2024年2月25日 受難節・四旬節第2主日 ヨハネ福音書9:13~41

1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、

だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。

神の業がこの人に現れるためである。

4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。

だれも働くことのできない夜が来る。

5わたしは、世にいる間、世の光である。」

6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、

「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。

本人は、「わたしがそうなのです」と言った。

10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、

『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。

そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。

15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。

「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」

16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。

17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、

いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。

18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、

19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。

それが、どうして今は目が見えるのか。」

20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。

21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。

だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。

本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、

イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。

23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。

24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。

ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

26すると、彼らは言った。

「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。

なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。

29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、

実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。

31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。

しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。

32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、

これまで一度も聞いたことがありません。

33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、

彼を外に追い出した。

35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。

そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。

こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、

「我々も見えないということか」と言った。

41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

目次

<説教> 「あなたは、もうその人を見ている」

今日お読みいただいた聖書箇所の少し前で、イエスは生まれつき目の見えなかった人を癒します。

人々は驚いて、癒された人をファリサイ派の人々のところへ連れて行きます。ファリサイ派の人々は聖書について熱心に学び、その掟を人々に教えていたので、この目の見えなかった人に一体何が起こったのかを解き明かしてくれると思ったのでしょう。

ファリサイ派の人々は、どうして見えるようになったのかと尋ねます。癒された人は、「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」と自分の身に起こったことを語りました。

しかしその日は働いてはならないとされる安息日であったため、ファリサイ派の人々中で「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」という人と「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」という人とに意見が分かれました。

ファリサイ派の人々は再び癒された人に尋ねます。「目を開けてくれたということだが、

いったい、お前はあの人をどう思うのか」。癒された人は「あの方は預言者です」と答えました。

旧約聖書に出てくる預言者たち、彼らは神から離れた指導者や民たちに警告を与えますが、時に不思議な奇跡も行いました。それは神が彼らと共にいて、神が働かれたからでした。この生まれつき目の見えない人の癒しの出来事は、イザヤ書の預言(29章18節、35章5節)や列王記下5章にあるアラム人ナアマンの癒しを彷彿とさせます。それは聖書のことを良く知っていたファリサイ派の人々や、他のユダヤ人たちにとっても同じだったでしょう。ありえないことが起こった、聖書に記されていることが起こっている!

しかし、ユダヤ人はそのことを認めることが出来ませんでした。目が見えるようになった人が嘘をついていると思い、彼の両親を呼び出して尋問します。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか」。おかしい、本当は始めから見えていたのではないのか。

両親は、「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えました。

目が見えるようになった人はどうやら自分の両親に、自分に起こった不思議な出来事について話していたようです。きっと両親は驚きつつも喜んだことでしょう。しかし、いま、同胞であるはずのユダヤ人たちが自分たちを取り囲んで、ただならぬ剣幕で尋問してくる。イエスが救い主だ、と考える人々は当時からいたけれども、それを良く思わないユダヤ人たちは、イエスを救い主・メシアであると公言する人がいれば、その人を共同体から追放するつもりだということを聞いていて、自分たちに害が及ぶのを恐れたのです。彼らは息子に直接聞くようにと言いました。そこで、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して、「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と迫りました。

イエスのことを快く思わないユダヤ人たちは、初めからイエスのことを罪人、神に背くものだと決めつけています。彼らにとって事実はどうでもよく、自分たちの望む答えだけが欲しい、自分たちの望む答えしか見えない、という状態になっていました。これは他人事ではなく、私たち人間は、自分の望むものしか見ようとしない状態になってしまうことが良くあります。今日の日本でも、公権力による酷い冤罪事件が度々起こっています。彼らは、「神の前で正直に」と言い、イエスのことを「罪ある人間だと知っている」と言いました。しかしその彼らこそが、神から遣わされた神の子イエスのことを何も知らず、知ろうともせず、神の名前の前で偽りを語っています。「神の前で正直に答えなさい」と訳されている言葉は、直訳すると「神に栄光を帰しなさい」です。彼らは傲慢さゆえに、神のために、神に栄光を帰すと言いながら、自分自身が神にように振る舞い、イエスを裁こうとするという罪を犯しています。「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」(ルカ福音書6章37節)とイエスが言われた言葉が思い出されます。

さて、興奮するユダヤ人たちを前に、イエスに癒された人は語ります。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。彼はただ、自分に起こった事実だけを語りました。

すると、人々は「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と再び訊ねました。まるで裁判です。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。同じ話を何度も聞いて、一体何がしたいのか。最後の一言は彼の皮肉だったかもしれませんし、また、問われる中で気がついた彼自身の望みだったのかもしれません。イエスに出会い、目が開かされる。暗闇の中で光と出会った彼は、その光の下で生きたい、イエスの弟子として生きたいと望んでいたのかもしれません。

しかし、それを聞いた人々は怒り、ののしって言います。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」。彼らユダヤ人はモーセのことを誇りにしており、自分たちはモーセの掟を守っていると自負していました。そして彼らはイエスのことを怪しい罪人と決めつけ、イエスよりも上に立とうとしたのです。イエスはこの後、十字架につけられて殺されますが、それはユダヤ人の妬みのせいだと聖書は語っています。他者の上に立っていなくては気が済まないという、私たち人間の罪が、イエスを十字架につけたのです。

いきり立つ人々に囲まれ、味方してくれる人のいない不利な裁判のような状況ですが、イエスに癒された人は臆せずに答えます。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。

それを聞いた人々は、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出しました。

当時、病気や障がいは、その人やその人の両親などが、何か神に対して罪を犯した結果でそうなるのだと考えられていました。だから、生まれつき目の見えなかったこの人は、生まれながらに罪人であるとみなされ、人々から軽んじられていたのです。しかし、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われます。

イエスは彼が追い出されたことをお聞きになり、彼に会って、「あなたは人の子を信じるか」と訊ねます。「人の子」とは、聖書において、ただの人間を指して使われることもありますが、ダニエル書7章13~14章のように、人を超えた救い主・メシアを指すこともあります。ここでは、イエスは自分を神の子救い主として信じるかと訊ねられました。

イエスに癒された人は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えました。彼はイエスに癒され、彼を神からの預言者だと思っていました。彼は生まれつき目が見えない人であり、イエスの言葉に従って水で洗ったときに見えるようになったので、もしかしたら直接イエスの顔は見ていなかったかもしれません。しかし、声で、この人が自分を癒してくれた人だと分かったことでしょう。その預言者が、神からの救い主を信じるかと言われる。この人が言うなら、ぜひ信じたい、そう思ったことでしょう。

イエスは、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われました。

あぁ、あなたがそうだったのか。自分は知らなかったけれど、神からの救い主ご自身が、自分に会いに来てくださった。彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 イエスは「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われました。

イザヤ書29章13~14節にはこうあります。

「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。

 彼らがわたしを畏れ敬うとしてもそれは人間の戒めを覚え込んだからだ。

 それゆえ、見よ、わたしは再び

 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。

 賢者の知恵は滅び

 聡明な者の分別は隠される。」

イエスを監視しようとイエスについてきていたのでしょうか、イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これを聞いて、「我々も見えないということか」と言いました。

イエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と答えました。

ここで裁きについて語られていますが、イエスはヨハネ福音書3章16節~17節で、

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とも言っておられます。

イエスは裁くのか、裁かないのか。3章18節~20節では、

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」と言われています。

世の光であるイエス・キリストを受け入れないこと、それは光よりも闇を好むことであり、命である神から離れた状態です。神の子イエスが来てくださったのに、イエスを受け入れないことそれ自体が裁かれているのと同じなのです。

神は愛であり、私たちを救おうとされている。私たちがイエスを知らず、見えていないと思っていても、神の子はすでに私たちの前に現れてくださり、「あなたは、もうその人を見ている」と言ってくださいます。イエスを信頼して、イエスに従い、生きていきましょう。

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