60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。
「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65そして、言われた。
「こういうわけで、わたしはあなたがたに、
『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
68シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
70すると、イエスは言われた。
「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。
このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
<説教>「永遠の命の言葉」
3月に入りました。7つあったろうそくの明かりも、だんだんと消えてきました。今日は久しぶりに花を飾っていただきました。雪は降り、冬はまだ続きますが、それでも春は確実に近づいています。
今日の聖書箇所では冒頭、不穏な記事から始まります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とイエスの弟子たちのうちの大勢がつまずきます。「つまずく」、というのは新約聖書によく出てくるたとえ表現ですが、歩いていて障害物に当たってこけてしまうように、神への信仰、イエス・キリストへの信仰の道の途中でつまずき、離れてしまうことを指しています。イエスの弟子たちがイエスの話を聞いてつまずき、イエスから離れ去っていった。ではいったい、イエスの語られたどんな話に弟子たちはつまずいたのでしょうか。
今日の聖書箇所の少し前から見ていきましょう。舞台はイスラエルの北、ガリラヤ湖。ティベリアス湖の辺り。イエス・キリストは5つのパンと2匹の魚を奇跡的な力で増やして、5千人以上の人々に与えました。その後、パンを食べた人たちはイエスを王にしようとします。当時、ユダヤ人たちはローマ帝国に支配されており、その支配から自分たちを解放してくれる王がいつか現れるという預言を信じていました。また、民の食料を保証するということも王として求められる重要な資質だったようです。ローマ帝国では皇帝から市民にパンを無償で振舞うということがなされたようですし、ヘロデ大王も飢饉の時に私財から食料を配布しています。旧約聖書に出てくるイサクの子でエジプトの宰相になったヨセフの仕事も飢饉に備えて食糧を備蓄することでした。また、エジプトで奴隷となっていたヘブライ人たちを神の命令により導き出したモーセに民が不満を述べたのも食料や飲み物のことでした。今日でも権力者や政治家に求められることは民の生活を守ることです。今日よりも食料を得ることが大変だった古代のイスラエルにおいて、5千人以上の人にパンを与えたイエスに期待をかける人々がいても不思議はありません。しかし、それはイエスの意図とは違ったために、イエスは人々から離れ、対岸のカファルナウムへと向かいます。カファルナウムにはイエスの弟子であるペトロとアンデレの家があり、イエスの宣教の拠点となった町でした。
翌日、イエスからパンを貰った人々はイエスを探してカファルナウムにやってきます。そこでイエスは、人々が自分を追ってきたのは食べ物のためであり、そうではなく、朽ちる食べ物ではなく朽ちない食べ物を求めるよう、食べたら無くなる食べ物ではなく食べても無くならない食べ物を求めるようにと諭します。そして、食べても無くならない食べ物を得るとは、神が遣わしたイエス・キリストを信じることだとイエスは教えました。イエス・キリストを信じるとは、イエスを自分の救い主だと信じて、イエスに聞き、イエスに従って生きていこうとすることです。
すると人々は、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(ヨハネ福音書6章30~31節)と言いました。マンナ、マナはモーセを通して神がヘブライ人たちに与えた食べ物でした。世の終わりには、再び神がマナを与えてくださるという伝承があったようです。彼らはイエスに、モーセのように、マナを与えてくれること、奇跡を見せてくれることを期待しました。彼らはすでに、イエスから不思議な仕方でパンを与えられていたはずなので、しるしを見ているはずですから、この記述は少し変に感じますが、ティベリアスという別の町から来た人々も合流していたようなので、まだイエスの奇跡を見ていなかった人が発言したのかもしれません。
イエスはそれに答えて、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と言われました。それを聞いて人々が、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ福音書6章34~40節)と言われました。
イエスは二つのことについて私たちに教えてくださいます。一つ目は、見えるものにとらわれすぎるなということ。私たちには日毎の糧が必要ですが、それは神もご存じです。モーセを通して人々が養われたように、私たちも日々、主によって養われています。しかし、食べ物が食べれば無くなってしまうように、私たちのこの地上での命はやがては必ず失われるものです。でも、私たちを愛してくださる神はイエスを通して永遠の命を与え、終わりの日に復活させてくださる。だから、その食べても無くならない食べ物、イエス・キリストによる永遠の命を求めなさいということ。もう一つも、似ていますが、目に見える、しるし・奇跡に囚われるなということ。イエス・キリストは神の子ですから、悪霊払いや癒しなど様々なしるし・奇跡を行うことがお出来になる。しかし、人々はいくらイエスが奇跡を行おうと、イエスを信じなかった。先の話になりますが、イエス・キリストが復活したとき、イエスは弟子のトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ福音書20章29節)と言われます。
さて、この時代の人々やイエスの弟子たちはイエスを見ることが出来た。けれども、彼を信じることは出来なかった。それも無理はありません。もし、私がこの時代に生きて、イエスの弟子となれたとしても、きっと私もどこかのタイミングでつまずいていたと思うのです。どの弟子たちも、イエスご自身がお選びになった12弟子ですら、復活したイエス・キリストに出会うまでは、イエスのおっしゃっていることを理解できなかったのですから。
しかし、私たちは幸いです。私たちはイエスを直接見たわけではありませんが、イエス・キリストが復活したことを知っており、イエス・キリストが私たちの救い主であるということを信じています。それは、神が私たちを招き、教えてくださっているからです。私たちは自分の意志でここに集い、また自分の意志でキリスト教に興味を持ったと思っているけれど、実は神がそのようにしてくださっているのだ、すべての主権は神にある、とキリスト教では信じています。イエスは言われます。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ福音書6章44節)
これだけなら、まだ良かったのかもしれません。しかしイエスは言います。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ福音書6章53~58節)。
これを聞いて、他のユダヤ人の人々だけでなく、多くのイエスの弟子たちがつまずきました。無理もありません。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。文字通りでとらえるととんでもないことを言っているようにしか聞こえません。今日の私たちの社会でも人肉食、共食いはタブー・忌み嫌われる行為ですが、当時のユダヤ人社会にとってもそうでした。また、ユダヤ人たちは血の中に命があると考えており、血を飲む行為は律法によって禁止されていました(レビ記17章10~12節)。それなのにイエスの肉を食べ血を飲めなんて!
今日の私たちは、イエスの十字架の死と復活を知っており、このことは聖餐式を象徴しているな、とすぐに思うでしょうし、また、神の言であるイエス・キリストのみ言葉は、私たちを生かす命の言葉、命のパンだ、とも思うでしょうが、イエスの十字架の死も復活も知らない人たちにとっては、とんでもないことを言っているなと受け取られたのです。キリスト教がヨーロッパに広がっていくときも、戦国時代に日本に宣教師が来た時も、キリスト教は人肉食をしていると勘違いしていると思われたそうですから、無理もありません。聖書は字義通り、ただ書かれている通りに受け取るとそうなってしまいます。聖書はイエス・キリストの十字架の死と復活、神の愛から読まなくては、勘違いしてしまうのです。
こうして多くの弟子たちがイエスから離れていきました。イエスが残った12人に「あなたがたも離れて行きたいか」と問うと、一番弟子のシモン・ペトロが答えました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。
さすがペトロ、良いこと言っているな、と思います。しかし、そのペトロも、他の12人も、イエスが十字架にかけられるときには、イエスを裏切り、見捨て、逃げてしまうのです。その考えると、イスカリオテのユダも、他の弟子たちも、大した違いはありません。彼らも私たちと同じ、弱い人間なのです。それでも、私よりは優れていたであろう、イエスが選んだ12人の弟子たちですら、悪魔の誘惑に負けてしまうのです。もし私が、イエスの弟子としてその場にいたなら、間違いなく、私もイエスを裏切っていたことでしょう。
このレントの時期は、イエス・キリストの受難を覚える時です。イエス・キリストが苦しまれたのは私たちのせい、私自身のせいだった。受難の物語は、イエス・キリストの物語であると同時に、私の、私たちの物語でもあるのです。他ならぬ私が、イエス・キリストを裏切り、イエス・キリストを十字架にかけたのです。そう考えると苦しくなります。でもそれだけでは終わりません。同時に、それは神が、私たちすべての人間を救うために計画されたことだったのです。
イエス・キリストは十字架の上ですべての人を赦してくださった。裏切った弟子たちを赦してくださった。私たちを赦してくださった。そして、イエスは復活し、キリストとして私たちに永遠の命を与えてくださる。どれだけ長い冬であっても、必ず終わって春が来る。イエス・キリスト、永遠の命の言葉、私たちの救い主に望みを置き、イースターを待ち望みましょう。