1 初めに、神は天地を創造された。
2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3 神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
<説教> 「神の通奏低音」 秋山千四郎牧師(琴似中央通教会)
趣味の話で恐縮だが、かつて北見に住んでいた時、マンドリン・アンサンブルのサークルがあって、そこで私はギターのパートを担当していた。そのサークルの名前は「カノン」と言う。「パッフェルベルのカノン」という有名な曲があって、その曲にちなんで付けられた名前だ。だから、マンドリンアンサンブル・カノンの看板曲と言うか、得意のレパートリーは「パッフェルベルのカノン」で、アンコールなどでよく弾いた。
その曲のギターパートは、最初から最後まで、ずっと同じ低音を弾き続ける。ドレミで言うと、レ・ラ・シ・ファ ソ・レ・ソ・ラ……この八つの音を、延々と弾き続けるのだ。最初は単音だけだが、やがて、そこに和音を付け加えたり、アルペジオを入れたりするのだが、とにかく、最初から最後までまったく同じベースの音を弾き続ける。これを、音楽の専門用語で「通奏低音」と言うらしい。いわば音楽の土台のようなものだ。
そして、このギターの通奏低音の上に~音の土台の上に、第一マンドリン、第二マンドリン、また、オーケストラのビオラやチェロにあたる、マンドラやマンドセロといった楽器が、様々なメロディーをのせて弾いて行く。時に楽しげなメロディーを、時に悲しげなメロディーを、あたかも音の織物のように重ね合わせて弾いて行く……。フォルテッシモの時などは、マンドリンの音にギターの音がかき消されてしまって、聞こえない時がある。でも、耳をそばだててよ~く聞くならば、ギターの音は鳴っているのだ。通奏低音はどんな時にも鳴っている。フォルテッシモの時もピアニッシモの時も、時が良くても悪くても、常に鳴り響いているのが通奏低音だ。
ところで、先ほどお読みいただいた『創世記』の冒頭、天地創造の物語だが、ここは言うならば「聖書の通奏低音」と言ってよい箇所だと思う。聖書の通奏低音……つまり、ここで提示されているテーマが、実は、聖書の中心テーマ、聖書の基礎~土台となるテーマであって、ここに出て来るテーマが、聖書全巻にわたって鳴り響いているのだ。ここに出て来るテーマの上に、創世記から黙示録に至るまでの、様々な教えや物語があたかも織物のように展開して行くのだ。
パッフェルベルのカノンの通奏低音は、八つの音符からなっていたが、聖書の通奏低音は、創世記1章1節から2章3節までの七つの段落からなっている。それは、どのような旋律を奏でているのか、どのようなメッセージを語っているのか、ということを今日は見て行きたい。
先ず、聖書を読む上で大事なことは、時代背景について知っておくことだ。『創世記』は、いつ頃書かれた書物なのか……。『創世記』は、その内容から言って、聖書の中で最も古い時代に書かれた書物と思われがちだが、実はそうではない。『創世記』は比較的新しい時代に書かれた書物だ。紀元前6世紀後半、バビロン捕囚の時代に書かれている。
つまり、バビロン捕囚という、イスラエルにとって最も困難な時代、最も苦しい時代に、人々は問うたのだ。「私たちは何のために生きているのか……私たちはどこからやって来て、これからどこに向かおうとしているのか」……バビロン捕囚という深い闇の中で、人々は、こうしたいのちに関する根源的な問いを問うたのだ。そして、この問いに対して響いて来た神の通奏低音の旋律……それを書きとめたのが、創世記冒頭の天地創造の物語なのだ。
第一日目だけ、読みながら見て行きたいと思う。1節、2節。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。
ここに、明らかにバビロン捕囚の現実が反映されている。つまり、この世界は「混沌」の世界なのだ。そして「深淵」がポッカリと口を開いていて、その深淵の面を闇が覆っている……そんな世界なのだ。しかし続けてあるように、「神の霊が水の面を動いていた」……当時の人々は、このように世界を捉えていたのだ。ここで、「動いていた」と翻訳されている言葉だが、そのもともとの意味は「雌鳥が卵を抱く」と言う意味の言葉だ。雌鳥が卵を抱く……そこから、いとおしく包み込む……そんな動き、動作を表す言葉だ。
だから、この地上世界は、確かに、混沌としており、深淵が口を開き、闇が覆っている、そんな世界ではあるのだ。しかし、あたかも雌鳥が卵を抱くかのように、主なる神が、この地上世界のすべてを、混沌も深淵も闇も含めた、この地上世界のすべてを、その御手の内に、やさしく、いとおしく、包み込んでいてくださっている……そんな神様の霊が動いている、そんな神様の霊に満たされている……それが、私たちのこの地上世界なのだ……という、神を信じる者~信仰者ならではの世界観が、先ず、冒頭に示されるのだ。
そしていよいよ、天地創造の御業が始まって行く。3節・4節。
「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」。
初めに神は、光を創造される。この光は、太陽の光でも月の光でもなく、この地上世界、宇宙全体を照らす神の光……根源的な光のことだ。肉の目には見えない光……救いの光、赦しの光、希望の光……そんな光のことだ。ちなみに、目に見える光、太陽と月の光は14節以下で創造される。
そして神は、自ら創造されたその光を見て「良しとされた」とある。原文では「これはいい!」「いいじゃないか!」「最高だぜ!」……そんなニュアンスの言葉だ。
次に4節の2行目から、
「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」。
ここで大切なことは、聖書の時間の流れ、聖書の時間の捉え方だ。それは夕べから始まり、朝へと進んで行く時間の流れだ。これは私たち人間の時間の感覚と逆だ。朝から夕べへ……ではなく、夕べから朝へ……闇から光へ、失望から希望へ、悲しみから喜びへ、死からいのちへ……これが、神が設定された時間の流れであり、神の時間の捉え方なのだ。
以上が天地創造の第一日目だが、二日目以降、創造される中身、被造物が異なるだけで、すべて同じ枠組みで創造の御業がなされて行く。共通した三つの枠組みがある。①神による創造。②神の良し。③夕べから朝へ。この三つの枠組みの中で、天地創造が行われて行く。そして、この三つこそが「神の通奏低音」とも言うべき調べであり、メッセージなのだ。
順番に見て行くと、先ず、①神による創造。
つまり、この世界は、この世界に存在する被造物は……漫然と、漠然と、何となく、無目的に存在しているのではなく、すべて、神によって、神の御意志によって、神の意図によって、存在しているということだ。と言うことはつまり……この世界に存在するすべてのものは意味を持っている……目的を持っているということだ。この世界に意味のないもの、目的のないものは存在しない。存在している以上、ここにこうしてある以上、すべてのものには、特に、すべてのいのちには~すべての人生には、意味がある……目的がある……ということだ。
②神の「良し」。
この世界のすべてのもの、すべてのいのちは、神の肯定のもとにある、ということだ。この世界は、私たちのいのち~私たちの人生は、否定の上に置かれているのではない。それはどんな時にも、どんな場合にも、一見否定的にしか見えない時にも、実は、神の大いなる肯定の上に、神の然り、神のよし、神のOKの上に置かれている、ということだ。
③夕べから朝へ。
神の時間の流れは、夕べから朝へ、闇から光へ、失望から希望へ、疑いから信頼へ、憎しみから愛へ、対立から和解へ、死からいのちへ……これが神の時間の流れであり、この神の時間の流れこそが、この世界の、この宇宙の、そしてあなたのいのちの、あなたの人生の、本当の時間の流れである……ということだ。
以上の三つの調べ、三つのメッセージ、①神による創造、②神の「良し」、そして③夕べから朝へ……バビロンに捕囚されている民は、この「神の通奏低音」を聞き取ったのだ。そして、この調べこそを最も大切なメッセージとして聖書の冒頭に書き記すと共に……人々は、バビロン捕囚という厳しい現実のただ中を、この「神の通奏低音」によって支えられ、励まされ、やがては、その厳しい現実を克服し、乗り越えて行くことになるのだ。
今日は、教会暦~教会の暦では一つの節目となる日だ。長かった聖霊降臨節が先週で終わって、今日から降誕前節が始まって行く。今年ももう、クリスマスの準備に取り掛かる時だ。振り返ってみると、今年もいろいろなことがあった。嬉しいこと、悲しいこと……願い通りになったこと、願い通りにならなかったこと……今年もいろいろあった。そして大切なことは、この世の事柄に一喜一憂して、時に舞い上がり、時に落ち込むことではなくて……どんな時にも鳴り響いている「神の通奏低音」に気付くことだ。「神の通奏低音」を聞く耳を持つことだ。
繰り返しになるが、私たちは、神によって作られた存在なのだ。だから、私たちのいのちには、私たちの人生には、明確な意味と目的とがあるのだ。また、私たちは神の大いなる肯定の下に置かれているのだ。何があっても取り消されることのない「神のよし」のもとに置かれているのだ。そして私たちは、夕べから朝へと向かって流れて行く、神の時間の流れの中を生きているのだ。夕べから朝へ……。時に私たちは、深まる闇に向かって~夜に向かって、生きて行かなければならない時もある。しかし、それは通過点であって、私たちは夜を突き抜け、闇を突き破り、人生の夜明けへと導かれて行くのだ。
聖書はそのように語っている。聖書はそのように約束している。私たちは疑うかも知れない。しかし、聖書はそのように語っており、約束しており、断言しているのだ。ならば、自分の言葉、この世の言葉を信じて生きて行くのではなく、聖書の言葉、神の言葉を信じて生きて行こう。その時私たちは、自分の可能性から解き放たれて、神の可能性に生きる者となるのだ。だから、神の可能性に生きる者として、今年もそろそろ、クリスマスの準備に取り掛かって参りたいと思う。
