2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日 フィリピの信徒への手紙1章12~30節 

12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。 

13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、 

14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 

16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 

17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 

18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。 

19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。 

20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。 

21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 

22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 

23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 

24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。 

25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。 

26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 

28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。 

29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。 

30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

目次

<説教> 「喜び」

10月の第一日曜日は、私たちの属する日本キリスト教団の教会暦では世界聖餐日とされています。

これは1930年代にアメリカの教会で始まり、第二次世界大戦による対立が深刻化する1940年に、教派を越えた記念日とされました。「世界中のキリスト者が主の食卓につくことによって一致し、互いに認め合うことを願って始められた」(日本キリスト教協議会HPより)世界聖餐日は、現在では世界中の教会に広まり、祝われています。

こうした宗派・教派を越えたキリスト教の活動を、エキュメニカル、教会一致運動と言います。一致と言っても、すべてが同じようになろうということではありません。それぞれの教団・教派が持つ違いを尊重しつつ、それぞれの良さを学び合い、主にある家族として、共に生きて行こうとする運動です。特定の教団・教派だけが正しいとするものではありません。パウロは教会をキリストの体にたとえ、そこに集う一人ひとりを体の部分にたとえました。様々な体の部分は、それぞれに機能は違うけれど、そこに優劣はなく、必要のない人はいないと言うことを教えました。今日ある様々な宗派・教団・教派についても同じことが言えるでしょう。私たちが救われ、イエス・キリストを信じるようになったのは神の恵みによるのであって、私たち自身の功績によるのではありません。自分が正しい、あいつらは間違っていると驕り高ぶるのではなく、イエス・キリストと言う同じ主人に仕える者として、神に与えられた違いを喜び、認め合い、それぞれに与えられた場で神と人とに仕えていく。神の前ではみな同じ。そのことを覚える機会になればと思います。

また、今日は世界宣教の日とされています。これは戦後、日本キリスト教団が世界聖餐日を定めた際に、世界宣教のために協力し合うことを目的として定められたそうです。今日、世界各地から宣教師を受け入れ、また宣教師を送り出しています。それらの方々やご家族、留学生などを覚えてお祈りする機会としていただけましたら幸いです。

さて、今日は異邦人への使徒パウロから、現在のギリシャ北部マケドニアにあったフィリピという都市にいたキリスト教共同体に宛てられた手紙です。フィリピは有名なアレクサンドロス大王の父フィリッポスに由来し、ローマ帝国の重要な都市として栄えていたようです。パウロは現在のトルコで宣教していた時、幻に導かれ、マケドニアに渡って宣教し、フィリピに教会が出来ました(使徒言行録16章6~40節)。この教会は小さな群れだったようですが、パウロと親密な関係があり、彼の宣教を経済的に支えていました。宣教というのは個人でするものではなくチームでするものだと言われますが、パウロの働きにもこうした教会の人々の支えがあって行われていたのだと思わされます。また、フィリピの教会は、ユダヤ州の教会が飢餓で苦しんだとき援助を行ったそうです。

アジアで生まれたキリスト教がヨーロッパへと広がっていき、また地域を越えて助け合う。今日の聖書箇所は、世界聖餐日・世界宣教の日に相応しい個所として選ばれているんだなと思います。

今日の箇所で、パウロは監禁されていると語っています。パウロはイエス・キリストの福音、神がイエス・キリストによって私たちを赦してくださった!神の救いはユダヤ人だけでなく、すべての人のものだ!神の前では皆同じなんだ!という良い知らせを伝えました。そのために、ユダヤ教徒や他の偶像を信じる人々から憎まれ、またローマ帝国に逆らうものとして訴えられ、しばしば投獄されました。この手紙もパウロがどこかで投獄されている時に書かれたものなので、獄中書簡と呼ばれています。獄中のパウロを心配したエフェソの信徒たちから差し入れがあり、それに対する感謝の気持ちを込めてこの手紙は書かれたようです。

今日のお話のタイトルは「喜び」としました。それは、この手紙には喜びと言う言葉がたくさん出てくるからです。監禁されていて、とてもじゃないけれど喜べないような困難な状態であるはずなのに、パウロは、喜んでいると言うのです。そして、あなたたちも一緒に喜んでくださいと言うのです。いったい彼は何を喜んでいるのでしょう。そしてなぜ困難の中でも喜べるのでしょう。

それはキリストが宣べ伝えられているからだとパウロは言います。

「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」

パウロはローマ兵に監禁されている。それによって彼の福音を宣べ伝えるという使命は停滞しているように見えるかもしれない。でもその町のローマ兵やその周辺にいる人たちに、この男はイエス・キリストを宣べ伝えたから捕まったのだと言うことが知れ渡った。信じる信じないに関わらず、まずは知ってもらうことができた。それになにより、パウロが捕らえられたことにより、神の家族たちが奮起してキリストを伝えるようになった。その中には、二つの動機で行う者たちがいたそうです。

「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者も

います。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機から

そうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。」

パウロの宣教は苦難の連続でしたが、特に人間関係には苦慮したようです。パウロには伝える相手によって対応を変える柔軟さも持っていましたが、信仰の確信、救いは恵みによると言うことと、神は人を分け隔てなさらないと言うことにおいては決して譲りませんでした。時に強い言葉で相手を非難することもありましたから、パウロを良く思わない人もいたと思います。パウロが捕らえられたと聞いて、善意と愛から、パウロの代わりに宣教に努めた人もいれば、パウロを妬み、敵意を抱いていた人が、パウロを苦しめようと宣教に努めたと言います。パウロよりも自分の方が上だと示して尊敬を受け、パウロを悔しがらそうと思ったのかもしれません。

「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」

パウロの敵対者たちと、パウロの視点は違いました。パウロの敵対者は、彼を苦しめようとしたのに、かえってパウロを喜ばしたのです。動機がどうあれ、キリストが宣べ伝えられているのですから。パウロの目的は自分が有名になることでも、自分の権威が高まることでもありません。ただ、キリストが宣べ伝えられることです。神は悪からだって善を作り出すことができるお方だと、思わされます。

パウロも以前は自分のことを立派なユダヤ教徒だと誇っていました。しかし、復活したイエスに出会って、自らの罪深さを知り、神の救いは恵みによるのだと言うことを知るようになりました。

そして彼は、自分が誇りに思っていたものが、実はたいしたことはないということに気が付きました。

それよりももっと素晴らしい恵みが、すべての人に注がれる神からの愛が、イエス・キリストによって与えられている。そのことに気が付いたのです。

確かにパウロは困難に直面しています。命すら失うかもしれない。けれども、生きているにしろ、死ぬにしろ、それはどちらもパウロにとっては良いことなのだと言います。

パウロにとって生きるとは、キリストが共にいてくださり、キリストに生かされているということであり、キリストに倣うことです。自分を通してキリストが働いて下さり、まだキリストを知らない人がキリストの愛を知るようになり、神の救いを受け入れて、神の子としての自覚を持ち、神への感謝の気持ちから、キリストがあがめられるようになるかもしれない。それはパウロにとってとても喜ばしいことです。

一方で、死ぬとしてもそれは利益だという。なぜなら、死ねば永遠にキリストと一緒にいることができるのだから。それはパウロが熱望していることです。

そのどちらも良いことなのですが、この世で生きていればもっと神と人とのために働くことができるので、フィリピの教会の人たちのためにもなるだろうと確信している。だから、きっと釈放されてあなたたちのもとに行けるだろうと、パウロはフィリピの信徒たちを励まし、キリストの福音にふさわしい生活を送りなさいと勧めます。

パウロは死の可能性すらある困難の中でも、喜びを見出します。パウロは凄いな、そう思いますが、パウロは自分が特別視されることを望んではいないでしょう。パウロはキリストを模範として生きました。そして、自分が教えた人たちにも、そのように生きてほしいと思っています。

私たちは聖書を読むとき、その登場人物に圧倒され、自分は何もできないなと思うことがあります。

しかし、パウロは言っています。「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っている」と。彼は一人で宣教したのではありません。彼にはたくさんの仲間がいました。その仲間の祈りと、イエス・キリストの霊の助けによって、彼は力づけられていたのです。

その仲間とは、私たちのことでもあります。聖書は遠い昔の、他人事ではなく、私たち自身の物語でもあります。聖書の物語は完結しておらず、私たちもその物語の途上を歩いているのです。

どんな形であれ、たとえ小さな祈りであっても、私たちは神の救いの物語に参与させていただいているのです。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」

私たちも、苦しい時も、神さまを信頼し、主にある喜びを見つめることができますように。

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