ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
<説教>「生ける神の子ら」
8月に入りました。私たちの教会が属する日本キリスト教団では8月の第一日曜日を平和主日として定め、平和を祈り求める日としています。これはアメリカの広島への原爆投下によって被爆した牧師と信徒たちの要望によって定められたものだそうです。今年は日本の敗戦から80年目の年ですね。悲惨な戦争で多くの人が亡くなり、もう2度と戦争はしないと決めたはずなのに、核武装や徴兵制を声高に叫ぶ政治家が当選したり、地震による津波のあったその日に原子力発電所の再稼働が進むニュースが聞こえて来たり…。私たちの住む国の為政者たちは過去の過ちに目をつむり、何も学ぼうとしないのだとげんなりさせられます。しかし、愛と希望と平和の神さまを信じる私たちは、絶望して投げ出すことはできません。諦めず、くじけず、今年も平和を祈り求めて行きましょう。
さて、今日の聖書箇所は異邦人への使徒、パウロの書いたローマの信徒への手紙です。この手紙を書いた時点で、パウロはまだローマに行ったことがなく、ローマにあった信仰共同体はパウロの宣教によって出来たものではありませんでした。当時、パウロ以外にも名前の知られていない大勢の宣教者が活躍していたようです。聖書や記録に残っていなくても、神さまは実にたくさんの人を用いておられるのだと思わされます。
「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ福音書21章25節)とありますが、私たちの神さま、すべての人の神さまは、今も生きて働いておられます。
今日の舞台のローマにある信仰共同体ですが、はじめはユダヤ人でイエスさまを救い主・キリストだと受け入れた人たちから始まったようです。しかし、時のローマ皇帝クラウディウスによりローマからユダヤ人たちが追放されるという出来事が起こります。その後、皇帝が死ぬとユダヤ人キリスト者たちはローマに帰りますが、ユダヤ人キリスト者たちがいない間にローマではユダヤ人ではない異邦人キリスト者たちが増え、両者の間に軋轢が生じたようです。
ユダヤ人キリスト者は神さまに選ばれた民だというプライドがあり、異邦人キリスト者を見下していたのでしょう。一方、異邦人キリスト者たちもユダヤ人キリスト者たちのことを、キリストによって自由にされたはずなのに古い掟に縛られている無知な人々だと見下していたようです。そうした状況を聞き、憂いたパウロは、この手紙で両者を和解させようとします。
今日の世界にある教会でも、どちらが正しいとか争うような言説を見聞きします。しかし、それはパウロ、ひいては私たちの神さまの御心ではないと思わされます。
パウロは言います。
「…わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。…正しい者はいない。一人もいない。」
(ローマ3章9~10節)
わたしたちが他者に対して、いかに自分を誇ろうとも、神さまの前ではみな罪人なのだ。しかし、それは悲しむべきことでも、悲観するべきことでもない。なぜならそのような私たちすべての人を救うためにイエス・キリストが来られたのですから。
私たちは罪人です。それは私たちが自分を他者に誇って驕ることのないためです。しかし、同時に神さまは私たちを愛して、イエス・キリストの十字架によって罪を赦してくださった。私たちは神さまの恵みによって神の子とされました。神さまにあって隔ての壁は打ち壊され、皆は同じ神の子らとされたのです。
差別や憎しみ、戦争や虐殺といった悪い出来事は自分と他者を分けることから始まります。「あいつは自分たちとは違う、攻撃していいんだ!あいつらは人間じゃないんだ!」そうした言説は、自分の内なる悪にお墨付きを与えてくれる悪魔の誘惑です。
しかし、本当は神さまの前ではみんな同じ。みんな罪人で、完璧ではないけれど、それでもみんな等しく神さまに愛されている大切な人なんだという認識に立つことが、平和への第一歩なのだと思います。
パウロは言っています。
「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマ10章11~13節)
「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2章4節)
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(テトス2章11節)
また旧約聖書でも言われています。
「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。 わたしは神、ほかにはいない。」(イザヤ45章22節)
神さまは唯一であり、すべての人の神さまであり、すべての人の救いを望んでおられる。そのためにイエス・キリストが来られたのです。
キリスト教における救いとは、神さまとの和解であり、イエス・キリストを通して神さまと正しい関係、親しい親子の関係に入ることです。
神さまはすでにイエス・キリストを通して救いの御手を私たちすべての人に差し伸べてくださっている。それは、おぼれた際に、こちらに向かって投げられたロープに掴むのか、それともこれは私の望む救いではないと自らはねのけて、そのまま沈むかというようなものなのだと思います。
またそれは、大きな船から投げ出されたロープ付きの浮き輪のようなものだと言う人もいます。浮き輪にしがみついて、ロープを掴んで手繰るとき、大きい船である神さまと小さい私であれば、小さい私たちはより大きな船の方に近づいていくのではないでしょうか。私たちの方に船、神さまを近づけようとするのではなく、私たちの方が、その立ち位置を変えて、神さまの方へと近づいていく生き方をしたいと思います。
私たちがどう思うかではなく、神さまがどう思われるか、その視点を持ちたいのです。もちろん、私たちは神さまではありませんから、間違えます。自分は完全ではない、間違う存在だと受け入れつつ、間違うたびに度に素直に反省し、絶えず神さまの思いを尋ね求めて行きたいと思うのです。
そして、みんながお互いに互いの不完全さや間違うことを受け入れつつ、赦し合えるようになれば、私たちは生きやすくなるのではないかと思うのです。
「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
神さまは人を〇〇人だと分け隔てなさらず、どんな人も寛大な心で耐え忍び、忍耐してご自分のもとへと帰ってくることを待っていてくださっている。
他者を区別するような、敵視するような見方ではなく、神に愛されている神さまの子どもとして、互いに接しあう。そのような世界が早く来ますように。そのために、まず、私たちの間から、互いの存在を大切にしあう生き方ができますように。
私たちたちは自分で自分に自信を持てないかもしれない。また他者を信頼することは難しいかもしれない。そんなとき、私たちを愛してくださっている神さまに目を向けましょう。神さまは私たちを「生ける神の子ら」と呼んでくださっています。
私たちは何者か。私たちは「生ける神の子ら」です。神さまに愛され、互いに愛し合う存在です。今週も神さまの子どもとして、互いに大切にし合い、平和を求めながら、一緒に歩みましょう。
