10月27日 降誕前第9主日・教会創立記念礼拝  箴言 8章1,22~31節

知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか。

主は、その道の初めにわたしを造られた。 いにしえの御業になお、先立って。

永遠の昔、わたしは祝別されていた。

太初、大地に先立って。 わたしは生み出されていた

深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。

山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが わたしは生み出されていた。

大地も野も、地上の最初の塵も まだ造られていなかった。

わたしはそこにいた 主が天をその位置に備え 深淵の面に輪を描いて境界とされたとき

主が上から雲に力をもたせ 深淵の源に勢いを与えられたとき

この原始の海に境界を定め 水が岸を越えないようにし 大地の基を定められたとき。

御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ。

目次

<説教> 「この道のはじめ」

今日は月寒教会の創立記念礼拝です。1948年の10月24日に始まった月寒教会は、信仰の先輩方の想いを受け継ぎながら76年目の歩みを始めます。この記念の日を皆さまと共に祝い、新たなこれからをご一緒に過ごしていくことができますことを主に感謝いたします。これからも月寒教会がキリストの体として、ここに集われ繋がってくださる皆さまの居場所として、また地域に開かれたすべての人の祈りの家として、キリストの愛の香りを伝えていくことができますように。

せっかくですので、聖書の内容に入る前に、少しこの教会について見てみましょう。月寒教会の過去に作られた記念誌を読むと、1947年の8月に中村兵治さんのお宅で、札幌北光教会の月寒家庭集会、土曜学校として始まり、翌年10月に定家牧師を招いて最初の礼拝を行ったそうです。札幌北光教会の協力のもと、信徒の方々の願いから始まった教会だといえます。

私たちの属する日本基督教団は、プロテスタントの様々な教派が合同して出来ていますから、旧教派の背景によって、少しずつその教会運営であったり、信仰における強調点が違ったりします。この月寒教会はと言いますと、札幌北光教会と同じ、会衆派とか組合派と呼ばれる教会の伝統に連なっています。これは、同志社大学を創設した新島襄が、アメリカに留学した際に出会ったキリスト教です。その特徴は自覚的な信仰を持つ一人ひとりの信徒たちが教会運営の主体になるというもので、牧師もその信徒の一人であり、牧師も信徒もみな同じと考えます。洗礼に関する考え方においては違いがありますが、会衆主義という点においては、バプテストという教派と似ていると言われます。

私がこの教会の皆さんに呼んでいただいてこちらに来て二年目になりましたが、この教会の特徴として挙げられるのは、皆さんが主体的に教会に関わってくださっているということです。それは4年間牧師がいない中、皆さんが頑張って教会を支えて来られたからだと思いますが、その背景には会衆主義教会という伝統もあるのかなと思っています。

もちろん、日本基督教団は合同教会ですから、一つの教会に集まる方々の信仰の背景も、それぞれが出会ってきた教会の伝統によって違います。そうした多様性、違いこそが教会の豊かさであると思うので、これからも一人ひとりの違いを喜びあって、共に生きる教会でありたいと願っています。

さて、今日の聖書に入りましょう。今日は箴言です。箴言の「箴」は縫ったり治療に使ったりする針のこと。箴言とはいましめ、格言といった言葉で、チクッとする針のようにためになる教訓集と思っていただいたら良いと思いますが、原語では歌、託宣、あざけり、たとえ、ことわざなど、より広い意味を含む言葉だそうです。

神から知恵を授かったというソロモン王の名が著者として挙げられていますが、国外の賢者の言葉の影響も窺え、様々な著者や編集者の手を通して、紀元前2世紀ごろまでに現在の形となったと考えられています。知恵を求め、正しく生きるようにと教えています。ここでの知恵は、単なる知識ではなく、実践を伴う知恵であり、生き方を説くものです。ユダヤ人の王宮や会堂、家庭などで、箴言を用いて若者たちを教育していたのかなと思います。

今日の箇所では知恵は擬人化され、女性のように描かれています。知恵である女性は、堕落させる女性のいるところへ出かけ、悔い改めを呼びかける説教者として描かれているのです。7章で「よその女」、「異邦の女」と擬人化されているのは、他の宗教や文化に惹かれる宗教的背信を指すと考えられ、様々な宗教に現れる豊穣の女神への信仰に対し、知恵と分別を守り道徳性を守るように説いているのだと言われます。

ユダヤ人たちの家父長制社会にあって、聖書は主に男性によって学ばれたそうです。男性中心の社会で編み出されたために、女性として描かれたのかもしれません。

後に、この知恵はキリストを指していると言われるようになりました。キリストは男性のはずなのに、女性として描かれている知恵と重ねるのはおかしいと思われる方もおられるかもしれません。しかし、今日の箇所では知恵は、この世界に先立って神さまから「造られ」、「生み出された」と言われています。神さまが知恵を生んだという点を考えるなら、父なる神だけでなく母なる神というイメージも神さまは持っておられることが分かります。男も女も、すべては神によって造られました。神さまにおいては、性別というのは些細なことなのかもしれないなと思わされます。

この知恵はすべての被造物の長子として、またすべての者と関係するものとして描かれています。知恵は巡回教師として人々を招き、教える。彼女は神の子であり、創造の媒介者であり、教師です。まさしく、イエス・キリストです。

私は説教箇所を主に日本基督教団の出している聖書日課から選んでいますが、こども園の毎朝の教職員の祈祷会も、水曜日の聖書研究・祈祷会もこの聖書日課によって読む聖書箇所を決めています。

この聖書日課では、先週はパウロが書いたとされるコロサイの信徒への手紙が選ばれていました。

このコロサイ書では、この知恵をキリストと同一視し、このように語っています。

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。

天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、

支配も権威も、万物は御子において造られたからです。

つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、

その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、

万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1章15~20節)

またヨハネによる福音書では、この知恵、イエス・キリストは神の言として表現されています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。

成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ福音書1章1~3節)

どちらも、この箴言の箇所と同じことが言われているなと思います。この世界には神によって、キリスト共に、キリストによって造られた。人間は愛である神に背いて、神から離れた存在になってしまったけれど、神はそれでも私たちを愛し、キリストの十字架の死によって罪を赦して、和解させてくださった。私たちはキリストという橋を通して、神の子とされるのです。

今日の箇所で知恵は、神は「その道の初めにわたしを造られた」と語っています。この「造られた」という言葉は後に神学的な論争のもとともなってしまうのですが、今日の箇所で知恵は「生み出された」とも語っており、「造られた」も「生み出された」も同じ意味で使われていることが分かります。私たちは聖書を読むとき、特定の言葉に気を取られすぎて、本来のメッセージを受け止め損ねてしまうことがあるなと思わされます。

「この道のはじめ」、それは神の子イエス・キリストです。私たちの信仰はすべて、キリストありきなのです。様々な教派があり、少しずつ違う信仰の仕方があっても、そのすべてはキリストによるもの。私たちは何に立って信仰生活をしているのか。それは見えない神の姿であるキリストが示してくださった愛です。

「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3章11節)

私たちの進む道の始まりはキリストであり、終わりもキリストです。キリストがおられないときはありません。いつも、キリストが共にいてくださる。こんな心強いことはありません。

そのキリストは言われます。

「御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって

絶えず主の御前で楽を奏し 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し

人の子らと共に楽しむ」(箴言8章30~31節)

ここで「巧みな者」と訳されている言葉は建築家、熟練工を指します。イエス・キリストも大工でした。主は私たちを信仰によって建て上げてくださるのです。そのことは神さまを楽しませることでもあります。

また、この言葉は「幼な子」とも訳せます。知恵は幼子のように親である神の前で遊ぶというイメージです。子どもが仲良く楽しく遊んでいる様子は、見ていて幸せで、こちらまで楽しい気持ちになります。そのような様子は、すべての人の親である神さまにとっても楽しい、嬉しいことです。

また、主は私たちと一緒に音楽を奏で、神さまだけでなく、私たちと共に楽しんでくださる。

私たちはただ受け身になるのではなく、イエスさまと一緒に、楽しみながら、神さまに楽しんでもらう。そんなイメージです。信仰とは、なにか厳格で、堅苦しいイメージと思っている方もおられるかもしれませんが、聖書には演奏することや遊ぶこと、楽しむことに対して良いイメージで描かれています。

ホイジンガというオランダの歴史学者は、人間の本質を「ホモ・ルーデンス」、遊ぶ人という言葉で表現しました。礼拝すること、祈ること、音楽、演劇、スポーツ…。すべては遊びに通じます。

遊びだなんて!礼拝はまじめにしないと!と思うかもしれませんが、遊びだってまじめに、真剣にしないと面白くなりません。まじめな遊びだってあるのです。

まじめに、一生懸命に遊ぶとき、遊びは人と人を繋げ、仲良くし、世界を広げてくれます。子どもは遊びながら学び、成長していきます。そう考えると、礼拝も神と人との嬉しい、楽しい遊びだといえるかもしれません。礼拝という遊びを通して、私たちは神さまと、そしてお互いと、仲良くなっていくのです。

はじめから終わりまで一緒にいてくださるイエス・キリストと共に、喜びをもって、楽しみながら、一緒に、この道を歩いていきましょう。

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