1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
<説教>「すべての人を照らす光」
クリスマス、おめでとうございます。
今年はアドベント第4週目とクリスマスを一緒に祝いますから、4本目のろうそく、愛を表すろうそくと、主イエス・キリストの来臨を表す5本目のろうそくに火が灯りました。
希望、平和、喜び、愛、そのすべてが詰まったがキリスト教であり、クリスマスですが、アドベント最後のろうそくが「愛」を表すと言うのは、とっても素敵だなと思います。
イエス・キリストは、この世界を造り、私たち人間、私たち一人ひとりをお造りになった神の、私たちへの愛を教えてくださいました。
神の愛、それは最高の道であり、最も偉大なものです。
神の愛がなければすべては空しく、すべては無に等しい。
イエス・キリストを通して示された神の愛、それは私たちに命を与え、私たちを生かすものです。
(1コリント12:31~13)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」
(ヨハネ3:16~17)
イエス・キリストは神の愛が人の形をまとったような方でした。
時に厳しいことも言われるけれど、それは私たちを神に立ち返らせて、生かすためでした。
5本目のろうそくはイエス・キリストを表します。
それは、今日の聖書箇所にもあるように、光がイエスの象徴だからです。
旧約聖書の冒頭、創世記1章を読むと、世界創造の物語が記されています。
そこには有名な「光あれ」という神の言葉がありますが、そのようにして、神は言によって世界を創造された。そしてその世界創造よりも先に生まれ、神とともに世界を造ったのが、神の言である神の子イエス・キリストだと言うのです。
その言は命を与え、人間を照らす光です。
その光こそが、イエス・キリストです。
その光は暗闇の中で輝いている。
イエス・キリストがお生まれになった当時のイスラエルは、強大なローマ帝国の支配下にありました。今日でいう占領地です。パックス・ロマーナ、ローマによる平和と言ったところで、占領されている側からすれば暗闇のようなものです。また、当時は人権という概念もなく、人間の命が粗末にされる社会でした。そんな暗闇のような社会に、神の子が光としてこられた。
その光は、すべての人を照らす光だった。
神はこの世界をお造りになった方、ユダヤ人だけなんてケチ臭いことは言われない。
すべての人を造り、すべての人を愛し、すべての人を照らしてくれる方。
聖書は、私たち人間にはだれでも、罪があることを教えます。
その罪とは、新約聖書の書かれたギリシャ語でハマルティアと言い、「的外れ」を意味します。
愛である神のほうを向かないで、自分勝手に、自己中心的に生きることを罪と言うのです。
私たち人間はみな、神に造られたけれども、神に背いて自己中心的に生き、やがて死ぬ存在となった。神はそのような私たちを憐れんで、イエス・キリストをこの世界にお遣わしになった。
それは神の子ご自身が、私たちの身代わりになられることで、私たちの罪を赦し、イエス・キリストから新しい命を頂いて、生きるようになるためでした。
なぜ神はそんな回りくどいことをなさるのだろう。
それは、私たちが正しい行いをしている人だから救われるのではない、ということを教えるためです。
神の前では誰も自分を他者よりも正しいとは誇れない。私も、あなたも、みんな、神の前では等しく罪人であり、等しく愛されている大切な存在です。
まず初めに、神が私たちを愛してくださった。そして、同じようにあなたがたも互いに愛し合いなさいと言われます。
確かに私たちはみんな、罪を犯してしまう。
でも神はイエス・キリストを通してその罪を赦してくださった。
過去のことはもういい、大丈夫、赦された。
そして、将来のことも、私たちを愛しておられる神が帰って来られるのだから大丈夫。
だから、今、安心して、光であるイエス・キリストとともに歩もう。
そのように、すべての人は神に招かれているのです。
神は、ついつい自己中心的に生きてしまう私たちに、互いに愛し合う動機を与えてくださいます。
暗闇の中に生きている私たちを、愛という光で照らし、命へと導いてくださるのです。
2000年前とは違い、人権という考えが普及した今日でも、戦争が起こり、人が大切にされない世界が続いています。この暗闇はいつまで続くのだろうかと思います。
しかし、どれだけ闇が深くても、確かに光は私たちとともにあって、私たちを照らし、招いてくださっている。暗闇のように感じる時こそ、私たちには光である、イエス・キリストが必要です。
先週の金曜日、12月22日は冬至でした。冬至は一年の中で、最も昼が短く、夜の長い時です。
クリスマスはそのような、最も闇の深い時に祝われます。
でも、冬至を過ぎれば、今度は夜がだんだん短くなって、最後には必ず、明るく暖かな春が来る。
「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」
(ヨハネ12:46)と主イエスは言われます。
昔、ある教会の夕礼拝に参加したとき、礼拝の後でイエス・キリストを表すろうそくから参加者が持つろうそくに火が順々に受け渡されていく、という体験をしました。
一本のろうそくから火が広がって、最後には参加者が持つすべてのろうそくに火が灯りました。
暗闇に包まれた教会の庭が、みんなの持つろうそくで照らされ、とても明るくまぶしかったことを覚えています。
そのように、神は私たちの心にも、イエス・キリストという光をくださいました。
そしてその光は私たちが集まることで世界を明るく照らしてくださる。
たとえ、私の中のろうそくの火が消えても、イエス・キリストという火は決して消えない。
何度でも私を赦し、何度でも私の心に光を与えてくださる。
「たとえ倒れても、わたしは起き上がる。 たとえ闇の中に座っていても 主こそわが光。」
(ミカ7:8)
大丈夫、私たちには、すべての人を照らす光、イエス・キリストが共におられます。
クリスマス、おめでとうございます。
すべての人の心に、イエス・キリストの光が灯りますように。