2026年3月8日 受難節第3主日 マルコ福音書 8章27~33節

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 

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<説教>「受難の予告」

聖書日課で、エレミヤ書を読んでいます。神さまはエレミヤを通してこのように語っておられます。「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ書22章3節)、「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事 その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ書9章22~23節)。大国による暴力や、格差の拡大、差別や政治の腐敗が蔓延る世にあって、聖書の言葉に耳を傾け、希望を頂きたいと思います。

受難節・レントの時期も、そろそろ折り返しです。今日の聖書箇所も、マルコによる福音書のだいたい真ん中に置かれています。聖書学によると、記事の真ん中に最も伝えたいことを置くという手法があるそうです。そう考えると、今日の記事も福音記者マタイが私たちにとても伝えたいメッセージが置かれていると言えるでしょう。それはどんなメッセージなのでしょうか?

イエス・キリストは弟子たちと共に、ユダヤ人の住む地域を越えて、色々な所に宣教に出かけました。それは神さまの救いは、国籍や民族などの属性に関係なく、それらの隔てを越えて広がっていく、それこそが神さまのご意思だということを私たちに教えてくれます。

今日の物語の舞台となったフィリポ・カイサリア地方の村々も、様々な民族が共に暮らす地域でした。ここはガリラヤ湖から北へ約60㎞行ったところで高い山の麓にあたり水が豊かで、ヨルダン川の源流の一つでした。また、アレクサンダー大王の遠征によってヘレニズム化した影響でしょうか、ギリシャ神話に出てくる半人半獣のパーンへの信仰が盛んな所だったようです。

またこの地方の由来となったフィリポ・カイサリアは、ローマ帝国に臣従したヘロデ大王が、初代ローマ皇帝アウグストゥスに与えられた都市で、そのことを感謝して皇帝の像が置かれたそうです。後にヘロデ大王の息子ヘロデ・フィリポが整備し、時の皇帝ティベリウスに敬意を表すためカイサリアと名付けました。そして、地中海沿岸にあったカイサリアと区別するために自分の名前を付けてフィリポ・カイサリアと呼びました。

ローマ帝国に臣従するユダヤ人の領主が治める地方であり、異教の偶像と皇帝崇拝がなされている、そのような場所でイエス・キリストは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問いかけました。

弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

洗礼者ヨハネは預言者として人々に悔い改めるよう呼びかけ、ヨルダン川で洗礼を授けていた人です。多くの人から支持を得ましたが、その人気を恐れたヘロデの息子の一人でガリラヤとヨルダン川東岸の領主であったヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、この時にはすでに殺されていました。

それなのに、なぜ人々はイエスさまのことを「洗礼者ヨハネだ」と言ったのでしょうか?当時、死んだ人の霊が、他の人に受け継がれるという考える人がいたようです。旧約聖書に出てくる預言者エリヤと弟子エリシャの物語でも、エリヤの霊がエリシャの上にとどまっていたという記述があります。だからでしょうか、洗礼者ヨハネを殺害したヘロデ・アンティパスも、洗礼者ヨハネが捕らえられた後に活躍したイエスさまの評判を聞いて、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」(マルコ6章14節)と言ったそうです。

また、イエスさまのことを預言者エリヤや預言者の一人と考える人もいました。エリヤはイエスさまより900年ほど前に活躍した預言者です。聖書には彼の死の明確な描写はなく、天に上げられたとされています。そして後に、救い主が来る前には再びエリヤがやってくると考えられるようになりました。

人々はイエスさまのことを、救い主がやってくる前に現れるはずのエリヤか、そうでなくても、神さまから遣わされた預言者の一人だと考えていたのです。

イエスさまは重ねて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけました。なぜイエスさまはこのような問いかけをしたのでしょう。ご自分の評判が気になったのでしょうか。そうではなく、弟子たちを教えるためでした。今日の聖書の舞台、フィリポ・カイサリアの地方は、異教の神々やローマ皇帝など、偶像が崇拝されている場所でした。そのような様々な価値観がある中で、あなたがたは私をどう見ているのかと問われたのです。

弟子たちを代表して、一番弟子のペトロが「あなたは、メシア(救い主)です」と答えます。こここそが、今日の聖書箇所の最も言いたいところでしょう。イエスはキリスト、メシア、救い主です。ペトロは正しい答えを言いいました。

しかし、それを聞いてイエスさまは御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められました。正しい答えを言ったはずなのに、なぜでしょうか?それはきっと、弟子たちが「メシア」について勘違いしていたからではないでしょうか。

弟子たちが、そして当時の人たちが考えていたメシアとは伝説的な王ダビデのような人で、外国の支配から自分たちを武力で解放してユダヤ人の王国を建てる王の姿でした。弟子たちの中には、イエスさまが玉座に着く時が来たら、自分を大臣にして欲しいと望んでいた者もいました。けれども、神さまの思いは私たち人間の思いとは異なっていました。

イエスさまは弟子たちに、これからご自分が受ける苦難、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、そして復活することについて教え始めました。

しかし、弟子たちにはイエスさまが何を言っているのか分かりません。復活とは何のことだ、それより、王になるはずの方が死ぬだなんて!「そんな不吉なことを言わないでください、あなたに期待をかけている人たちが動揺してしまいます。」そのように思ったのかもしれません。ペトロはイエスさまをわきへお連れして、いさめました。

するとイエスさまは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。

ペトロがイエスさまとの会話を聞かれないようにとわきに連れていさめたのに対して、イエスさまは、振り返り弟子たちを見ながら、ペトロを叱りました。これは弟子たちが思い違いをしていることを教えるためでした。このことは、イエス・キリストの弟子として生きようと望む私たちにも向けられています。私たちもしばしば自分の都合のいいように神さまを見てしまうことがあります。

キリスト教国でも、戦争の際に神さまに加護を求めて祈ったりする姿をテレビなどで見たことがあります。しかし、神さまは「殺してはならない」と言っておられます。私たちの思いではなく、神さまの想いがなんなのか、それを私たちは聞かなくてはなりません。

ペトロはイエスさまに玉座に座る栄光に満ちた力強い王としてのメシアを期待しました。しかし、神さまの想いは、神の子であるイエスさまがすべての人の罪の身代わりに十字架にかかるという苦難の道でした。それはイザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」としてのメシアです。自分の功績によらず私たちは十字架によって救われた。それは神さまに感謝しながら、誰もが自分自身を誇らず他者を見下さず、お互いに敬意を持ち大切にし合う愛の道を示してくださるためでした。

イエスさまはペトロに、「サタン、引き下がれ」と言われました。間違ったにしろ、弟子にサタンとはひどいと思うかもしれません。ここで使われている「引き下がる」と訳されている言葉は、「私の後ろに下がりなさい」という風にも訳せます。私から離れてどこかへ行きなさいと突き放したのではなく、私の後ろに下がりなさいと言われた。イエス・キリストは弟子たちの模範となるべく行動されました。私たちも何かを倣う時には、先生の後ろで先生のすること見て学びます。そのように、イエスさまは間違ったペトロに、そして私たちにご自分の後ろに回り、弟子としてご自分についてくるようにと言ってくださるのです。

目の前には受難と死が待ち構えている。けれども、イエスさまは逃げません。その先には必ず復活があると知っているから。私たちもイエスさまを復活させてくださった神さまを信じ、苦難の中でも、イエスさまの後に続く弟子としての歩みを続けましょう。

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