1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。
2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
4 イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
<説教>「荒れ野の誘惑」
先週の水曜日は、「灰の水曜日」でした。そこから約1ヶ月半、イエス・キリストが私たちのために苦しまれたことを覚え、自分自身を振り返り、主の復活されたイースターへと心備えするレント(受難節・四旬節)の時期です。
アドベントの時には、救い主がこの世へ来られることを待ち望み、一週毎にろうそくに火を灯していきました。それとは反対に、レントの時期には明かりのついた7つのろうそくから、一週毎に火を消していきます。そして最後の一本は、イエスが十字架で亡くなった受難日の金曜日に消されます。
今日の聖書箇所はレントの第一主日に選ばれることの多い箇所だそうです。今日の聖書箇所では、イエス・キリストが40日間断食したという事が書かれています。
聖書において、断食は反省など、神への悔い改めを表す行為です。教会でもこの時期には伝統的に断食や、肉や卵を食べないなどの行為がなされてきました。これは自らの罪を真剣に受け止め、
悔い改めを表すとともに、イエス・キリストの苦しみにも与ろうということでしょう。ただし、断食はあくまでも手段の一つであり、必ずしなくてはならないというものでもありません。しなくてはならないのでも、したから偉いのでもない。ただ、自分と神さまとの関係の中で、自分はこうしてみようとご自身でお決めになればよいと思います。
キリスト教のいう「罪」とは、愛である神さまから離れて自己中心的に生きてしまう私たち人間の状態を指し、「悔い改めと」は、私たちの罪を赦してくださったイエス・キリストに感謝して、互いに愛しあう道を生きていこうとすることです。ですから、もし一食抜くとするなら、もしくは、一食抜いたつもりで、その分を食べられない人のために募金するなどの隣人愛を実践する機会に用いられれば良いのではないでしょうか。
さて、今日の聖書を見ていきましょう。今日の箇所はイエス・キリストが、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神さまから「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われた、そのすぐ後の場面です。神さまから、「神の子」と宣言されたイエスさまは、神の“霊”に導かれて、悪魔から誘惑を受けるために、荒れ野へと行かれた。なぜ、わざわざイエスさまは悪魔から誘惑を受けに行かれたのでしょうか。私であれば、そんな試練は出来るだけ受けたくないなと思います。
同じ出来事が書かれているマルコ福音書1章12節では「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」、ルカ福音書4章1節では「“霊”によって引き回され」、と書かれています。その記述によると、主体となっているのは神の霊で、イエスさまは受け身です。もしかしたら、イエスさまも誘惑を受けたくないと思われたかもしれません。でも、このことは、神さまの人類を罪から救うための御計画にとって必要なことで、避けられないことだったのです。そして、イエスさまは神さまに従いました。
荒れ野でイエスさまが断食した40日間、この40という数字は聖書の中で重要な象徴的な数字です。かつてヘブライ人たちをエジプトから導く役目を与えられたモーセは、シナイ山にて神さまから、守るべき10の教え、十戒を授かる際に40日40夜断食したと書かれています(申命記9章11、18、25節)。また、エジプトから導き出されたのに神に背いたヘブライ人たちは40年間、荒れ野を彷徨いました。死から復活したイエス・キリストは40日の間、弟子たちと共にいました。
厳密に40ととらえるよりは、長い間、と理解してもいいのかもしれません。そして、その長い断食の後、イエスさまは空腹を覚えます。
そこへ、誘惑する者、悪魔、サタンが現れます。サタンはもともと天使だったけれども、人間に嫉妬し、人を誘惑して神さまから遠ざける働きをする存在だと言われています(創世記3章)。
また、人の背きを神さまに訴える役割もしていたようです(ヨブ記)。
おなかを空かせたイエスさまに、誘惑する者が来て言います。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。これに対するイエスさまの答えは非常に有名です。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と、断ったのです。いやいや、パンも大事だ!と思った方もおられるかもしれません。当然、イエスさまもそのことは分かっています。イエスさまが教えてくださった「主の祈り」には、日用の糧、その日毎の糧を神さまに求める祈りがあります。また、「5千人の給食」の奇跡では人々にバンと魚を与えておられます。このイエスさまの答えは、旧約聖書の申命記8章3節の引用です。そこでは、荒れ野で人々が空腹で苦しんだ時、神さまがマナという不思議な食べ物で養ってくださったという出来事が載っています。神さまは人々に糧を与えてくださっている、神さまを信頼しなさいと教える箇所です。すべてのものは神さまに造られ、神さまに生かされている。それは人も動物も同じ。しかし、人は、パンだけでなく、神さまの口から出る一つひとつの言葉によって生きる。
悪魔は空腹のイエスさまに、あなたが「神の子」なら、その不思議な力で自分の欲求を満たしなさいと誘惑しました。確かにイエスさまは神の子です。5千人に食事を与えたように、その気になれば石をパンに変えることも出来たでしょう。でも、それは神さまを自分の都合のいいように便利使いしてしまうことなのではないでしょうか。イエスさまはそうしませんでした。イエスさまの使命は神さまに従うことであり、また、その不思議な力は他者のために用いられたのです。
イエスさまは悪魔の誘惑を退けましたが、悪魔は諦めません。次に、悪魔はイエスを聖なる都エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』と書いてある」と言いました。
これは詩編91編11~12節の引用です。サタンも光の天使を装う(2コリ11章14節)と言われているように、悪魔や偽使徒、偽メシアは聖書の言葉を悪用するのです。聖書は用いる人によって、神の道具にも、悪魔の道具にもなってしまう。毒にも薬にもなるのです。私たちも間違って読んでしまわないよう、愛である神、イエス・キリストならどうされるだろうか、と謙虚に注意深く読む必要があるように思います。
さて、ここでも悪魔は「神の子なら」と囁きます。「神の子なら」、これはイエス・キリストが十字架刑に処せられた時に、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」、「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ福音書27章40、42節)と人々がイエスに浴びせかけた言葉に通じます。自分を救うこと、十字架から降りること、苦難を避けること、それは神のみ心ではありませんでした。神のみ心は、イエス・キリストの苦難の死と復活を通して、すべての人々が救われるという約束が成就することでした。
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と悪魔の誘惑を退けます。これは申命記6章16節の引用です。モーセに率いられたヘブライ人たちは、今度は水を求めて、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試しました。
アブラハムを通して神さまに選ばれたヘブライ人たち。しかし彼らは何度も神さまにつまずき、背き続けました。本当ならば滅びるはずの彼ら。彼らは愚かで不従順ですが、それは私たちも同じなのではないでしょうか。神に背くヘブライ人たち、それは私たち人類の鏡に映した姿なのだと思います。しかし、神さまは彼らを、そして私たちすべての人を何とかして生かしたいと思われた。そしてアブラハムを通してすべての人が祝福されるという約束を実現するために、イエス・キリストが来られたのです。思えば、人間の始祖とされるアダムとエバからして、悪魔の誘惑によって神に背いたのです。その誘惑の言葉は、自分に従うなら、「神のように」なれるというものでした。
今回の悪魔の誘惑、神の力を自分の欲望ために使うこと。それはまるで自分自身が神になったかのようです。しかし私たち人間は神に造られた存在であり、神にはなれません。神のようにと望み、振舞うとき、私たちはかえって神さまから離れてしまいます。愛であり命である神さまから離れてしまうこと、それこそが滅びです。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。
それまでは、「神の子なら」という誘惑でしたが、今度はより具体的に、悪魔を拝み従うなら、この世界をすべてあげようと誘惑したのです。悪魔を拝むだけで、世界の支配者になって好き勝手できる。良い支配者となって、世界を良くできるかもしれない。魅力的な申し出です。
しかし、この世のすべては神のものであり、悪魔のものではありません。悪魔の力はどれだけ魅力的であっても、ただの見せかけであり、まやかしであり、すべて嘘です。それにもし、本当にこの世界を手に入れられたとしても、それは一時のことで、永遠には続きません。歴史を見ても、どんなに権勢を誇った国も、必ず衰え、滅びていきました。また、自分のこの世での命も永遠に続くものではありません。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ福音書16章26節)。悪魔の誘惑の先にあるものは破滅です。
イエスは言われた。
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
これは申命記6章13節の引用です。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
「神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」。神さまから、神さまの民に与えられている最も大切な教えだとイエスさまは言っています。
イエスさまは3つの誘惑に打ち勝ち、悪魔は離れ去りました。すると、天使たちが来てイエスに仕えたと書いています。この後も、悪魔の誘惑は続きますが、イエスはその度に誘惑を退け、神さまの御計画通り、ついに十字架にかかって死にました。
その後、神さまによって復活させられたイエスさまは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語ります(マタイ福音書28章18節)。
この世界は神のものであり、神さまのみが与えることができるのです。悪魔の誘惑を退け、イエス・キリストは、神さまから地上だけでなく、天の支配も任されたのです。そしてイエス・キリストは人々に永遠の命を与えてくださいます。
イエス・キリストはヘブライ人たち、そしてアダムとエバの間違いを正すために世へと来られました。イエス・キリストは悪魔の試みの中、十字架の死に至るまで、神さまに従いました。そのことによって、ヘブライ人たちの、そしてアダムとエバの過ちを、すべての人の過ちを、上書きしてくださったのです。イエス・キリストは新たなアダムとエバであり、新たなモーセであり、真のイエスラエルです。イエスさまは、神の子の模範として、その生涯を歩まれました。
私たちの人生、順調な時もあれば、そうでない時もあります。荒れ野にいるかのように不毛で、もの悲しく、寂しく、不安で、神さまよりも悪魔の方を近くに感じてしまう時もあるかもしれません。でも、私たちにはイエスさまが一緒にいてくださっています。イエスさまは、私たちも神の子として歩むことが出来るように、私たちの前を歩き、私たちと共にいてくださいます。
レントの時期、自らの罪や弱さを認めつつ、それでも愛し救ってくださる主から、励ましを受け、喜びに満ちたイースターを迎えることが出来ますように。