2024年1月7日 降誕節第2主日・公現後第1主日 ヨハネ福音書1:29~34

29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。

わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。

31わたしはこの方を知らなかった。

しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

32そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。

33わたしはこの方を知らなかった。

しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、

『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。

34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

目次

<説教> 「神の子羊」

新年、おめでとうございます。今年も皆さまとご一緒に主を礼拝できます幸いに感謝いたします。

今年は1月1日に北陸の能登半島で大きな地震があり、2日は飛行機事故と、悲しい出来事がありました。亡くなられた方々とご家族の上に主よりの慰めと平安がありますように。また、救助活動や復旧作業が進み、一人でも多くの方が助かりますように。一日も早く平穏な日常生活を送れるようにお祈りしております。

悲しい出来事がある時、私たちは「主よ、どうしてですか」と問いたくなります。旧約聖書のヨブ記や詩編の中でもそのような問いが見られます。このような問いは、普遍的な人類の問いなのでしょう。この世界をお造りになった善なる神がおられるのに、なぜ戦争や紛争、災害など、悲しい出来事が起こるのか。これは「神義論」と呼ばれるものです。神はおられるのか、神は正義のお方なのか、それならどうして、なぜ、なぜ、なぜ…。ヨブ記では神に造られた存在に過ぎない人間には、到底分かることではないという事が示されます。なるほどそうかもしれない。私たちは、なぜ自分が生まれ、この世に存在しているのかもわからない。普段は何気なく生きているけれども、よく考えてみれば、この世界には分からないことだらけです。

1月1日に札幌北光教会で新年礼拝が行われました。今年の説教者はK先生で、説教のなかでご自身の病気で苦しまれた体験をお話されました。「なぜ自分がこんな目に…」と神に問いかけたけれど、神は答えてはくださらなかった。そしてその体験と、ナチス・ドイツに迫害され、強制収容所に入れられ、生き残ったユダヤ人、「夜と霧」の作者、ヴィクトール・フランクルの言葉から「、神に問うという事は間違っている、むしろ自分たちが神からどう生きるのかを問われているのだという事に気が付いた」と話しておられました。

なるほど、その通りだと思います。この世界には、いくら問うてみても答えが与えられない問いがある。分からない、けれどこの世界はそうなのだ、神が「良し」とされ、そのようにお造りになったのだ、と受け入れることも必要なのだと思うのです。

地震や台風など、この世界には、私たち人間には避けえない災害がある。それは昔から、あるものです。でも人間には何もできないのか、ただ自然の脅威の中で苦しむしかないのか。きっとそうではないでしょう。神は私たち人間の造り主であり、この世界で助け合って生きていく知恵と力をお与えになっています。

私たちの住む日本は地震大国です。でも、そのために、免震や耐震などの技術が発達し、被害を減らす減災や防災などの考えが生まれました。確かに今回の地震でも大きな被害が出ていますが、もしもこれまでの地震を受けて建築技術が発達していなければ、もっと大きな被害が出ていたかもしれません。

また、今日でも食糧難で苦しむ人たちは多くいますが、一方では食べきれないほどの食料があり、大量に廃棄されている。これはこの世界をお造りになった神さまが悪いのでしょうか。決して、そうではないでしょう。神さまは人間が助け合えば、すべての人が生きて行けるだけのものを与えてくださっている。それなのに、それを独占しようとする時、苦しみが生まれるのです。

詩人あいだみつおさんの詩に、「うばい合えば足らぬ、分け合えばあまる」という言葉があるそうですが、まさにそのような状況になっている。これは神さまが悪いのではなく、私たち人間自身の問題です。

戦争も神が起こすのではなく、私たち人間が起こしているのです。神は私たちに「殺すな」、「隣人を自分のように愛せ」と命じておられる。それに背くから、戦争が起こるだと思います。私たちはすぐに神さまのせいにしたくなりますが、人間にはその前にできることがあるはずなのです。

なるほどそうかもしれない。けれど、どうすればすぐに世界が良くなるのか。残念ながらそのような奇跡のような、魔法のようなことは、この世界ではありません。でも、それでも、私たちには希望が与えられている。希望があるからこそ、私たちは生きていくことができる。アメリカの公民権運動も、ベルリンの壁崩壊も、ベトナムからの撤退も、一日にして成功したわけではありませんでした。沢山の人が忍耐し、困難の中でも希望を捨てなかったから、実現したことでした。公民権運動のキング牧師は、「私には夢がある」と語り、自分の命が危険にさらされている時でも希望を捨てませんでした。この世界をお造りなった神が最後には必ず、この世界を愛ある世界にしてくださる。その希望が彼の、そして公民権運動や反戦運動、平和運動をする人たちの力となっていったのです。同じ希望は私たちにも与えられています。

時に世界に、人間の冷たさ、愚かさに絶望しそうになるけれども、同時に、神がご自身の似姿としてお造りになった人間の優しさ温かさに励まされ慰められもする。神の救いは始まっているけれども、それは完成したわけではなく、完成への途上にある。大丈夫、たとえ私はその完成を目にしなくても、神が必ずそれを成してくださる。そう信頼して、私たちはいま自分に出来ることを精一杯、していきたいと思います。

さて、今日の聖書箇所は洗礼者ヨハネがイエス・キリストついて証しをする箇所です。イエスに先立って活動していた洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めを勧め、それを受け入れた人々に水による洗礼を授けていました。

悔い改めとは、自己中心的な生き方をしている私たちの歩みを方向転換し、愛である神のほうを向いて生きることです。なるほど。では、具体的に私たちはどうしたらいいのか。ヨハネの説教を聞いた人々もそう思って、ヨハネに問いかけます。

ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。

食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。

徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。

ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。

兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。

ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。

(ルカによる福音書3章11節~14節)

どうでしょう、これだけ聞くと、そんなに難しくないようにも思えるかもしれません。

でも、あえて言われているということは、そうできていないということだったのでしょう。

そしてそれは、今日でも同じかもしれません。

しかし、もし私たちがそのようにできたなら、神が言われる、互いに愛し合うことにつながる。

ヨハネは荒れ野で叫ぶ者の声として、道を整える役割が与えられたと語ります。

それは山を低くし、谷を盛り上げ、荒れ野に道を整えます。私たちの方にやってくる救い主を、私たちが受け入れるための道。バビロンにいるような私たちが、神のもとへ帰るための道。この世界で山のように高い地位にある人が低くされ、最も低くされている人が上げられて、平坦になり、みんなで一緒に神を礼拝できる道…。

ヨハネの語る内容に、人々はこの人こそが約束されたメシア・救い主だと考えました。

しかしヨハネは、自分はそうではないと語ります。そして、洗礼を受けるために自分のもとへ来たイエスを見て、イエスについて証しするのです。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。

わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

ヨハネは正しいことをするようにと勧めました。

けれど私たち人間は、正しいことを知っていてもそれを行うことが、なかなか難しい。

私たちは善いことが出来るように神さまに造られているけれども、自分の中に罪、自己中心的な思いがあって、邪魔をする。愛である神さまが招いておられるのに、躊躇して遠ざかってしまう。

その神さまからから私たちを遠ざける、私たちの罪を取り除くために来られたのがイエスなのだとヨハネは言うのです。

人間としてのイエスはヨハネよりも年下でしたが、イエスは神の子であり、神がこの世界をお造りになった時にはすでに居られた。人間ではなく、神の子が私たちから罪を取り除いてくださる。

それはどのようにでしょうか。それは十字架によってです。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして、私たちの罪への罰を引き受けてくださり、十字架の上で血を流してくださった。

ヨハネは、イエス・キリストを「神の子羊」と言いました。旧約聖書、出エジプト記12章に記されている、過越しの出来事では、過越しの際、人々は子羊を屠って、その血を門の二本の柱と鴨居に塗るようにと神から命じられます。そしてそのようにした家は、神からの裁きを免れたのです。

神は正しい方であり、神に背く罪には罰が与えられる。けれども、私たち人間は自力で神に従うことはできない。そのようにして滅びるはずの私たちを神は愛して、救うために、過越しの子羊としてイエス・キリストを遣わした、そうヨハネは言うのです。

イエス・キリストは私たちの罪を取り除いてくださり、聖霊によって洗礼を授けてくださった。

見えなくても、神さまは私たちといつも一緒にいてくださる。

私たちの喜びも苦しみもすべて知ってくださっている。私たちは見捨てられていない。

私たちも神の子としてくださった。それがイエス・キリストの良き知らせ、福音です。

うまくいかない、失敗する、悲しいこともいっぱいある。でも、嬉しいことだっていっぱい与えられている。「わたしはある」という方に、私たちは生かされている。

失敗しても、大丈夫。神さまが一緒にいて、何度だって立ち上がらせてくださる。

神さまがお造りになったこの世界で、神さまを信頼しながら、今年も皆で一緒に生きていきましょう。

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