には言わないように命じる記事がいくつかでてきます。しかしここでは、復活するまではとの条件が付けられています。
イエス・キリストの目的はすべての人の罪の身代わりに十字架について死に、そして復活することでした。それが成し遂げられた後は、神さまの約束が実現した後は、そのことを話してよいのです。
私たちが信じ、希望をかけている福音とはまさにこのことです。あの十字架で殺されたイエスさまこそが、私たちすべての人の救い主であり、神さまの子どもです。
レント、そしてイースターはイエスさまの受難と復活を記念する時です。イエスさまは神さまから「わたしの愛する子」と呼びかけられています。しかし神さまは、その愛する子を、すべての人を救うために犠牲としてくださった。それは尋常ではないできごとです。
山の上、そして愛する子の犠牲という出来事は、旧約聖書のアブラハムとイサクの物語を思い出させます。信仰の父と呼ばれるアブラハムには長らく子どもが出来ませんでしたが、年齢を重ねてから待望の子どもイサクを神さまから授かります。それはどれほどの喜びだったことでしょう。しかしあると神さまから「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22章2節)と命じられます。
昔の礼拝は神さまに捧げものをすることがその中心であり、中でも動物の犠牲を捧げることが重視されていました。動物を殺し、火で焼いて神さまに奉げるのです。その犠牲の動物のように息子イサクを神さまに奉げよというのです。それはアブラハムにとって、どんなに苦しいことだったことでしょう。それでもアブラハムは神さまに従い、イサクを捧げようとしました。彼が刃物を取りイサクを殺そうとした瞬間、神さまはアブラハムを止め、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として雄羊を与えたという物語です。
これだけ聞くととても酷い命令のように思いますが、なぜ神さまはこのようなことを命じられたのでしょうか。聖書では神さまがアブラハムの信仰を試したのだと描かれていますが、イエス・キリストの十字架から考える時、他の読み方も出来るように思います。それは、人間を犠牲として用いることの禁止という読み方です。神さまはイサクが犠牲になることを止めました。また、他の箇所でもイスラエルの人々がモレクという異教の神々に自分の子どもを犠牲として捧げることを禁じておられますし、そのような行為に対して怒っておられます(レビ記20章、列王記17章、エレミヤ書7章)。
今日の私たちには想像しにくいことですが、人間を神さまに奉げて神さまから恵みを引き出そうとしたり、怒りを鎮めようとすることは古くから人類が世界中でしてきたことでした。南米のアステカ文明での生贄が有名ですが、この日本でも橋や城を築くときに人身御供といって生贄が捧げられたと言われています。また、何か困難が起こった時、「敵」を作り出し、誰かのせいにして集団内の結束を高めようとすることは今日でもよく見られる行動で、スケープゴートという言葉で知られています。しかし、神さまはそのような犠牲をイエス・キリストの十字架を通して止めさせようとしておられる、そう思うのです。
聖書を読むとき、キリスト教徒でなくとも、信じるとまではいかなくても、弱い人や苦しむ人の側に立たれ、愛を教えたイエスさまには好感を持つ方が多いのではないでしょうか。そのようなイエスさまが、私たちの罪の身代わりになってくださった。私たちの罪のせいで、私たち自身のせいでイエスさまが十字架で殺されたのだ、そう自覚する時、私たちは辛く悲しい気持ちになります。でも、その気持ちが大事なのだと思うのです。だからこそ、誰かを犠牲にする行為はダメなことなのだと私たちは強く自覚できるのではないでしょうか。誰かを犠牲にすることはもう止めよう。そのために、神の子であるイエスさまが最後の犠牲を引き受けてくださったのです。
キリストは「多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(ヘブライ9章28節)と言われています。
キリストの犠牲はただ一度きり。他の救いはありません。もう大丈夫、誰かを犠牲にする必要はない。他ならぬ神さまが、私たちを赦すと言ってくださった。だから私たちがすることは、誰かを犠牲にすることではなくて、神さまが求めておられるように、互いに愛し合うことです。
イエスさまはご自分に聞き従う私たちに、兄弟姉妹と親しく語りかけ、親に語りかけるように祈ることを教えてくださいました。神さまはイエスさまを通して、私たちのこともご自分の愛する子といってくださっています。すべての人は神さまに造られた神さまの愛する子。神さまに愛されている存在として、互いに大切にし合って生きて行くことが出来ますように。
