11 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
12 信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
13 万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。
14 わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。
15 神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、
16 唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。
<説教> 「信仰の戦い」
先週は聖霊降臨日、ペンテコステでしたね。ペンテコステの次の日曜日である今日は、「三位一体主日」とされ、父と子と聖霊なる神を記念する日です。この世界をお造りになった神が約束された通り、キリストが来られ、キリストが約束された通り、聖霊が来られた。以前の約束が実現したように、これからの約束、イエス・キリストが帰って来られるという約束も必ず実現するという希望が私たちには与えられています。
せっかくなので、三位一体について触れてみます。もう何度もお聞きになった話かもしれませんが、少しお付き合いください。
三位一体はこのように説明されます。
父、世界の造り主は神である。子、イエス・キリストは神である。聖霊、神の霊は神である。
父なる神は子なる神ではなく、子なる神は聖霊なる神ではなく、聖霊なる神は父なる神ではない。三つは異なるが同質であり、一つである。
他にも、アイルランドの守護聖人、聖パトリックが三つ葉のクローバー(シャムロック)用いて三位一体を説明したという逸話があります。どのように説明したのかは分かりませんが、もしかしたらこうだったんじゃないかというものをご紹介します。
三つ葉のクローバーにはハートの形をした葉が三つあります。一つは父なる神、一つは子なる神、一つは聖霊なる神を表します。このハートの形に表されるように、それぞれ私たちを愛してくださっています。でもどれか一つでは神の全体像は私たちには分かりません。三つのハートの形の葉がそろってようやく、神の全体像、三つ葉のクローバーが分かる。そのような説明だったのかなと思います。
世界をお造りになった神も、将来に帰って来られるイエス・キリストも、いま私たちの間で働いておられる聖霊も、みな一つの思いで私たちを愛してくださっている。
過去も今も将来も、神はいつも私たちと一緒におられると思っていただいたらいいのだと思います。
さて、教会の暦、教会暦では、この三位一体主日からアドヴェントまでは「教会の半年」と呼ばれます。聖霊を与えられた私たち信仰者が、聖霊に励まされながら、主の愛に応答していくことを学ぶ期間です。
キリスト教の信仰は主イエスを信じて終わりではありません。洗礼は終わり、ゴールではなく始まりだと言われます。私たちの罪を赦して救ってくださったイエスの愛に応えていく人生の始まりです。
私はキリストを信じた。それでいいじゃないか。教会も信仰の仲間もいらない。そう思った時期が私にもありました。しかし、それは間違いでした。そのとき、私は傲慢になっていました。
思い上がり、他者を見下し、裁くようになっていました。私はそのような情けない存在です。
信仰者の先輩である私の祖父は言いました。「信仰は教会での生活を通して鍛えられるのだ」。
パウロも鍛えられることの重要性を語っています(Ⅰテモテ4章7節)。
私たちは時に間違います。同じクリスチャン同士でも争います。間違いは怖い。間違いたくない。
でも間違いを通して、失敗を通して、私たちは成長していきます。
私は普段、月寒教会と一緒にある、こども園しののめでも過ごさせていただいています。園の先生方は、子どもたちに様々なことを経験する機会を大切にされているのですが、それには成功体験だけでなく、失敗する体験も含まれています。そうして子どもたちは成長していきます。その様子を見ながら、私たちの教会生活も、そして人生も、そうした学びの場だと思うのです。
どんなことも、「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」(Ⅰテモテ4章4節)とパウロは言っています。これは食べ物に関して言われた言葉ですが、人生出来事においてもそうなのではないでしょうか。
私たちは成功からも、失敗からも学び、励まし合い赦しあうことを学びながら、信仰生活を全うしようとそれぞれの人生を歩いていくのです。
私は基本的に日本キリスト教団の聖書日課を用いて聖書箇所を決めていますが、今週指定されている箇所も、この世にあって信仰生活を送る私たちを励まそうとして選ばれた箇所だと言えるでしょう。
今日の聖書箇所、テモテへの手紙は、異邦人への使徒パウロから、同労者であるテモテへ宛てられた手紙です。実際にパウロが書いたかどうかについては様々な理由から疑問視する意見もありますが、今日はパウロが書いたものとして読んでいきます。
手紙の宛先であるテモテは、お母さんがユダヤ人のキリスト者、お父さんがギリシア人です。
パウロから「信仰によるまことの子」と呼ばれており、パウロから洗礼を受けたのかもしれません。
彼はパウロから信頼され、エフェソの教会を任されました。それは異なった教えから教会を守るためでした。そのために、テモテを励まし、また忠告を与えるためにこの手紙は書かれたようです。
今日の箇所は途中から始まっており、何かを避けるように言われています。少し前を読むと、金銭の欲を避け、信仰から迷い出ないようにと警告されています。私たちプロテスタントでは労働は良いことと考えます。イエス・キリストの愛の教えに従って社会の一員として働くことは尊いことですが、ときに私たちは目的と手段を取り違えてしまうことがあるのではないでしょうか。
パウロは私たちの信仰生活は、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れ」ることと、「清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指す」(Ⅰテモテ1章5節)ことが目的だと言います。これは罪人である私たちを愛し、神の子としてくださる神への応答です。その応答する手段の一つが、この世における仕事であり、その果実を用いた隣人愛の実践と言えるでしょう。
しかし、信心、信仰生活の目的を、神の愛への応答ではなく、第一に自分の利益を得るためだとしてしまうならば、それは神や信仰を手段に落としてしまうことになります。
「繁栄の神学」という考えがあります。神を信仰し、従う者は必ず栄えるという考えです。
これは聖書にも見られるものです。
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編1編1~3節)
しかし、残念ながら人生は必ずしもそうではないということを聖書も言っています。
ヨブ記のヨブのように、神に従う人であっても、理不尽としか思えないような災いに遭うことはある。それなのに、神に従うことは全て上手くいくことだと決めつけるなら、上手くいっていないとき、自分は神に見捨てられたのかと思うことに繋がるでしょうし、また、自分が上手くいっている時には傲慢になって、上手くいっていない人を見下すこともあるでしょう。
キリスト教はご利益宗教ではないとよく言われます。神を信じ、従おうとしても、苦しむこともあります。旧約聖書に出てくる預言者たちも、神に従う者でしたが、それゆえに時の権力者や民衆から嫌われて苦しみました。私たちの主イエス・キリストも私たちの代わりに苦しみを受け十字架につけられました。パウロもその生涯の中で、たくさん苦しみました。
でも、イエスは「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とご自分の使命を受け入れ、パウロも神から言われた、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12章9節)という言葉を受け入れました。
それは、
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29章11節)
という神の言葉を信頼していたからだと思うのです。
十字架の死にいたるまで神に従った、私たちの主イエス・キリストを、神は復活させてくださった。
キリストを見捨てなかったように、神は私たちをも見捨てない。「神は、すべての人々が救われ」ることを望んでおられるのですから(Ⅰテモテ2章4節)。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。(Ⅰテモテ1章15節)
キリスト者を迫害していたパウロですら、赦された。
イエス・キリストの十字架は誰のため?それは私のため。
私の罪はイエス・キリストが十字架にかかって滅ぼされなければならないほど重いものだった。
私は傲慢で、清くなく、神に相応しいものでもないのに、神は私を愛して、御子を私の身代わりとしてくださった。その意味で、イエス・キリストを殺したのは私です。
神の御子を殺したのだから、私は神の敵のはずです。しかし、神は敵すら愛してくださる。
大丈夫、この私が赦されたのだから、あなたが赦されないはずがない。
あなたを赦し愛しておられる神を信頼し、「満ち足りることを知」って、それぞれに与えられた「信仰の戦いを立派に戦い抜」き、神の愛から離れず、互いに愛し合うならば、それは結果的に、大きな利得の道、「永遠の命を手に入れる」ことになるとパウロは言うのです。
「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない」のですから、やがては消え去り、また私たちを神から引き離す金銭の欲を退け、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさいとパウロは勧めます。
信仰者の皆さん、あなたは神の子として神に招かれ、信仰を告白し、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けました。あなたは神の子として、地の塩であり、世の光、世の星として生きるようにと神に招かれました。
たとえ世がどれほど暗く見えても、いつも私たちと共に居てくださる神の光に照らされ、聖霊に導かれて、信仰の友たちと励まし合いながら、イエス・キリストに従って、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めていく「信仰の戦い」を最期まで、歩んでいくことができますように。
