2025年7月27日 聖霊降臨節第8主日 使徒言行録 19章11~20節

神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈禱師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈禱師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。 

このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。

目次

<説教> 「いったいお前たちは何者だ」

異邦人への使徒パウロが小アジア、現在のトルコ西部のエフェソという都市で宣教していたときの出来事です。エフェソは壮麗なアルテミス神殿があり、港があり、商業の中心地としても栄えたところです。パウロはエフェソを中心に約3年宣教し、アジア州に信仰が広がっていきました。

パウロやペトロら使徒たちは、イエスさまがそうであったように、病を癒したり、悪霊を追い出したりすることができたようです。しかし、これは彼らの力ではありません。今日の聖書箇所では、「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」と記されており、主語は神さまです。神さまがパウロらを用いて、癒しは悪霊を追い払われたのです。今日の聖書箇所、使徒言行録・使徒行伝はイエス・キリストの弟子である使徒たちが主人公ですが、実は聖霊なる神さまが使徒たちを用いてどのように働かれたのかが記されており、本当の主人公は神さまです。その意味で、「聖霊言行録・聖霊行伝」というのが正しいのだという人もいます。

さて、当時、ユダヤ人は地中海世界の各地に分かれて住んでいました。彼らは会堂、シナゴーグという場所で礼拝をしていましたが、ユダヤ人の中には、各地を巡り歩く祈祷師や宣教者たちもいて、

彼らはパウロらと同じように、病の癒しや悪霊祓いも行っていたようです(ルカ福音書11章19節)。

今日の登場人物である「ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たち」もそのような祈祷師たちでした。

祈祷というのは「祈り」のことですが、ここで祈祷師と訳されている言葉は、原語では悪魔や悪霊を祓うエクソシストと同じ由来の言葉です。

「大祭司」というのはエルサレム神殿に仕える人ですから、普通は各地を巡り歩くことなどしません。私たちはついつい人の外見や、肩書に心を奪われがちです。今日、日本中で問題になっている特殊詐欺でも犯人たちは警察官や弁護士を騙ったりしますし、結婚詐欺でもパイロットや医師などの魅力的な職業を騙ったりすることがあると聞きます。このスケワという人物も、勝手に大祭司を騙り、それらしい恰好をして、自分に箔をつけて自分を大きく見せ、他人から信頼を得ようとしていた人物だったのでしょう。

私たちも、信頼される肩書のある人の言葉であれば、何の肩書もない人の言葉よりも容易に信用してしまうということがあると思いますし、また信仰の世界においても、何かしらか肩書がある人の祈りの方が神さまに聞き入れてもらいやすいと思ってしまうのではないでしょうか。

しかし、私たちの神さまは外見や肩書など気になさる方ではありません。神さまは私たち人間のように見るお方ではなく、心によって見るお方だと聖書は語っています(サムエル記上16章7節)。

祈る際に大切なのは、形ではなく心なのだと思わされます。格好の良い祈りでなくても、立派な祈りでなくても、神さまを求める心があるなら、神さまはどんな人の祈りでも耳を傾けてくださる。

一方、今日出てきた祈祷師たちはどうだったでしょうか。この人たちは、病の癒しや悪霊祓いで評判となっていたパウロのマネをして、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言いました。

彼らは、試み主イエスの名を唱えた。イエス・キリストを信じていない、イエスさまを自分の救い主と信じていないけれど、もしかしたら効果があるかもしれない、そう思って試しに唱えたのです。

イエスさまが主の祈りをお教えになったとき、神さまは私たちが祈る前から私たちの望みをご存じなのだから、異邦人のようにくどくど祈るなと言われました。当時の異邦人、多神教徒だった人々は、様々な神々に祈っていました。たくさんの神々に祈れば、一つくらいは願いを叶えてくれる神がいるだろう、そんな風に考えていたようです。今日出てきたスケワも、そのような軽い気持ちで、自分では信じてもいないイエスさまの名前で悪霊を追い出そうとしたのでした。

その結果はさんざんでした。悪霊は彼らに「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と言い返し、悪霊に取りつかれている男が、この祈禱師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出しました。

この悪霊はイエスさまのことも、パウロのことも良く知っていました。彼らはイエスさまやパウロによって追い払われたことがあったのでしょう。神さまの霊、聖霊は神の子であるイエスさまや、イエスさまによって神さまの子とされた信仰者のパウロらと共にいて働き、悪霊を追い出したり、病を癒したりしていたのです。しかし、祈祷師が試みに唱えたイエスさまの名前には何の効果もありませんでした。イエスさまの御名は呪文のようなものではないのです。イエスさまの名前を唱えれば勝手に悪霊は避けていく、そのような都合のいいものではありません。もしそうなら、イエスさまのお名前は、私たち人間にとって、自分の欲望をかなえるための単なる道具のようなものにされてしまうでしょう。

聖書では私たちが魔術や呪術、呪いを行うといったことは禁止されています(申命記18章10~11節)が、それは神さまを人間にとって都合の良い道具にしようという行為だからだと思います。しかし、神さまはこの世界の造り主であり、私たち人間にとって主人のようなお方です。私たちが好き勝手に道具に出来るようなお方ではありません。旧約聖書の十戒では、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20章7節)と言われています。これは、何でもかんでもすぐに神さまのせいにしたり、自分に都合のいい時だけ神さまの名前を持ち出して自分の利益を引き出そうとする私たち人間の姿勢を戒める教えだと思います。

祈る時、私たちもイエスさまの名前によって祈ります。そのとき、私たちにも同じように「いったいお前たちは何者なのか」という問いが向けられているのではないでしょうか。

イエスさまは「絶えず祈りなさい」(ルカ福音書18章1節)とも教えておられ、祈る時には「父よ…」と祈るように教えておられます(ルカ福音書11章2節)。そして、「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハネ福音書14章14節)とさえ言っておられます。

私たちは神さまに、イエスさまのお名前で祈っていいのです。いや、祈らなければならない。けれども、その時に大切なのは、私たちの心であり、神さまとの関係なのだと思います。

神さまは神の子であるイエスさまを通して、私たちをご自分の子どもとして扱おうとしてくださっている。私たちもその神さまの呼びかけに応えて、神さまの子どもとして生きていこうとする姿勢と、良い父親に対するような神さまへの信頼が大切なのではないでしょうか。

試みに、神さまを試すように、叶うかどうか分からないけれどとりあえず祈ろうというのではなく、神さまが必ず良いようにしてくださると信頼して、心から祈ることが大切なのだと思わされます。

私たちもこの世で生きるなかで、時に悪霊に対峙するような困難に出会うことがあるかもしれません。「お前たちは一体何者だ」と問われることがあるかもしれません。そんな時、「私たちはイエス・キリストに従う者」、「イエスさまによって神さまの子どもとされた者」、「私たちには神さまがいつも共におられる」、そのことを思い出し、神さまを信頼して、歩んでいけたらと思います。

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