11月5日 降誕前第8主日・聖徒の日 創世記3章1節~15節

1主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

2女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。

3でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

4蛇は女に言った。 「決して死ぬことはない。

5それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

6女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

7二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

8その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、

9主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」

10彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

11神は言われた。 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

12アダムは答えた。 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

13主なる神は女に向かって言われた。 「何ということをしたのか。」

女は答えた。 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

14主なる神は、蛇に向かって言われた。

「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。

15お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」

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<説教> 「蛇のささやき」 三好祐輝牧師

先週から教会暦が降誕前に変わりました。それまでの聖霊降臨節と違い、数字が増えていくのではなく、減っていく。クリスマスへのカウントダウンの始まりです。

クリスマスまでの4週間、アドベントまではまだ一ヶ月近くありますが、いよいよという感じがしますね。クリスマスは忙しいけれど、喜ばしい時期です。なんたって私たちの救い主、イエス・キリストの誕生をお祝いする時期ですし、子どもたちは今からどんなプレゼントを貰えるかとウキウキ、そわそわしているんじゃないでしょうか。美しい讃美歌やごちそう、心温まるクリスマスの物語の数々など…。普段色々辛いことがあっても、この時だけは日常を離れることが出来る祭の時。また、普段はなかなか出来ない、慈善活動にも協力してみようかしらと思わせてくださる時でもあります。嬉しい、楽しいクリスマス。私にとっても昔から大好きな時期です。

でもその喜ばしい時期を迎えるには、どうしても避けては通れない話題があります。

それは私たち人間が持つ「罪」の問題です。イエス・キリストは私たちの、そしてすべての人の救い主です。でも救い主って、いったい何から助けてくれるの?それは私たち人間の、神に対する罪と罰から助けてくださるのです。イエス・キリストを自分の救い主と受け入れるためには、まず、全人類に、そして自分自身にも「罪」があるのだということを自覚しなくてはなりません。そうでなくては、神の救いも、イエス・キリストも、自分とは何の関係もないことになってしまします。

自分自身の罪を自覚し、そのうえで、イエス・キリストによってその罪が赦されたことを信じる。

それが私たちへの福音であり、喜びとなるのです。そのために、今日の聖書箇所は創世記3章が選ばれています。これは人間がなぜ「罪」を持つのかという理由を説明する物語、原因譚です。

この物語登場人物は、神、男、女、そして蛇です。

「楽園追放」の物語として有名で、モーセの海割りと並び、日本に住むクリスチャンではない人でも知っているお話ではないでしょうか。とはいえ、蛇にそそのかされて人間の祖であるアダムとイブが神から食べてはいけないと言われた知恵の実、リンゴを食べて楽園から追放された話として知られているように思います。アイフォンなどでも有名なアップル社のロゴ、リンゴをかじったマークもこの物語に由来していると聞いたことがあります。でも実は、どこにもリンゴとは書かれていません。リンゴという説は後から出てきた解釈です。では聖書では何と書かれているのでしょう。創世記2章7~9節と、15~16節を読みます。

『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2章7~9節)

『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。

主なる神は人に命じて言われた。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」』(創世記2章15~16節)

楽園、エデンの園にはあらゆる木があり、どの木の実も食べることがゆるされた。命の木ですら、食べることができた。ただし、「善悪の知識の木」の実からだけは食べてはいけないとされた。

さて、ある時、神に造られたものの中で最も賢い蛇が、人間を誘惑します。

蛇は女に言いました。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えます。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

ここで登場人物である女、後にエバと名付けられますからエバと呼びます。エバは園の中央に生えている木の果実に「触れてもいけない」と言っていますが、先ほど、お読みした創世記2章では、神はそんなことは言っていません。また、園の中央には「善悪の知識の木」だけでなく「命の木」もありましたが、それは食べてもよいはずでした。神は、死につながる「善悪の知識の木」だけ、食べてはいけないと言われたのです。イブは神の命令を勝手に拡大解釈しています。このことは、今日の私たちもよくやりがちです。例えば、新約聖書に出てくる律法主義や、神の命令だと言って殺しあう「聖戦」などはその悪い例でしょう。なぜ、エバは触れてもいけないと付け加えたのでしょう。もしかしたら、本当は食べてみたい、せめて触れてみたいと思っていたのかもしれません。

蛇はエバに言いました。

「決して死ぬことはない。 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

蛇は直接、「食べなさい」とは言いませんでしたが、蛇は一つの噓と、一つの真実を織り交ぜまぜてささやきます。「決して死ぬことはない」、「神のように善悪を知るものとなる」と。

エバが見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。エバは実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。

エバはついに、自ら実を取って食べました。そして一緒にいた男、アダムにも手渡します。アダムも同じようにその実を食べました。エバが「善悪の知識の木」の実を食べたとき、アダムもそこに居ました。ということは、きっと蛇がイブを唆したときにもアダムはそこにいたのです。でも、アダムはエバを止めず、一緒に食べました。エバと同じで、アダムも食べてみたかったのかもしれませんね。蛇は二人が心に望んでいたことをささやいたのかもしれません。でも私たちが心に望むこと、それが必ずしも最善とは限りません。むしろ、悪い結果を生むことが往々にしてあります。

二人は神のようになろうとしましたが、それは叶いませんでした。二人は実を食べて神のように賢くなるはずでしたが、自分たちが裸だと気が付いた。人間はあくまでも神に造られた存在であり、神にはなれません。二人の企みは失敗したのです。旧約聖書の書かれたヘブライ語で「賢い」は「アームール」、「裸」は「エーローム」と言うそうで、言葉遊びが隠されています。私たち人間は愚かだということを強調しているようにも思えます。

アダムとエバは蛇にそそのかされて、神を軽んじ、神の命令に背きました。聖書の言う「罪」とは、神へ背き、反逆することです。そして思い上がって自分が神のようになろうとすることです。罪の結果、神が言われた通り、人間は死ぬ存在となりました。

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムとエバが主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

彼は答えた。 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

神は言われた。 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

アダムは答えた。 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

アダムはエバが食べるのを止めなかった。そしてエバがくれた実を、断ることもできたのに食べました。そして、すべてをエバのせいにして責任逃れをしようとしました。キリスト教では自己中心的な生き方を「罪」と言うと述べましたが、ここでも自己中心的な姿、罪ある姿が現れています。

それだけでなく、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が…」と神さまのせいにまでしています。自分が間違ったことをしたのに、神のせいにして逆恨みする。そのようなことを私たちもしたことがあるのではないでしょうか。そもそも、神は人間を造るとき、「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)のであり、それで十分「良し」とされていたのです。それなのに与えられているものに満足せず、自分勝手に付け加え、「神のように賢く」なろうとしたのです。

そして、私たちは神ではないに、まるで神になったかのように思い上がって、好き勝手に善悪を決め、他者を裁いてしまう。そのような自己中心的な生き方、愛である神への背きが「罪」です。 それはどんな人にもあるものです。

神はご自分に背いたアダムとエバ、そして蛇に裁きを告げます。そして人間は楽園を追放されましたが、しかし、神は人間を見捨てるようなことはなさいませんでした。神はアダムとエバに皮の衣をつくって着せてやりました。その息子のカインが弟アベルを嫉妬に駆られて殺してしまった時も、彼を保護しました。その後も何度も何度も人間は神に背き続けましたが、それでも、神は私たちを見捨てられませんでした。そしてついに、神の子イエス・キリストを私たちの救い主として送って下さり、イエスの十字架での死によって、私たちの罪を赦してくださったのです。それほどまでに、私たちは愛されています。

残念ながら、私たち人間は今でも神に背き続けています。

神の命令、律法は要約すると「神を愛し、隣人を自分のように愛すること」ですが、私たちは敵を作り出し、誰かを攻撃する。「殺すな」「むさぼるな」「復讐するな」「敵を愛せ」と神は言っておられるのに、ナショナリズム、国家という偽りの神や、富という偽りの神、そして自分自身など、様々な偶像に従ってしまう。神に背かせようとする、そうした蛇のささやきをきっぱりと断りたいものです。

次から次へと悲しいことが起こり、先の見えない、絶望したくなるような世界。でも、私たちは絶望しません。神は私たちを愛し、この世界を愛しておられるからです。

もうじきアドベントです。そして今年も、クリスマスを祝います。私たちは毎年毎年クリスマスを祝います。それはいつか必ずイエス・キリストが帰ってこられる、愛と平和の神の国、全ての人が大切にされる天の国が実現する。そのことを私たちが心に刻み付け、希望を持ち続けるためです。インマヌエル、神はいつも私たちとともにおられます。蛇のささやきに負けず、私たちは愛の主イエス・キリストに従い続けることが出来ますように。

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