すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
イエスはお答えになった。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。
ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。
この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
<説教>「ヨナやソロモンにまさるもの」
先週は労働聖日、働く人の日でした。これは労働者の祭日、5月1日のメーデーに近い日に設定されています。5月1日はローマ・カトリック教会ではイエス・キリストの養父、大工のヨセフを記念する日としています。世界創造の神話によると、私たちの神さまも世界を造るために6日間働かれ、1日休まれました。私たち人の祖先にもエデンの園を耕し守る役割を与えられたと書かれています。神さまは私たちに働くこと、地の塩、世の光として、この社会における何かしらかの役割を与えられました。働くのはときに面倒だなと思いますが、役割がないというのも寂しいもの。仕事は大変ですが、私たちに生きがいを与えてもくれます。また、神さまは安息日を定め、休むこと、余暇の大切さも教えてくださいました。新約聖書には互いに愛し合うように言われていますし、旧約聖書には働く人を搾取しないようにと言われています。私たちの親である神さまは私たちの生活のことも気にかけてくださっています。職場で、ご家庭で、働く皆さま、お疲れさまです。皆の生活と健康が守られていきますように。
先日、全世界に約14億人の信徒がいるというローマ・カトリック教会の教皇フランシスコ氏が召天しました。私たちプロテスタント教会にも良い影響を与えた第2ヴァチカン公会議の改革と対話の路線を踏襲し、平和を祈り、分断の壁ではなく橋をかけることを訴え続け続けられました。まさにアッシジのフランチェスコに倣う生き方をされた方でした。主よりの平安がありますように。
これから次の教皇を選ぶコンクラーヴェが開かれますが、そのことをモチーフとした映画「教皇選挙」が札幌でも上映中です。私も連れ合いと観てきましたが、信仰や教会について考えさせられるとても良い映画でした。お時間ゆるされる方はご覧になられてはいかがでしょうか。
さて、私たちは今、イエス・キリストが復活されたイースターから聖霊降臨日までの期間を過ごしています。復活したイエスさまは、この間に弟子たちの前に現れ、弟子たちを力づけました。その中で、「疑い深いトマス」のお話があります。トマスはイエスさまの主だった弟子である12弟子の一人でしたが、イエスさまが他の10人の弟子たちの前に顕れた時、その場にいませんでした。他の弟子たちに主イエスの復活を告げられたトマスは、自分の目で見て触れなければ信じないと言いました。その彼の前に顕れた主はご自身の体についた十字架の傷を示します。その傷を見て、「わたしの主、わたしの神よ」と言うトマスに、イエスさまは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。今日の聖書箇所もその物語と共通するものを感じます。
トマスと同じように、また、律法学者たちのように目に見えるしるしが欲しい、確かなものが欲しい、という気持ちもよく分かります。でも、考えてみると目に見えるものに頼ることは危険なことのようにも思います。
「私たちの世界は見せかけに騙される」とシェイクスピアも書いています(「ヴェニスの商人」3幕2場)し、聖書も「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」 (マタイ7章15節)、「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとする」(マルコ13章22節)と書かれています。
歴史を見ても、威勢のいいことを言う浅薄で身勝手な指導者に引きずられて戦争になったり、悲しい出来事が起こるケースはよく見受けられますし、それは今日のインターネット上でもよく見られることのように思います。
私たち異邦人への使徒パウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントⅡ4章18節)と語っています。私たちの神さまは目に見えませんが、考えてみると私たちの周りには目に見えないものがたくさんあるなぁと思います。愛や友情、自分の心なんかも、目には見えません。そうしたたくさんの見えないものの上に私たちの社会は成り立っているように思います。
さて、トマスとファリサイ派の人々は目に見えるものを欲しがったという点では同じですが、その動機に関しては違いがあるように思います。
確かにトマスも疑いました。しかし、神さまを求める上での疑いや迷いは誰にでもあるものだと思います。迷いつつ、疑いつつ、壁にぶつかり、自分の限界を知り、低くされ、それでも神さまを信頼して歩んでいく、それが信仰なのだと私は思います。
そういえば、先ほど映画「教皇選挙」をご紹介しましたが、その主人公もトマスという名前の、私たちと同じ、迷える聖職者でした。12弟子のトマスには、復活したイエス・キリストに出会った後、信仰を取り戻した彼はインドに宣教へ行き、そこで殉教したと伝えられています。
一方、今日の聖書箇所に出てくるファリサイ派の人々や律法学者は、初めから信じようとはしていません。少し前の12章14節で彼らは「どのようにイエスを殺そうかと相談した」と書かれています。彼らにとって、後からやって来て神の愛と憐みを教えるイエスさまは邪魔だったのです。
彼らは「しるし」、何か証拠、信じる根拠となる奇跡を求めますが、たとえイエスさまが彼らの目の前で奇跡的なことをしても、きっと信じなかったでしょう。事実、イエスさまは何度も彼らの前で病人を癒したりするなどの奇跡を行っていました。ファリサイ派の人々や律法学者の人々は、「しるし」を見せろと迫り、そうして何とかイエスさまが失敗しないかと待ち構え、攻撃する口実を捜していたに過ぎないのです。彼らの目的はイエスさまを批判することであって、「しるし」を見て信じるためではありませんでした。そんな彼らにはどんなに「しるし」を見せたところで無駄です。
彼らの要求は、荒れ野でイエスさまを試した悪魔の誘惑に通じます(マタイ4章)。
イエスさまは、彼らの心を知っておられたのでしょう。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言って相手にしませんでした。しかし、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」とも言われ、十字架の死と復活という「しるし」を暗示して、イエスさまが復活したとき、彼らがそれを思い出してイエス・キリストを受け入れられるような余地も残しておられるなぁと思います。
「ヨナのしるし」、には十字架の死からの三日目の復活の他に、もう一つ意味がありました。それは、異邦人への救いです。旧約聖書のヨナ書の物語では、神さまがユダヤ人の敵であったけれども悔い改めた異邦人を赦されるという場面、そしてユダヤ人である預言者ヨナそのことに腹を立てるという場面が描かれます。この時の預言者ヨナの姿は、他者を罪人と言い、異邦人を差別する当時のファリサイ派や律法学者の姿と重なります。しかし、神さまの救いとはそんな一部の民族や特定の集団だけに向けられるような偏狭なものではありません。イエス・キリストはすべての人の救い主であり、この世界をお造りになった神さまからすれば、どんな人も神さまの子どもなのですから。
イエスさまは言葉を続けます。
「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」
ニネベの人たちは異邦人であり、異教の神々を信じていた異邦人でした。そしてヨナたちユダヤ人、イスラエル人を苦しめたアッシリアの人たちでした。しかし、彼らは敵国の人間である預言者ヨナの説教を聞き、見たこともない、目には見えない神さまの言葉を受け入れ、悔い改めました。
ソロモン王に会いに来た、南の国の女王も、遠い異国の王、異邦人であり、異教の神々を信じる人だったことでしょう。それだけでなく、家父長制のユダヤ人社会にあって、男性よりも低く見られがちな女性でもありました。けれども、彼女もまた、見たこともない、目には見えない神さまから知恵を授かったソロモン王の評判を聞き、目には見えない神さまの知恵の言葉を求めて、遠路はるばるソロモン王に会いに来たのです。
生まれや属性ではなく、見えない神さまを信頼し、求め、受け入れるそのような姿こそ、主イエス・キリストは良しとしてくださるのです。
まして主イエス・キリストは神の子であり、すべての人の救い主。「ヨナやソロモンにまさるもの」です。今日、教会に集う私たちもまたユダヤ人ではありません。彼らからすれば異邦人です。でも、ニネベの人たちや南の国の女王を良しとされたように、神の子イエス・キリストを求めて集う私たちのことも、神さまは良しとしてくださっています。
私たちも、神さまや主イエス・キリストを目で見ることはできません。しかし、信じ希望を得ています。それは聖霊なる神さまがそのようにしてくださるからだと聖書は言います(コリントⅠ12章3節)。見たからではなく、見ないで信じることができる幸いを与えてくださっている主に感謝しつつ、自分を低くして、どんな人も神さまの子どもとして、お互いに受け入れ合えるようになりたいと願います。
