2026年5月3日 復活節第5主日 ヨハネ福音書 15章1~17節

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

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<説教>「イエス・キリストの友として」

今日の聖書箇所はイエス・キリストがすべての人の罪の身代わりに十字架にかかって死ぬ前に、弟子たちに語った惜別説教の一部です。イエスさまは十字架で死に、復活し、そして弟子たちの前に現れた後、天へと帰って行かれましたが、別れを前にして弟子たちに大切な教えを語って行かれました。

イエス・キリストはたとえを用いて教えておられましたが、今日もそのような箇所です。ここでは、イエスさまは「まことのぶどうの木」、神さまはそのぶどうの木の所有者である農夫、弟子である私たちはイエスさまという「まことのぶどうの木」に繋がっている「枝」として表現されています。

「ぶどうの木」は旧約聖書ではしばしばイスラエルの人々を指すたとえとして用いられてきました(イザヤ書1章、エレミヤ書2章、エゼキエル書15章など)。神さまは良い実のなるぶどうの木としてイスラエルを良い土地に植え、世話をされてきた。しかし、イスラエルは神さまに背き、離れ去り、酸っぱいぶどうの実をつける悪いぶどうの木になってしまった。神さまはなんとかしてご自分のもとへ帰らせようと預言者たちを遣わしたけれども、イスラエルは預言者たちを迫害し、殺してしまった。そこで神の子であるイエスさまが「まことのぶどうの木」として来られたのです。それは、イスラエルの人々の失敗を正し、「アブラハムを通してすべての人々が祝福される」(創世記12章3節)という神さまの約束を完成させるためでした。

今日の聖書箇所の冒頭、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」というのはなんだか怖い気がします。自分を振り返ってみたとき、自分は良い実を結ぶ枝だとはなかなか思えないからです。イエス・キリストを自分の救い主だと信じていても、良い実を結ばない枝だと神さまに判断されると取り除かれてしまうのでしょうか?イエスさまは私たちを脅して、良い実を結びなさいと言っておられるのでしょうか?

そうではないようです。イエスさまは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と言っておられます。

ぶどうの枝は木に繋がっていないと栄養を貰えず、実を結ぶことは出来ません。それと同じように、私たちもイエスさまに繋がっていないと実を結ぶことが出来ない。でも大丈夫、私たちはすでにイエスさまに繋がっている。イエスさまは「わたしに繋がりなさい」ではなく、「わたしに繋がっていなさい」と言われました。時に自分に自信が持てない時もあるけれど、イエスさまは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言っておられます。イエスさまは、弟子たちを脅して言うことを聞かせようとしたのではなく、「あなたがたは、私に繋がっているのだから、良い実を結ぶことが出来るのだ」と励ましを語られたのだと受け取りたいと思います。

では弟子たち、私たちが結ぶ良い実とはどのようなものなのでしょうか?良い実のたとえは新約聖書の中でも色々出てきます。異邦人への宣教者パウロはガラテヤ書5章で、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」だと語っています。これらは、誰が聞いても良いことだと思えるものでしょう。これらの良いことを一言で言うならば、今回のイエスさまが語られた「互いに愛し合う」ということです。この良い実を私たちが自分たちの力だけで結ぶことは難しい。

でも、大丈夫。私たちにはイエスさまが一緒にいてくださっています。イエスさまが私たちと繋がってくださっています。たしかに、私たち自身の力だけでは良い実を結ぶこと、互いに愛し合うことは難しいかもしれない。でも、大丈夫。私たちはイエスさまに繋がっている。私たちを愛し、私たちのために、私たちの身代わりに命まで捨ててくださったイエスさまが、私たちといつも一緒にいてくださっている。お互いに愛すること、これはお互いに大切にすると言い換えても良いと思いますが、そのことが難しいと思うとき、イエスさまのことを想い出しましょう。

私たちはイエスさまに選ばれ、ここにいます。私たちがイエスさまを選んだのではなく、イエスさまが私たちを選んでくださったのです。それは自分たちが特別だと誇るためではありません。自分で出来なくても、神さまがいてくださるから大丈夫と私たちを励ましてくださるためです。

イエスさまはご自分に従いたいと思う弟子たち、私たちに掟を与えられました。それは「互いに愛し合うこと」です。これ以上に大切な教えはありません。イエスさまに繋がっていると言いながら、互いに愛し合わないならば、それはイエスさまに繋がっていないのと同じことだとイエスさまは言っておられます。

イエス・キリストに従う私たちにとって最も大切なこと。それは互いに愛し合うこと、互いに大切にし合うことです。それは私たち自身のためでもあります。私たちが互いに愛し合うとき、イエスさまは喜んでくださり、私たちもイエスさまの喜びに与って、一緒に喜ぶのです。

イエスさまは弟子たち、私たちを友と呼んでくださり、私たちのために命まで捨ててくださいました。それほどまでに私たちはイエスさまに愛されているのです。

私たちはイエスさまを救い主と呼びます。主とは主人・マスター・ロード、主君、仕えるべき人のこと。従うべき人のことを指します。主人に対する反対語は僕です。聖書の書かれた当時は階級社会であり奴隷制がありましたから、とてもしっくりくるたとえだったことでしょう。

私たち人間は愛である神さまに背き、自分勝手に生きる、罪に支配されている罪の奴隷のような存在でした。奴隷から解放されるには身代金を払って買い戻される必要がありました。神の子であるイエスさまはご自分の命を身代金に、私たちを買い取ってくださった。もはや私たちの所有権は罪にあるのではなく、イエス・キリストにある。その意味で、私たちはイエス・キリストの奴隷、僕、所有物となった。でも、イエスさまは並の主人ではありません。普通であれば、自分の所有物のために命を捨てる主人はいません。でも、イエスさまはご自分の命を私たちに差し出してくださった。

奴隷が解放されるにはもう一つ方法があります。それは主人が解放するという方法です。私たちの身代金は膨大で、自分自身では払いきれないものだけれど、私たちの主人であるイエスさまは、私たちを愛し、無償で解放し、自由にしてくださった。いわば私たちは解放奴隷です。そして、イエスさまは私たちを買い取り、解放しただけでなく、私たちのことを友と呼んでくださいます。

奴隷は主人の意を忖度するということはあるでしょうが、基本的には主人の言うことだけをこなします。下手に動いて主人の機嫌を損ねて罰を受けるのが嫌だからです。自分にとって利益にならないことはしないものです。

でも、イエスさまは私たちを僕、奴隷ではなく友としてくださいました。友は友のために自分で考えて行動します。自分の頭で考えて友を喜ばそうとします。

イエスさまの友とされた私たちはもう言われたことだけをする奴隷ではありません。自由な人間として、「互いに愛し合って欲しい」、「互いに大切にし合って欲しい」と望んでおられるイエス・キリストの友として、共に歩んでいきましょう。

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