1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。 8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。 10律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。 11「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。 12自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。 13人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。
<説教> 「憐みは裁きに打ち勝つ」
今日の聖書箇所はヤコブの手紙です。新約聖書には何人かのヤコブが出てきますが、伝統的にはイエス・キリストの弟のヤコブが書いたと考えられてきました。ですから、今日は彼が書いたものとして読んでいきます。
彼は、イエスさまが十字架にかかって死ぬまではイエスさまが救い主・キリストだとは信じていませんでした。それも無理はないと思います。小さい頃からよく知っている自分の兄が神の子だなんて、大工として働いていた兄がすべての人の救い主だなんて、信じられなくても無理はありません。しかし、復活したイエス・キリストに出会い、信じるようになって、初期の教会の指導者の一人になりました。
今日の手紙は、そのヤコブから、離散して住んでいる12部族の人たちに宛てられています。歴史の中で、ヘブライ人・ユダヤ人たちの王国はアッシリアとバビロニアという帝国によって滅び、バビロンや地中海沿岸を中心に世界のあちこちに住むようになりました。そうしたユダヤ人の中で、キリスト者となった人たちに向けて書かれた手紙です。ユダヤ人キリスト者に向けられたものですが、特定の教会に書かれたわけではないので、公同書簡とも呼ばれます。公同とは普遍的ということを指し、私たちキリスト教徒一般に向けて書かれたメッセージとして取ることができます。
今日の箇所でヤコブは、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言い、「あなたがたは、貧しい人を辱めた」と言っています。
この手紙が書かれた当時、教会の中で人を分け隔てし、貧しい人を辱めるという残念な出来事が起こっていたのです。それは良くないことなのだ、人を分け隔てしてはいけない、とヤコブは教え諭しています。
これは2,000年前だけでなく、今日でも起こりうることで、自分も気をつけないことだと思わされます。
私たちの住むこの社会には様々な差別があります。性別、出身、国籍、民族、社会的身分、職業、宗教、思想、性的指向などなど…。先人たちが差別と闘い、人権という概念が世界共通となった今でも、差別はなかなか無くなりません。それでも、他者がどうあれ、イエス・キリストを信じる私たちは差別を肯定してはならない。なぜなら、私たちの神さまは、人を分け隔てなさらない方だからです(ローマ2章11節、使徒言行録10章34節)。
キリスト者とはイエス・キリストに従う人のことです。私たちの主人、先生である方が差別しないのですから、私たちもその主に従いたいのです。
私たち人間には、残念ながら、何かしらかの偏見や差別心があります。それを一方的に責めるのではなく、みんなあるよね、自分にもあるよと、それを認めた上で、しかし、それは良くないよね、お互いに直していこうよと、皆で差別のない社会を目指していきたいのです。
神さまの前では人間は皆同じ、罪人で、同時に愛され赦された大切な存在です。神さまから見て、大切じゃない人は誰一人としていません。
イエス・キリストが活躍された約2,000年前には、奴隷制があり、身分制度がありました。異なった社会身分の人とは一緒に食事をしませんでした。またユダヤ人たちは他宗教の人や外国人、宗教的に罪人とされた人とは食事を一緒にしませんでした。けれども、そうした当時の社会の「常識」をイエスさまは打ち破りました。罪人として避けられた人や病人とも交わり、食事を共にし、パウロも外国人と一緒に食事をしました。
初期の礼拝では聖餐も愛餐も分けられておらず、パン裂きといって皆で一緒に食事をすることが大事な礼拝の一部でした。そこでは、社会的身分も国籍も性別も、すべての隔てが取り払われます。
イエス・キリストはすべての人の救い主であり、すべての人のために死に、すべての人のために復活してくださいました。神の国では誰も分け隔てされません。だから、神の国の先取りである礼拝や教会に集う私たちも分け隔てしてはならないのです。どんな人とも一緒に、同じ神さまに感謝し、賛美し、同じものを分け合って食べるのです。
これは千利休の茶の湯の思想と共通していると言われます。彼の考案した茶室に入るときには、武士は刀を置き、どんな人もわざと狭く造った入り口から、身をかがめて入らなければなりません。
そして互いに褒め合い、同じ器から同じものを飲みます。千利休は大阪の堺に住んでいました。そこは南蛮貿易で栄え、海外の宣教師の多いところでしたから、彼もキリスト教の教えに触れていたのかもしれません。
私たちも、この世ではどうあれ、教会では、ここは神の国と、身を低くして、互いに謙虚に、神さまに愛されている同じ人として、互いに敬意をもって接し合いたいと思うのです。
ヤコブは、『もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。』と言っています。
「隣人を自分のように愛しなさい」という教えは、イエス・キリストの命令であり、教会の守るべき最も大切な教えです。聖書の教えは、神さまを愛し、隣人を自分のように愛しないということに要約されます。
しかし、何か施しなどの善い行いをし、隣人を自分のように愛していると言っていても、もし人を分け隔てしていたら、それは愛せてないのと同じだとヤコブは言っています。例えば、モーセの十戒にある「姦淫するな」との掟を守っていても「殺すな」との掟を破っていたら、神さまの掟に違反しているのと同じだというのです。
しかし、私たちは、私たちが律法、神さまの掟を完全には守れない存在であることを、パウロを通して知っています。誰も律法を守ること、神さまからの掟を完全に守ることでは自分を救うことは出来ません。なぜなら、不完全な存在である私たち人間は完全に律法を守ることは出来ないからです。
そのような私たちを救うためにイエス・キリストが来てくださったのです。私たちはイエス・キリストによって罪を赦され、律法から解放されて、自由な者とされました。しかし、それは私たちがそのままでいいということを意味しません。パウロも「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5章13節)と語っています。私たちがイエス・キリストによって自由な者とされたのは、一人の自由な人として、互いに愛し合って、互いに大切にし合って、生きるようになるためです。
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」
人に憐みをかけない者は、自ら裁きを招くことになる。イエスさまの語られた「仲間を赦さない家来のたとえ」という話がマルコ福音書18章21~35節にあります。
ある王様に仕えている家来が、一生かかっても返せないほどの莫大な借金をしていました。ある日、王様から借金を返済するように求められた家来は、返済を待ってくれるように懇願します。それを見た王様は憐れに思い、返済を待つどころか、借金をチャラ、帳消しにしてあげました。なんて気前のいい王様だろう!と、ここで終われば良かったのですが、そうはなりませんでした。
王様に借金を赦してもらったこの家来が王宮の外へ出ると、自分に借金をしている同僚の家来に出会います。するとこの借金を赦してもらった家来は、自分に借金をしている仲間の首を絞め、借金返済を迫りました。仲間は返済を待ってくれるようにと懇願しましたが、家来は許さず、仲間を牢屋に入れてしまいました。
それを知った王様は怒り、この家来を呼びつけて『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡したというお話です。このたとえでは、神さまを王様、家来が私たちを表しています。
私たちは、神さまに赦されないはずの大きな罪を赦された。それは自分では一生かかっても返しきれない借金を帳消しにしてもらったようなものです。私たちを赦してくださった神さまは、私たちも赦し合い、大切にし合って生きて行くことを望んでおられます。私たちが互いに憐れみをかけあうとき、私たちの憐れみは裁きに打ち勝つのです。
その事を忘れず、いつか神さまの前に立つとき、よくやったと言われるように生きられたらと思います。
