なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、
「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。
<説教> 「今や、今こそ」
8月7日は立秋でした。雨が続き、ようやく涼しくなってきて、過ごしやすくなってきましたね。この時期、本州だとまだまだ暑いので、北海道だなぁと実感しています。とはいえ、まだまだ日中は暑く、30度近い日もあるようなので、皆さまの健康が守られますように。
さて、今日の聖書箇所は異邦人への使徒パウロから、ギリシャのコリントという都市にあった教会に宛てた手紙です。この教会はパウロらの宣教によって出来た教会でしたが、パウロの後に異なった教えを説く教師らが来て、分派争いが起き、ついにはパウロと不和となりました。パウロは何通かの手紙を書き送り、なんとかしてもとの信仰に立ち返るようにと苦心します。前に送った手紙と、同労者のテトスの働きもあり、和解の目途が立ち、パウロはこの手紙を書いたようです。
コリントの人々はイエス・キリストの直弟子ではないパウロの、使徒としての権威を疑いました。だからパウロは、この手紙の冒頭で、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と自己紹介しています。
パウロが使徒とされたのは人間の力によるのではなくて、神さまの御心によるものです。イエス・キリストの直弟子である使徒たちも、イエスさまを通して神さまから使徒とされたけれども、パウロが使徒とされたのも神さまによるのであって、そこにはなんら変わりはありません。その選び、任命の主体は神さまであって、自分を誇るようなことではないのですが、ついつい人間側の常識、価値観で物事を判断してしまう私たちのために、肉に従って知ろうとしてしまう私たちのために、パウロはあえてこのような自己紹介をしたのだなと思います。
私たちの信じるキリスト教の信仰は、これはユダヤ教もイスラームでも同じだと思いますが、この世界の主権は神さまにあると考えます。この世界も、私たち一人ひとりも神さまがお造りになった神さまのもの。この世界の真の支配者は神さまであり、神さまは私たちに何らかの使命を与えておられると考えるのです。賜物や天職、召命という考えもそうですよね。神さまが私たちを招き、それぞれに何らかの役目に任命し、私たちはそのお招きに応える。私たちの応答ももちろん大切ですが、最も大切なのは神さまです(Ⅰコリント3章6~7節)。
そのようにして神さまに使徒として任命されたパウロですが、任命されるだけでは熱心に働くとは限りませんよね。旧約聖書でも預言者ヨナは、神さまの命令から逃れようとしましたし(ヨナ書1章3節)、モーセも何度も断ろうとしました(出エジプト記3~4章)。それも無理はありません。神さまからの召命は、時に自分には荷が重いと思えるものだったりします。イエスさまですら、「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ福音書14章36節)と祈られたほどです。
パウロも死ぬほどの目に何度も遭い、迫害や多くの苦難を経験しました(Ⅱコリント11章23~27節)が、パウロは挫けませんでした。それは、パウロの言葉を借りるなら「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」からだったのだろうと思います。
パウロは今日の聖書箇所の少し前で、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」と、この世の終わりの時の裁きについて語っています。
しかし、パウロを駆り立てていたのは裁きへの恐怖ではなく、「キリストの愛」でした。
恐怖は私たちを縛り、消極的にしますが、キリストの愛、赦しは私たちに自由と喜びを与え、駆り立てるのです。
パウロは、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」と語ります。
以前は、パウロも肉に従って知ろうとする、つまり人間の価値観や常識によって他の人やキリストのことを見ていました。その時、パウロはイエスさまのことを偽のキリストだと思い、キリスト教徒たちを迫害していました。ユダヤ教の律法には「木にかけられた者は皆呪われている」(ガラテヤ3章13節)とあります。神さまから見捨てられ、ローマ帝国への反逆者として十字架で殺されたナザレのイエスが、メシア・キリスト・救い主であるはずはないと思っていたのです。また彼は、自分を熱心にユダヤ教の掟を守るファリサイ派のエリートとして自分のことを誇っていました。
しかし、そのような彼の誇りは、復活したイエス・キリストに出会って打ち砕かれました。彼は復活のキリストに出会い、キリスト教徒を迫害したという自らの罪と向き合わされます。しかし、神さまは彼を裁かず、その罪を赦し、キリストの愛を異邦人に伝える役目を与えられたのです。
神さまは、私たち人間の常識や価値観を越えて働かれるのだ。私たちは自らの功績によらず罪を赦され、愛されているのだということをパウロは実感したのです。
「一人の方(イエス・キリスト)がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方(イエス・キリスト)のために生きることなのです。」
私たちがイエスさまを自らの救い主と信じ、一人のキリスト教徒として生きて行こうとする時、洗礼を受けます。洗礼では水を用います。水は死と復活を象徴します。私たちはキリストが私たちのために死んでくださったように、水によって一度死に、キリストが復活されたように新たな命を受けて、キリストのために生きる者となったことを表しているのです。
神さまは洗礼を受けたものだけの神さまではなく、すべての人のための神さまです。だからこそ、イエスさまは「すべての人のために死んでくださった」と言われているのです。
神さまはイエス・キリストを通してすべての人の罪を赦し、すべての人がキリストのために生きることを、神の子として互いに愛し合って生きることを望んでおられます。
神さまはすでに救いの道をすべての人のために開いてくださった。その救いを受け入れることをパウロは、神さまと和解すると呼んでおり、すでにキリストのものとなった私たちに、まだ受け入れていない人たちが神さまと和解するための奉仕をする任務を与えておられるのだと言います。
それはどのようにしてでしょうか。和解しないと死後裁きに遭う!と脅すことによってでしょうか?
そうではありません。神さまは人々の罪の責任を問うことをしない、と言われます。すべての人の神さまである方は、イエスさまの語られたたとえ話、「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章)の底抜けに甘く優しいお父さんように、すべての人を赦し、私たちの帰りを忍耐して待っていてくださっているのです。
何も心配ない、大丈夫だから帰っておいで!一人で生きようとするよりも、神さまと、イエスさまと一緒に生きようとする方が生きやすいよ!皆で一緒に生きようよ!と喜びをもって勧めることが、私たちの使命であり、そのような私たちを神さまは協力者と呼んでくださいます。
これは私たちが他の人よりも優れているからではありません。神さまのすべての人への愛、恵みによるものです。
神さまは「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と言っておられます。
完全な救いは、この世の終わりの時に来るのですが、すでに恵みの時、救いの日はイエス・キリストが十字架につき、復活されたことにより、始まっています。神さまが完成させてくださるのだから、私たちは終わりを心配する必要はありません。今、ここで、神さまに与えられているそれぞれの役目に忠実でいましょう。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」、イエス・キリストの愛を信頼して、喜びながら、今週も和解の務めに就きましょう。
