1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。
<説教>「何の役にも立たない?」
今日は「信教の自由を守る日」です。「信教の自由を守る日」は1966年にできた「建国記念の日」に反対してできました。なぜ反対したのでしょうか。それは2月11日が、明治に入ってから作られた日本の建国神話の紀元節に由来しているからです。明治以降、日本では天皇を神として崇拝することが強制され、国家神道を事実上の国教とした全体主義国家として他国を侵略しました。国家神道以外の諸宗教、キリスト教なども弾圧され、教団を守るためにやむなく天皇崇拝を受容してきた歴史があります(「国家神道は宗教ではない」という建前でした)。それが聖書で禁止されている偶像崇拝にあたると指摘し、反対した勇気あるキリスト者もいましたが、彼らは監視されたり、投獄されたり、拷問されたりして、亡くなった人もいたそうです。
第二次世界大戦での敗戦後、その反省から紀元節は廃止されましたが、1966年に保守系の新宗教などの圧力によって、「建国記念の日」が制定されてしまいました。それに反対し、日本のキリスト教では2月11日を「信教の自由を守る日」とするようになりました。
敗戦から78年以上たち、戦争の記憶が薄れ、なぜ反対するのか分からないと言う人もおられると思います。戦前とは違い、今日の日本では憲法によって信教の自由が守られています。しかし、憲法を改悪して、戦前の日本に戻したいと思っている人が政治の中枢にいる以上、いつまた、信教の自由が脅かされないとも限りません。
カール・バルトやボンヘッファーたちと共に、ナチス・ドイツに抵抗した、ニーメラー牧師が語ったとされる有名な言葉があります。
「ナチスが共産主義者を攻撃した。私ははやや不安になったが、私は共産主義者ではなかったので、何もしなかった。そして彼らは社会主義者を攻撃した。私は不安だったが、社会主義者ではなかったので何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、となり、私はそのたびに不安になったが、やはり何もしなかった。そして彼らは教会を攻撃した。私は教会の人間であった。だから私は何かを行なった。しかし、それは遅過ぎた。」
このことは他人事ではありません。私たちの愛するこの日本が、また間違った道に進まないように、学び、声を上げ続けることが大切なのだと思います。今日は午後から、札幌北光教会で集会もありますから、宜しければご参加ください。
さて、今日の聖書箇所は「5千人の給食」として知られている物語です。この物語の舞台は、イスラエルの北部、ガリラヤにあるガリラヤ湖の近辺です。当時、ガリラヤの領主はヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスでしたが、ローマ帝国の支配下にありました。彼はガリラヤ湖西部に、皇帝の名前に由来するティベリアスという都市を築き、首都としました(皇帝の歓心を買うためと、自身の地位を守るためと考えられます)。ガリラヤ湖も同様に、ティベリアス湖と呼ばれていたそうです。ガリラヤ周辺はイエスの宣教の主な舞台となっていました。 イエス・キリストは神の国について教え、病を癒し、悪霊を追い払うなどのしるし・奇跡を行いました。その様を見聞きし、大勢の人がイエスの後を追いかけてきました。それを見て、イエスが奇跡的な業を行って、人々に食べ物を与えたというお話です。
マタイによる福音書14章13~21節、マルコによる福音書6章30~44節、ルカによる福音書9章10~17節にも同じモチーフの話がありますが、このヨハネの福音書だけは少し違った描かれ方になっています。マタイ福音書では、お腹をすかせた人々を憐れに思ったことがイエスのこの奇跡の動機で、マルコやルカも同じように思われるのですが、ヨハネ福音書では弟子たちを試みる・試すため、つまり教育するために行われたように描かれています。
ご自分のもとに大勢の人々が集まって来たのを見たイエスは、弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えます。
1デナリオンとは当時の日当であったそうです。もちろん、今日とは貨幣価値が違いますが、ざっと日給8,000円~1万円とすると、約160万~200万円くらい。しかしイエスのもとにやって来た人は男性だけでも5千人以上、それに女性も子どももいたでしょうから、少しづつ食べたとしても、とてもじゃないけれど足りない。イエスはもともと大工でしたし、主だった弟子も漁師でした。そんな大金、用意できそうにはありません。
それに今日の物語の舞台は「山」だったと書かれています。他の福音書では、「人里離れた所」となっています。近くに町や村のない、山や荒れ野のような所です。いったいどこで大量のパンを買うことが出来るでしょうか。フィリポは暗に、この人たちが食べるパンを用意するなんて無理だと答えました。
イエスの一番弟子だったシモン・ペテロの兄弟アンデレも答えます。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。イエスの話を聞きたいとついてきたのでしょうか、一人の少年がいて、小麦よりも粗末な大麦のパンが5つと、おかずとなる魚二匹を持っていた。そして、イエスと弟子たちの話を聞いて、使って欲しいと自分の持っていた弁当のパンと魚を、善意から差し出したのかもしれません。
しかし、大勢の人々に食べさせるには、役に立たないだろうと弟子たちは判断しました。きっと私たちもその場にいたら、そう判断してしまうでしょう。ごくごく当たり前な、常識的な答えです。
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われ、弟子たちは草地に人々を座らせました。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与え、また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。すると神によって奇跡が起こり、そこにいたすべての人が食べて満腹することができました。その後、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われ、残りを集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになったと書いてあります。パン屑というと、私たちはパンからこぼれた小さなかけらを想像しますが、もとの言葉では食べやすくちぎったパンのかけらを指す言葉だそうです。何の役にも立たないと思われた、5つのパンと2匹の魚が、イエスを通して大勢の人を満腹させ、なお有り余るくらいになった。神は、そして神の子イエス・キリストは私たち人間の常識を超えて働かれる、そんな奇跡の物語です。
今日の物語は、イエスが弟子たちを教育するためにこのことを行ったと書かれています。では、イエスは弟子たちにこの物語を通して何を教えたかったのでしょうか。
聖書には神さまが食べ物を与えてくださる奇跡の物語がいくつか載っています。今日の物語の舞台は、ユダヤ人の祭りである過越祭の近い時期だったと書かれています。過越し祭とは、エジプトで奴隷とされていたユダヤ人(ヘブライ人)たちを、神がモーセを通して救われた、出エジプトの出来事を記念する祭りです。その出エジプト記の中に、こんな話があります。エジプトから荒れ野へ逃れたヘブライ人たちですが、食べるものがなく、モーセに不満を言います。すると神がマナという不思議な食べ物を与えて、荒れ野で40年間も食つなぐことが出来たのだそうです(出エジプト記16章)。また、昔の預言者エリシャも、20個の大麦のパンと穀物で100人を満腹にしたという奇跡の話があります(列王記下4章42~44節)。
いずれも、神が人々の必要を満たしてくださったという物語であり、神への信頼を説いています。
今日の物語は、それらの物語と同じように、神の子イエス・キリストへの信頼を教えてくれます。
また、弟子たちが大勢の人を前に、「何の役にも立たない」と判断した、一人の少年が差し出した5つのパンと2匹の魚を、イエスが増やしてくださった出来事から、小さなものでも、ほんの少しの、「何の役にも立たない」と思えるものでも、神は用いてくださるのだ。だから、私たちも、自分自身のことを無力に感じても、必ず神のご用のために使ってくださるのだ、そして神ご自身が大きな業を成してくださるのだ、という励ましを読み取ることができます。
大きな困難や課題を目の前にすると、私たちはその現実に打ちのめされてしまうことがありますが、「神にできないことは何一つない」(ルカ福音書1章37節)と語る聖書から、いつも希望と励ましを頂きたいと思います。
この世界も、私たち人間も神から造られた神のものです。私たちが自分の物だと思っているものも、すべては神の物であり、私たちがこの地上に生きている一時の間、神から貸し与えられているものです。そう考えると、一人の少年が差し出した5つのパンと2匹の魚も、神がその少年に与えたものでした。私たちは「ない」こと、「足りないこと」、「できないこと」など不足に目を奪われがちですが、神が私たちに与えてくださっている「ある」ことに目を向けて、神に感謝し、与えられた賜物を分かち合いながら、喜びながら、一緒に生きて行けたらと思います。
さて、今週の14日からレント・受難節に入ります。イエス・キリストが私たちのために苦難を受けられたことを覚える時期です。
イエス・キリストのパンと魚を増やす奇跡を見た人々は、イエスをモーセやエリシャのような神から約束された預言者だと思い、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、イエスを自分たちの王にしようとしました。いつかダビデ王やソロモン王のような王が神から与えられ、ローマ帝国から独立する、ユダヤの人々はその夢をイエスに見たのです。でも、そうした人々の思いと、すべての人を救うという神の思いは異なっていました。イエスは人々から離れて山へと逃れます。人々のイエスへの期待は、やがて失望に変わり、イエスを十字架の死へと追いやります。しかし神は、イエス・キリストを死から復活させて、私たちに永遠の命を示してくださいました。レントの時期、自らを見つめなおし、そして神から希望を頂きましょう。