2024年 1月 28日 降誕節第5主日 マタイによる福音書 6章9~13節

9 だから、こう祈りなさい。

  『天におられるわたしたちの父よ、

  御名が崇められますように。

10 御国が来ますように。

  御心が行われますように、

  天におけるように地の上にも。

11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12 わたしたちの負い目を赦してください、

  わたしたちも自分に負い目のある人を

  赦しましたように。

13 わたしたちを誘惑に遭わせず、

  悪い者から救ってください。』

目次

「だから、こう祈りなさい」 大倉一郎 牧師

1. 「祈り」について次のような言葉があります。「どの宗教であれ、もっとも偉大な祈りとは、全世界そして地球全体に訴えるものである。」ある聖書学者の言葉です。この人は30年間余り「主の祈り」を学び続け、晩年に『最も偉大な祈り(The Greatest Prayer)』)という書物にまとめました。その本の一節にこの言葉を記したのです。「どの宗教であれ、もっとも偉大な祈りとは、全世界そして地球全体に訴えるものである。」この言葉に照らして私自身の日頃の祈りをふり返りますと、何だか未熟な祈りで過ごしていることが多いなと恥じ入る思いです。しかし、現状の自分に留まらず改めて祈りの生活においても成長していきたいと思います。

2. 成長する祈りは幾つかの段階をたどるでしょう。最初の段階は願いの祈りです。私たちは、様々な苦情、請願などを神に祈ります。その祈りは次に新たな段階に進みます。それは感謝の祈りの段階です。私たちの日常の祈りはほぼこの感謝、賛美の祈りのようです。しかし、それはまだ祈りの途上です。祈りにはさらに成熟する段階があると思います。それを勇活(エンパワーメント)の祈りの段階と呼べそうです。ただ人任せや言葉だけの神頼みに終わらない祈り。示された課題に勇気をもって自分なりに直面できるような祈り。直面して行動する勇気と知恵を尋ねる祈りです。イエスの祈りにならって祈る祈りです。イエスの後に続いて隣人や世界の平和を求めて、その課題のために自ら担う行動や知恵を神に聴く祈りです。冒頭に申し上げた聖書学者が語った祈り、「全世界そして地球全体に訴える」祈りとは、言い換えれば勇活の祈りそのものなのではないでしょうか。

3. イエスは「主の祈り」をまさに勇活の祈りから祈り始めています。先ず始まりの言葉に注目しましょう。日本語では「天におられる私たちの父よ」と始まりますが、マタイ6章9節のギリシャ語の最初の言葉は、「パーテル(Πάτερ)」という言葉で、「父」を意味します。イエスは神に「父よ」と呼びかけます。しかし、神を「父」と呼ぶのは、しばしば男性中心・家父長制的な意味をもつ呼び名だと指摘されます。事実、その意味でも用いられる言葉です。イエスも同様に考えて神に「父」と呼びかけたのでしょうか。私はそうではないと思います。それではイエスはどういう意味で「父」という言葉で神の名を呼んだのでしょう。

4. 私たちはイエスを古代ユダヤ社会の言語と宗教の中に生きた人として見つめ直す必要があります。そこには注目すべき二つの点があります。第一は、イエスは神が極めがたい御方であるという古代イスラエルの信仰の伝統を受け継いでいたということです。古代イスラエルの信仰では、神は、人類の創造者、庇護者など多様にイメージされてきました。ヨブ記は神に対して徹底的に問うたヨブの告白を次のように記しています。「私は理解できず、私を越えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(ヨブ42:3)。ヨブは自分の理解を越える神の業を認めることによって、極めがたい神のイメージを示唆しています。古代イスラエルの信仰者にとって神は根本的に極めがたい神だったのです。極めがたい神ゆえに神のイメージは様々な「隠喩」を用いて語らざるをえなかったということです。隠喩とは「何かのように見る」ことです。同僚が椅子にぶつかって「マジ死んだ」といっても、私たちはそれが喩えだと分かっています。神を時として「父」と呼んでも、神は「父」そのものではありません。

5. 第二は、この男性呼称の「父」は、十戒からイエスの取り上げた安息日規定まで、「世帯主」を意味しています。聖書には男性中心の偏見も見えます。その男性中心の考え方は言葉の表現にまで影響し、「父」は「父母」というべき表現の省略形として使われました。しかし、省略形はあくまでも省略形で「父母」の存在の事実を消し去ることはできません。しかも古代ユダヤの理想では「父母」は、子どもに対する保護者である「親」というより、一族郎党まで含んだ「世帯主」を意味する言葉でした。世帯主は、世帯の全員にもれなく公正な分配と必要の充足をめざす存在であるというイメージでした。以上の意味の世帯主、公正・正義・公平・平等な人類家族の世帯主を拡大したのが、聖書の示す「世界という家の世帯主たる神」のイメージです。イエスが神を「天の父」と呼ぶのは、神を「地球の世帯主」と呼ぶのと同じことでした。イエスは「父」と呼んで「世界という家の世帯主たる神」に呼びかけていたと言うべきでしょう。

6. イエスは「地球の世帯主」たるこの神にむかって、彼の願いを祈り始めます。その最初の願いは、神の「み名があがめられますように」との祈りでした。ここにイエスの勇活の祈りがはっきりと祈られています。イエスは、開始早々、神の「名」を「あがめるものでありたい」と祈るのです。ところで、「名前」とは、その名前で呼ばれる存在の「評判」とか「アイデンティティ(存在の内実)」を意味する言葉です。神の「み名」とは神の評判です。評判が良ければ「名をあげる」と言うではありませんか。称賛に価すれば「その名で呼ばれる存在の内実を価値あるものとして示した」と言うことです。

7. それでは「世帯主」たる神の評判や賞賛すべき内実を「あがめる」とは?聖書の伝統では、それは二つの道で行われます。ひとつは礼拝において神に畏敬を表すこと。これは私たち自身が、いまそうしていることです。しかし、もう一つの聖書的伝統があります。それは、神を模範として生きる人の生き方そのものによって実践される「あがめる」です。イエスがもっとも大切にしたのは後者でした。「地球の世帯主」の公正と慈しみを模範として生きようとする生を志す祈りだったのです。イエスは彼に続く人類にその志を残したというべきでしょう。主の祈りの後半に続く祈りはその具体的な生き方をたどることが貫かれています。それは日毎の必要以上は求めない生き方です。自分と隣人の弱さを知ったうえで、赦し合う生き方です。さらに悪の誘惑から守ってくださいとの祈りも、その意味は、神の支えを求めつつ同時に担うべき課題からは逃げ出さない生き方を祈っています。

8. 10節に再度注目しましょう。イエスは、「御心が行われるように…地にもなさせたまえ」と祈っています…。しかし、私たち人間の大きな苦しみは、目の前に繰り広げられてきた不公正に対する神の意志を見出せないことにあります。神は不公正に処罰を与えないのか?それだけが現実ならば、全ての人の心にある公正的正義への渇望は死んでしまう他ないのだろうか?その疑問に対する「生きられた答え」があります。イエスの生と死と甦りがその答えではないでしょうか。イエスは彼の時代の最強の帝国とそれに追従した支配者の手で理不尽に殺されています。「み心」の地上における実現を祈ったイエスの祈りは無意味だったのでしょうか。

9. イエスは、神の「み心」に応えて真摯に生きようとしました。彼の非暴力抵抗の生き方と死はそれを示しました。それゆえにイエスはひとりの人間として葛藤しながらも、最後まで真摯に非暴力抵抗を貫こうとしました。その彼の心はイエスのゲッセマネの祈りにおける結びの祈りに示されています。イエスは「み心のまま」と祈って十字架の道に踏み出しています。「み心のまま」というのは自分が強いられる理不尽な死を承知しながら、神の意志に倣うことを貫くことだったのです。その結果は彼の理不尽にしか思えない残酷な死でした。しかし、神の「み心」そのものが、非暴力をもってしか実現されない内容だったからです。神の「み心」は世界の世帯主としての公正と誰一人漏らすことのない充足への意志に他なりません。イエスはそれを神への信頼のうちに徹底的に生きて殺されたというべきでしょう。

10. しかし、人間の歴史は驚くべき逆説を示してきました。私たちがいま知る歴史はどうでしょうか?イエスの死の後に彼を殺した者たちは歴史の過去に過ぎ去りました。しかし、神の「み心」を生きようとイエスが踏み出した歩みは過ぎ去ってはいません。神の「み心」を歴史の現実にと志した人々の歩みは、人類の勇気の源としていまも過ぎ去らずに続いています。「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」というイエスの祈りは、彼は確かに殺されて死んだが、いまも私たちの中に生きていると信じる信仰と共に、絶えることなく、公正、正義、平和、幸いを求める人々に非暴力抵抗の闘いによって生き続ける勇気を与えています。

11. イエスの残した「主の祈り」は、「キリスト教会」を器に「聖書」に記録され、二千年間余り伝えられてきたという歴史的事実をもっています。それにもかかわらず、キリスト教会の繁栄や興隆のための祈りではありません。この祈りは端的に神を誉め、神に応えて生きる人間性を求めて祈っています。この祈りを人間性のための神との交わりの言葉と受けとめるとき、私たちには、人生を人間らしく隣人と共に生きる可能性を広げていく神との対話が始まります。私たちは人類の一員として次代の人間と人間性のために課題を担っています。その課題を担う人は人間性の深さと高さを自分自身にも求めるでしょう。そのような人にその人自身と他者のための支えの力を、この祈りは与えてくれます。「主の祈り」は勇活の祈りです。私たちも世界の公正な世帯主なる神に応える人間でありたい。イエスの祈りに導かれ、イエスと共にその応答の道をたどる一人でありたいと思います。Ω

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