2024年1月14日 ヨハネ福音書1:35~51

35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。

36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。

37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。

38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、

39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。

41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

43その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

44フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。

45フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

46するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。

47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。

49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

目次

<説教> 「イエスの弟子たち」

今日お読みいただいたのは先週の続きの聖書箇所です。

イエス・キリストの前に活躍した洗礼ヨハネは人々に、イエスについて、「世の罪を取り除く神の小羊」、「聖霊によって洗礼を授ける人」、「神の子」であると証言しました。

今回は、イエスの弟子たちによる証言です。

洗礼者ヨハネは二人の弟子と歩いていましたが、イエスを見かけて「見よ、神の子羊だ」と言いました。洗礼者ヨハネは人々から預言者か救い主ではないかと思われていました。この弟子たちも、そうであることを期待して、ヨハネの弟子になったのでしょう。しかしヨハネは、自分は救い主ではないと語り、イエスのことを「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる」と語っていました。この凄い先生、ヨハネよりもまさるとは、いったいどういう人だろう。先生が言われる「神の子羊」とはどういうことだろう?もしかしたら、この人こそが約束されたメシア・救い主なのか?と二人の弟子は思ったのかもしれません。イエスについていきます。

イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われました。

彼らは直截にイエスに尋ねることはできなかったのでしょう、イエスをラビ、ヘブライ語で先生と呼び、どこに泊まっているのかと尋ねます。イエスは二人に「来なさい、そうすればわかる」と答え、二人は従います。そしてイエスと一緒に泊まって、イエスと語り合い、この人こそが約束された「メシアだ」と感じたようです。

二人の弟子の一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレ。もう一人の名前は記されていません。

「私たちはメシアに出会った」、ついに神に約束された救い主が来た!その方に私は会い、従っている!アンデレの喜び、興奮はとても大きかっただろうと思います。アンデレはこの喜びを分かち合うべく、自分の兄弟をイエスのもとへ連れて行きます。私たちもイエスの弟子です。イエスに出会った喜びをアンデレのように、他の人とも共有できたらと思います。

アンデレに連れてこられたシモンも、イエスを自分の先生だと認めました。シモンはイエスから、「ケファ」、「岩」というあだ名を貰います。ケファとは当時の公用語の一つのアラム語での読み方で、新約聖書の書かれたギリシャ語でペテロのことです。

ペトロは漁師であり、「岩」というあだ名は、頑固で実直そうなペテロの人柄からきているとも考えられます。また、「岩」は、固く、しっかりとした土台のイメージです。ペテロはその後、イエス・キリストの代表的な弟子となり、初代教会の指導者の一人となるので、そのことを預言したあだ名ともとれます。

しかし、そんな彼も、はじめからしっかりした人ではありませんでした。自分だけはイエスを裏切らない、と言っていたけれど、いざイエスが捕まると逃げてしまい、自分にも害が及びそうになるとイエスのことなど知らないと否定までした。そして、自分が裏切ってしまったことを後悔し、泣いた。でも、そうした人間的弱さが、私たちと共通点を感じさせ、親しみが持てる人物だと思います。

彼は復活したイエスに出会い、赦され、変えられて、命を惜しまず宣教に努める人になります。そして、最後にはローマで迫害を受け殉教したと伝えられています。立派な岩も、初めから大きな岩だったのではなく、砂や泥が固まったり、マグマが冷えたり、熱や圧力を受けたりして、時間がかかりながら出来ていきます。彼もイエスと出会い、従い、様々な失敗を通して変えられて、岩と呼ばれるにふさわしい人になりました。私たちもイエスの弟子ですが、私たちも日々、何かしらか失敗しながら生きています。あんなことを言わなければよかった、あんなことしなければよかった、もっとああしていたら…。でも、イエスはそんな私たちを赦し、どれだけ時間がかかっても変えてくださる。ペトロはイエスの弟子のモデルとして、私たちに励ましを与えてくれる人だと思います。

さて、ヨハネの弟子だった彼らは、イエスと出会い、イエスに従うようになりました。

そして次の日、イエスはガリラヤへ向かう途中、フィリポという人に出会い、「私に従いなさい」と呼びかけます。フィリポは、アンデレとペトロと同じ、ベトサイダ(漁師の家)という町の出身だったそうです。彼らはガリラヤ湖の近く、ガリラヤ近辺の出身で、地図で見ると洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川東岸のベタニヤ(アル=マグタス)まで、150kmくらい離れていますが、洗礼者ヨハネの弟子になるために来ていたようです。彼らも救い主を待望していました。

彼もアンデレと同じように喜んだのでしょう、その喜びをナタナエルという人に伝えます。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」

しかし、ナタナエルには引っかかることがありました。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

ナザレという町は小さな町だったようです。また、旧約聖書には出てきません。律法にも、預言者の言葉にも出てこないナザレのような取るに足らない町から、何か良いものが出るだろうか。いや、出るはずがない。ここに彼の偏見や侮蔑が読み取れます。

また、ナタナエルは後にイエスが奇跡を起こす、カナという町の出身です。カナもナザレと同じガリラヤです。カナとナザレはそれほど離れていないようで(約10~18km)、ナタナエルはナザレのことをよく知っていたのかもしれません。だからこそ、信じられなかったのでしょう。私たちも、その土地や民族の出身ということだけで、偏見を持ってしまうことはよくあると思います。しかし、神は私たちの想像を超えて働かれるお方です。

さて、フィリポは、疑うナタナエルに「来て、見なさい」と誘いました。そこでナタナエルは見て確かめることにします。私が、ナタナエルの偉いなあと思うところは、疑いつつも、ともかく見てみようとしたことです。そうして、彼はイエスと出会います。

 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。

「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

これはおそらく、詩編32編からきていると思われます。

「いかに幸いなことでしょう

主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩編32:2)

「わたしは罪をあなたに示し咎を隠しませんでした。

わたしは言いました「主にわたしの背きを告白しよう」と。

そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。」(詩編32:5)

私たち人間は誰でも、自己中心的・利己的な心があり、キリスト教ではそれを罪と言います。

愛である神に背いて、心無いことをしてしまう罪。けれどもそれを自覚し、自らの罪を認め、神に告白する時、神は私たちの罪と過ちを赦してくださる。

私たちは日々、主に赦されながら生きている。

「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。」(詩編32:11)

ナタナエルもまた、神を信頼し、神に従おうとする人でした。

イエスはそのような彼を見て、「まことのイスラエル人だ」と言われました。

ナタナエルとしても、自分は神に信頼するイスラエル人だ、というアイデンティティがあったのでしょう。

ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。

ナタナエルは今日、初めてイエスと出会いました。イエスが彼を知っているはずがありません。それなのにイエスは、彼がフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見たと言われた。いちじくは、ぶどうやオリーブと並んで、イスラエルの人々に馴染み深い、大切な植物でした。きっとあちこちに植えられており、確かに、ナタナエルはフィリポに話しかけられる前にいちじくの木の下で休んでいたのかもしれません。会ったこともないイエスに、自分の行動を言い当てられた。不思議だ、こんなことができるのは救い主しかいない、そう思ったのかもしれません。

また、いちじくの木は、旧約聖書の預言にも出てくる木です。

「その日には、と万軍の主は言われる。

あなたたちは互いに呼びかけて ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」(ゼカリヤ書3:10)

「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

人はそれぞれ自分のぶどうの木の下 いちじくの木の下に座り

脅かすものは何もないと 万軍の主の口が語られた。」(ミカ書4:3~4)

神がイスラエルの背きを赦し、救ってくださるその日、この世が終わり、神ご自身がこの世界を治めてくださるその日には、人々は、美味しい実がなり、涼しい木陰を作るいちじくの木の下で平和に座っている。そのような神の国に、イエスはナタナエルもいるという幻を見た、という祝福の預言とも受け取れるかもしれません。

また、列王記上5:5には、

「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした」とあります。

メシア・救い主はイスラエルに平和をもたらす王です。ナタナエルはイエスに、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言い、自身の信仰を告白します。

 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」、これは創世記28章10節以下に出てくるヤコブの見た夢とそっくりです。天使たちが昇り降りするところ、そこには神も共におられます。ヤコブはそれを「神の家」、「天の門」と呼びました。人の子、つまりイエスご自身が、神がおられる「神の家」であり、「天の門」となられる。私たちはこの門を通して神とお会いすることになる。

神がアブラハムに「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」(創世記18:18)と約束され、

また、ヤコブ・イスラエルに「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」(創世記28:14)と約束されました。

その約束はイエス・キリストによって実現する。神の子によって、すべての民族は祝福される。

そのような偉大なことをあなたは見る、とイエス・キリストは言われるのです。

今日の箇所はイエスの弟子たちとなった人々のイエスについての証言と、イエスの答えを見てきました。教会に集う私たちも、彼らと同じイエスの弟子です。彼らに約束されたことは、私たちにも約束されています。イエス・キリストを信頼し、イエス・キリストの弟子として、生きていきましょう。

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