8月4日 聖霊降臨節第12主日・平和聖日 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1~5節

1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。

 そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。

2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。

3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

目次

<説教> 「神を愛する」

今日は平和聖日です。8月は長崎と広島に原子爆弾が落とされた月でもあり、日本が戦争に負けた月でもあります。私たち月寒教会の属する日本キリスト教団では、8月第一週目を「平和聖日」と定め、平和を祈る日としています。ここに居られる皆さまは当然、平和を求めておられると承知していますが、せっかくの機会ですから、改めて平和を祈り求める時としていただけましたら幸いです。

当教会は、樺太や満州から引き揚げて来られた方の多い教会と聞いています。また、違う地域でお住まいであった方でも、戦争で大変辛い思いを経験された方も多いと思います。そうしたお話を聞く機会は年々減っており、貴重です。

また、原子爆弾や空襲、抑留や引き揚げやなど被害者の面もありつつも、一方で、私たちの住む日本の国は加害者であったということも忘れることは出来ません。それを忘れてしまえば、いつまた、同じ過ちを繰り返してしまうかもしれないからです。

日本基督教団も戦争に加担しました。日本基督教団は日本の戦争遂行に協力するために、様々な教派の教会が合同してできた団体です。それ以前にも、日本の植民地支配に協力するようなことも行ってきました。それは、一部の人を除いて、当時は悪いことだと思われていなかったのです。

残念ながら、過去に起こってしまったことは変えられません。でも、過去から学び、反省することで、過ちを今に繰り返さないようには出来るかもしれない。今を変え、将来を変えることは出来るかもしれません。だからこそ、この時期に、私たちは自国の被害だけでなく、加害の過去もあることも、きちんと振り返りたいのです。

それは時に辛いことかもしれません。耳に痛いことかもしれません。聞きたくない、そう思うこともあるでしょう。しかし、聖書は私たちに鍛錬や忍耐することの大切さを教えています。それは、私たちが平和を求める神の子として成長するために必要な過程なのです。

残念ながら、一部の政治家たちは加害の歴史を無かったことにして、過去の戦争を美化し、平和憲法を捨て、戦争のできる国へと突き進んでいます。パリ・オリンピックのニュースの陰で、自衛隊がアメリカ軍の傘下に入るということも進められています。

私たち人間は一体いつになったら戦争が悲劇しか生まない、恐ろしく、愚かなことだと気が付くのでしょう。戦争を望み、戦争をさせる人間たちは自分では戦争に行きません。こんな無責任なことが許されていいのでしょうか。私たちは戦争を煽る、いかなる言説にもノーと言わなければなりません。

戦争は大抵、「自衛のため」「しかたない」という理由で始められます。顔も知らない誰かに、会ったこともない誰かに、その国籍や属性、思想などで「敵」とレッテルを張り、攻撃、殺人を正当化しようとします。戦争は相手を自分と同じ人間だと見られなくしてしまいます。本当は、一人ひとりが大切な存在なのに、犠牲者や加害者という記号や数字にしてしまいます。人間を人間でなくしてしまう、こんな愚かで醜いものはありません。

「国」や「民族」といった概念、偶像、偽りの神が、本当の神に命を与えられた一人の命よりも優先される。大切な一人ひとりの命や自由や人間性が奪われ、犯罪に加担させられる。それが戦争です。私たちは常々、人を殺してはいけないことを知っています。それが悪だと知っています。それなのに、「戦争」と名がつくと、「テロとの戦い」と名がつくと、とたんに「悪」が肯定されてしまいます。こんなおかしな話はありません。

先日、東京でキリスト教保育の研修に参加してきました。そこで、キリスト教保育でとても大事にされていることは「一人ひとりが大切」ということだと強調されていました。なぜなら、一人ひとりは、神がそのようにお造りになり、神が愛しておられるからです。「神は愛である」、それが私たちの信仰です。

神は全ての人を造り、すべての人を愛しておられます。「殺してはならない」、「あなたの敵を愛しなさい」、「あなたの隣人を愛しなさい」と言っておられます。

私たちは何者でしょう。私たちは神の民、イエス・キリストの僕です。その私たちが聞くべきは、互いの敵意と憎悪を煽るこの世の言葉ではなく、互いに愛し合いなさいと言われる神の言葉です。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)

私たちはイエス・キリストによって神の子とされました。神は私たちが、神の子として、平和を実現する人であることを望んでおられます。

それはどのように実現することができるのでしょう。それは私たちが唯一の神を愛し、イエス・キリストに従うことによってです。

イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。

そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。

  このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、

神の子供たちを愛します。

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。

世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。

だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

イエスをメシア、キリスト、私の救い主と信じる人は、神から生まれた人だと聖書は言います。

イエスは救い主。わたしたちの、すべての人の、私自身の救い主。イエスは何から私を救うの?

イエスは罪から救う。罪の結果として訪れる滅びから私たちを救う。

キリスト教でいう罪とは、愛であり、命の与え主である神から離れてしまうこと。

愛から離れて、自己中心的に、利己的に生きてしまうこと。その結果は滅びです。

今日の社会問題、格差、貧困、差別や戦争、環境破壊、疫病など、私たち人間を取り巻く状況を見ていると、私たち人間に罪があるというのは、本当だと納得するしかありません。

また、自分自身を振り返ってみても、自分は愛がない人間だなと思います。

しかし、神はそのような私たちであっても愛しておられ、なんとかして救おうとして、神の御子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの身代わりとなって罪を贖ってくださった。

そして、私たちを先に赦して、赦したのだから、神のもとに帰っておいでと招いてくださる。

私たちが神を愛するのは、神が私たちを愛してくださっているからです。

そして、私たちが神を愛するなら、私たちも神に愛された者同士、愛し合うのだと聖書は言います。

なぜなら、神を愛する者は、その神の掟を守ろうとするからです。私たちは自分が好きな人のことを喜ばしたいと思うものだと思います。神を愛するとは、神の掟を守ること。

神の掟。それはイエス・キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも「互いに愛し合うこと」(ヨハネの手紙Ⅰ、3章11節)、神に愛されている者同士、互いに大切にしあうことです。

それが、神の子イエス・キリストが命をかけて伝えたことです。キリストに従うとは、私たちも互いに愛し合おうとすることです。

互いに愛すること、それはなかなか難しいと思うかもしれません。それは当然です。私たちは利己的、自己中心的だからです。でも聖書は、神の掟は難しくないというのです。なぜなら、私たちには聖霊、神が共に居て、私たちに愛し合う動機を与えてくださるからです。

この世は一時のこと。この世のものはいつか必ず過ぎ去ります。どれだけ栄華を誇った国も、やがては衰え、どれだけ権勢を誇った人も必ず死にます。

そうした消えゆく「世」のものではなく、永遠に続く神の国、愛を求めようと聖書は言うのです。

愛、神は見えないけれど、永遠に続く。だから、神から生まれた私たちは世に勝つのです。

どれだけこの世の悪が強く見えても、必ずイエス・キリストはこの世の悪に勝たれる。それが、私たちの信仰です。だから、どれだけ不利に見えても、私たちは絶望しません。

「世」がどれだけ敵意をふりまこうと、不安にさせ、憎み合おうと仕向けても、私たちはそれに乗りません。私たちはそんなものよりももっと素晴らしい方、イエス・キリストを知っているからです。私たちを愛して下さっている神を知っているからです。

誰かと比べなくていい、誰かよりも優れようとする必要はない。勝ち負けなんてどうでもいい。神は私たちを愛し、私たちの存在そのものを肯定し、私たちを神の子だと言ってくださる。それに優るものはありません。

大丈夫、あなたも私も神さまにとって大切な人。それをいつも忘れないようにしましょう。

私たちに傷つけていい人は一人もいません。私たちの間には、いつも神さまがおられます。

私たちが「世」の価値観ではなく、互いに愛し合いなさいという神に従うとき、私たちの間に平和が実現します。大丈夫、私たちにはそれができるはずです。私たちは神の子なのですから。

現実的じゃない、理想論だ、そのように批判されても、かまいません。夢や理想を持てない社会は腐り、やがて滅びていきます。

失敗してもいい。完全でなくてもいい。完璧でなくてもいい。ともかくも、希望をもって、平和を目指して歩き続けましょう。最後にはイエス・キリスト、神ご自身が完成してくださいます。

神を愛する私たちは、傷つけてもいい人は居ない、大切じゃない人は居ない。そう、言い続けましょう。平和を求め続けましょう。すべての人が大切にされる社会の実現を求めましょう。

御国が来ますように。主の御心が天で行われているように、この地上でもそのようになりますように。

大丈夫。最期には、必ず私たちが勝つ。それが神さまの約束です。

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