2024年1月21日 降誕節第4主日 ヨハネ福音書 2章1~11節 

1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。

2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。

3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。

4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。

7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。

9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、

10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

目次

<説教>「カナの婚礼」

今日の聖書箇所は「カナの婚礼」、カナという町で行われた婚礼の宴会での出来事です。

ヨハネ福音書2章11節によると、これはイエスが行われた最初の奇跡、「しるし」です。

だから、このカナの婚礼での出来事から、イエスの公生涯、公の宣教が始まったとされています。

カナという町がどこにあったのかは、はっきりとしません。おそらくここだっただろうとされている候補地があるのですが、イエス・キリストの地元であったナザレからは10~18kmくらい離れた所だろうと考えられています。当時の一般民衆の主な移動手段は徒歩だったでしょう。今日、成人の徒歩での平均時速は4kmだそうですので、ナザレからだと徒歩で2時間半~4時間半くらいの道のりでしょうか。当時の人は、今日の私たちより歩きなれていて、歩くのも早かったかもしれませんが、舗装道路も少ない時代ですから、案外同じくらいの速さかもしれません。

今日の私たちからすると、ちょっと遠いなと思うかもしれませんが、当時の人からすると、これくらいの移動は当たり前だったことでしょう。

さて、ある日、カナで婚礼が行われ、イエスの母マリアがそこにいた。この婚礼はマリアの友人か親族のものだったのかもしれません。そしてそこにイエスとイエスの弟子たちも招かれていた。

当時の結婚式とはどういうものだったのでしょう。

今日の結婚式は昼間に行われるのが一般的だと思いますが、ユダヤ教では日暮れから結婚式が始まります。

これは、神がアブラハムに、「あなたの子孫を天の星のように増やす」(創世記15章5節、22章17節)に約束されたことに由来するそうです。

日暮れに、家族と友人たちに付き添われた花婿が、花嫁の両親の家へ花嫁を迎えに行きます。

そういえば、マタイによる福音書25章の「10人のおとめのたとえ」も舞台は夜でしたね。

さて、迎えられた花嫁はベールをかぶり(創世記29章23節)、友人たちと一緒に花婿の家に向かいます(詩編45編14~16節)。夜道は明るく松明で照らされ、歌や音楽が奏でられました。

新居では結婚する二人が王と王妃のように晴れ着をまとい、天蓋の下に座ります。招待客は肉やぶどう酒を飲んだり食べたり、お祝いは1週間続くこともあったそうです(創世記29章27節)。

喜ばしく、楽しい宴の席。ところが、その途中でぶどう酒が足りなくなってしまった。まだ宴が続くのに、これではせっかくの婚礼の宴が白けてしまう。そこでイエスの母マリアは、「ぶどう酒がなくなりました」とイエスに言いました。イエスに何とかしてほしいと思ったのでしょう。

「えぇ、そんなことを言われても…」、私ならそう思うでしょう。イエスも客として招かれています。彼は大工のヨセフの息子として育ち、宣教活動を始めるまではきっと、大工として働いていたことでしょう。決して裕福ではないはずです。宴会で使う大量のワインをどう工面しろというのか…。

しかしイエスの答えは意外なものでした。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われたのです。自分のお母さんに対して、なんだか他人行儀で、受け答えも何を言っているのかよく分かりませんね。

今日の箇所は冒頭で、「3日目に」という言葉から始まっています。3日目というと、イエス・キリストが十字架で死んで、復活したのも3日目でした。もしかしたら、ヨハネによる福音書の記者はカナの婚礼と復活の出来事を重ねて見ているのかもしれません。そうだとすると、イエスが言われる時とは、十字架での私たちのための死と復活の「時がまだ来ていない」と言われたのではないでしょうか。「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3章1節)と聖書は語ります。また、イエスは「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(ヨハネ福音書14章10~11節)と言われます。

子なる神、イエス・キリストが行われたことはすべて、父なる神の意志と計画によるものであり、

それには定められた時があった。イエスの活動は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と述べ伝え、様々な癒しや悪霊の追い出しなどの奇跡・しるしを行われたけれども、その活動の最大の業は、十字架による私たちの罪の贖いのための死と復活です。

この時はまだ、その時ではなかったからこそ、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたのでしょう。

また、イエスの行いは肉親への情によるものではないと示すために、母にあえて、「婦人よ」と呼びかけられたのかもしれません。「わたしとどんなかかわりがあるのです」とは、聖書の他の箇所では「ほおっておいてください」といった意味で使われています(士師記11章12節、列王記上17章18節、列王記下3章13節)。

イエスは母マリアの頼みを断わりました。しかし、母マリアは諦めませんでした。そして、宴会の行われた屋敷の召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのです。きっとイエスは見捨てない、何とかしてくれるという信頼があったのかもしれません。

そしてその期待通り、イエスは見捨てませんでした。

宴会の行われた家には、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあり、いずれも2~3メトレテス入りのものだったそうです。1メトレテスは約39リットルなので、1つの水がめは約80~120リットル入ります。私たちが普段よく目にする牛乳パックが1リットル、飲み物の大きなペットボトルが2リットルと考えると、80~120リットルというと結構重いですよね。それが6つも。

家庭のお風呂の水がだいたい200リットルだそうなので、お風呂3回分ぐらいの量でしょうか。

ユダヤ人は外から帰って来た時や食前に水で身を清める習慣があり、食器なども清める習慣がありました。また、婚礼でたくさんの来客があるので大きな水がめが必要だったのかもしれません。

イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしました。 するとイエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われましたました。

一体なぜこんなことをするんだろうと、召し使いたちは不思議に思ったことでしょう。

人力で、大きな水がめ6つをかめの縁まで水を満たすことは、結構な重労働だったはずです。

しかし召し使いたちはイエスの言われた通りにし、婚礼の宴会を取り仕切る世話役のもとへ運んで行きました。

「世話役はぶどう酒に変わった水の味見」をしました。

え、いつの間に!?水がぶどう酒に変わっていたと言うのです。

神の子イエスによって水がぶどう酒に変わるという、ありえないこと、奇跡が起こりました。

「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった」とあるので、召し使いたちが水をくんだ時にはもうぶどう酒になっていたのでしょう。

そのぶどう酒を味見した世話役はびっくりして、わざわざ花婿を呼んで言いました。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

当時のユダヤ人の風習では宴会の最初に良いぶどう酒を出し、酔っぱらって味が分からなくなってくると、味の劣ったぶどう酒を出していたようです。合理的でよく考えられているなと思います。

しかし、イエスが水から変えたぶどう酒は、びっくりするほど美味しい、良い酒に変わっていたのでしょう。最初に出した良い酒よりも美味しかったに違いありません。

だからこそ、世話役はびっくりし、わざわざ花婿を呼びだしたのです。それはきっと、あなたは結婚して家庭を持つのだから、こんな不合理でもったいないことをしてはいけない、と善意による忠告だったのかもしれません。花婿からすれば、何のことだかさっぱりだったと思いますが、このイエスが初めてなさったしるし・奇跡を見ていたイエスの弟子たちにとっては、イエスが救い主だと信じるきっかけになったのでした。

さて、今日のこの「カナの婚礼」の物語から、私たちにはどんなメッセージが語られているのでしょうか。いろいろと考えられると思いますが、今日は3つのことに注目してみます。

1つ目。イエス・キリストの「時」とは、十字架による死と復活の時。イエス・キリストは私たちの罪を赦し、私たちを神の子として、永遠の命をくださるためでした。

2つ目。イエスは決して見捨てないと信じ、信頼すること。宴会の席でぶどう酒が無くなったことなど、大したことのないことのようにも思えます。しかし、イエスは何とかしてくださると信じた母マリアのように、そんなことでもイエス・キリストを信頼したいと思います。望んでいた答えを返してくださらなくても、イエスは決して見捨てない。そのことが語られていると思うのです。

そして3つ目。この物語の召し使いのように、分からなくてもイエスを信じ従う事。彼らはイエスが何をしていたのか理解していませんでした。もし彼らが、イエスの言ったことを理解できないからとイエスに従わなかったなら、この奇跡は起こらなかったでしょう。私たちもイエスに従おうとする中で、理解できない、納得できない出来事と出遭うかもしれません。しかし、分からなくても、無駄に思えても、イエスに従ってみるといいうことが大事なのではないでしょうか。するときっと、イエス・キリストが何か起こしてくださると思うのです。

万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。

それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。

主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。

これは主が語られたことである。

その日には、人は言う。

見よ、この方こそわたしたちの神。

わたしたちは待ち望んでいた。

この方がわたしたちを救ってくださる。

この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。

その救いを祝って喜び躍ろう。(イザヤ書25章6~9節)

イエス・キリストを信頼し、そのみ言葉に聞き従って、今週も共に生きていきましょう。

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