2024年3月10日 受難節・四旬節第4主日 ヨハネ福音書12:1~8 

1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。

そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。

2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。

ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。

3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。

5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。

彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。

わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。

8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

目次

<説教> 「ナルドの香油」

有名な「ナルドの香油」として知られる物語です。イエスが女性から香油を注がれる話は、このヨハネ福音書12章の他に、マタイ福音書26章とマルコ福音書14章、ルカ福音書7章に載っていますから、当時の教会でも馴染みのある、印象深い出来事だったのでしょう。しかし、登場人物などに若干の違いがあります。このヨハネ福音書ではべタニアに住む「マリア」、マタイ福音書とマルコ福音書では同じくべタニアが舞台で「一人の女」。しかしルカ福音書では「一人の罪深い女」となっており、舞台となったところもガリラヤのどこかの村のようです。この「罪深い女」という記述と、ルカ福音書8章2節の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」という記述から、後にこれらの記事は「マグダラのマリア」のものとされ、西洋絵画などでもマグダラのマリアを題材にしたものには石膏の香油壺が書かれることが多いようです。ただ、「マグダラのマリア」とはマグダラ村のマリアさんという意味でしょうから、このべタニア村のマリアさんとは別人であり、それに「罪深い女」と呼ばれる第三の人物が一つに混同されたのだと今日では考えられています。ですから、今日の物語はべタニアのマリアのものとして読んでいきます。ちなみに、マグダラのマリアは、復活したイエスと一番最初にあった弟子の一人です。イエスの弟子たちというと12弟子が有名ですが、その他に女性の弟子もたくさんおり、彼女たちは12弟子たちが逃げた後も踏みとどまってイエス・キリストの十字架の死と復活を目撃し、他の弟子たちに伝えるという重要な働きをしました。

さて、今日の物語はエルサレム近郊のベタニアという村が舞台です。べタニアはエルサレムから15スタディオン、約3㎞の距離にありました。べタニアにはイエスの友人で、イエスに生き返らせてもらったラザロと、その姉妹のマルタとマリアの家がありました。イエスはエルサレムに来るときにはこのラザロたちの家によく立ち寄っていたようです。ヨハネによる福音書11章5節には、イエスは彼らを愛していたと書かれており、とても仲の良い友人だったのでしょう。

時は過越祭の6日前。過越祭はユダヤ人たちの祖先、エジプトで奴隷となっていたヘブライ人たちを神がモーセを通して導き出した出来事に由来しています。身代わりの子羊の犠牲によって、神の裁きがヘブライ人たちを過ぎ越していったことを記念し、祭の中で羊が屠られました。ヨハネによる福音書の中で、イエスは「神の子羊」と呼ばれます。イエス・キリストはすべての人にとって、過越祭の犠牲の子羊となられる。ご自身を犠牲にして、すべての人を救うために、イエス・キリストはこの世界に来られたのです。イエス・キリストの時が近づいていました。

ラザロ、マルタ、マリアの家で、マルタから食事のもてなしを受けるイエスと弟子たち。イエスに復活させられたラザロも共に座って食事の席についている。この記述は興味深いです。ラザロは確かに生き返り、食事をする。また、イエス・キリストによって新たに生きるものとされた人は、イエス・キリストと共に食事の席につくということも象徴しているかもしれません。

また、以前は自分だけが食事の用意をしていることで、妹マルタを叱ってほしいとイエスに頼み、諭されていたマルタが給仕をしています(ルカ福音書10章38節以下)。偉くなりたいものは人に仕えるものになりなさいとイエスは弟子たちに教えていました。ラザロやマリアに比べ、目立たないけれど、働き者のマルタは、私たちイエスの弟子たちの模範といえる人と言えそうです。

さて、そこに妹のマリアがやってきます。そして、マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐいます。すると家の中は香油の香りでいっぱいになりました。

ナルドとは標高3,000m~5,000mのヒマラヤ周辺に高原に自生する、オミナエシ科の植物で、ピンク色の花をつけるそうです。ナルドの香油は、その根から蒸留して抽出されるそうです。英語ではスパイクナードと言って、今日でも売られています。漢方薬では甘い松と書いて甘松と呼ばれています。土や苔のような、重みのある甘い香りがするそうです。その色は淡い琥珀色か緑がかった琥珀色で、鎮静や鎮痛作用、リラックス効果があるとされます。ヒマラヤと聞くと、かなり遠くから運んできたのだなと思いますが、ソロモンが書いたとされる雅歌にも出てくるので、当時の人々にとって、良く知られていたものなのかもしれません。

その香油が1リトラ。1リトラは約328gなので、300mlの小ぶりな温かい飲み物を入れるペットボトルくらいでしょうか。純度が高い、質の良いもので、それは300デナリオンで売れるとイスカリオテのユダが言っています。1デナリオンは当時の労働者の1日の賃金だったそうですから、今日のお金にするとざっとどんぶり勘定で300万円くらいでしょうか。小さなペットボトル一本の値段が300万円!さすが、ヒマラヤ辺りでとれた希少なもの。とても高価だなと思います。

同じ記事の別の箇所では、石膏の壺に入っており、その壺を割ってイエスに塗ったそうですから、ちょっと使って終わりではなく、マリアはそのすべてをイエスのために使ったのでしょう。

なぜそんなことをしたのか。もったいない!そう思うのもの無理はありません。そんな高価なものであれば、ちょっとずつ使おうと思うのが普通ではないでしょうか。高価なものを惜しげもなく使えるほど、マリアは裕福だったのでしょうか。マリアたちの家はイエスと弟子たち一行をもてなす余裕はあったようですが、自分たちで給仕をしていますから、ものすごく裕福だったというわけでもないと思います。そう考えると、ごくごく平均的な家だったのではないでしょうか。

でもマリアはそのすべてを、惜しげもなくイエスに捧げました。この記事の少し前で、マリアは愛する兄弟のラザロをイエスに生き返らせてもらっています。マリアもマルタも、イエスを以前から「神の子、メシア」であると信じていましたが、ラザロの復活が決定的な出来事となり、自分の救い主として受け入れたのでしょう。そして自分もこの方になにかお返ししたいと思ったのかもしれません。自分の持っている最も高価なもの、最も大切にしているものを捧げたい、と思い、マリアはナルドの香油をイエスに塗ったのではないでしょうか。

歴史の中で迫害を受けてきたユダヤ人やロマ・ジプシーと呼ばれた人たちは金属や宝石などをたくさん身に着けていました。それは住む土地を追われても、行く先々で換金できるからです。当時はローマ帝国に支配されている時代。今日とは比べ物にならないくらい物騒だったことでしょう。この香油も300デナリオンで売れるそうですから、そういった万が一に備えていたものかもしれません。もしくは、これはマリアが結婚するときの持参金だったのではないかと考える人もいます。

この香油を塗るという出来事は、イエスが求めたわけではありません。しかしマリアは、自分のできる精一杯をイエスにしたいと思った。当時、人の足を拭うのは奴隷の仕事とされていましたし、宴会などでは奴隷の少年の髪をタオル代わりに使うことがあったそうです。マリアは、奴隷の身分ではありませんでしたが、高価な香油を足に塗り、自分の髪でそれを拭った。自らイエスに仕えることを選択した、そう考えられます。

普通では考えもつかないような方法ですが、それでもマリアは自分で考え、自分で決めて、自分の出来る精一杯の献身をイエス・キリストに示したのです。甘く重いナルドの香り、世の重荷を背負うイエスに、少しでもくつろいで貰おう、そう思ったのかもしれません。

しかし、それは周囲から理解される行為ではなかったようです。イエスの弟子の一人で、後にイエスを裏切ったイスカリオテのユダが言います。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。ヨハネによる福音書では、ユダがイエス一行の財布を預かっており、その中身をごまかしていたからだと言っていますが、マタイ福音書やマルコ福音書では他の弟子たちも、「なぜ、こんな無駄遣いをしたのか。…貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨して、厳しく責めました。憤慨して、とありますから、すごい剣幕だったことでしょう。

良かれと思って、精一杯のことをしただけなのに。それとも、私が悪かったの?イエスの弟子たちに非難されて、マリアはさぞ困り、悲しんだことでしょう。

そんなマリアにイエスは助け船を出します。

「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。

マルコ福音書やマタイ福音書では、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と言われました。

マリアは自分では自覚していなかったかもしれないけれど、イエスが葬られるための手伝いをした。イエスは彼女の心遣いを嬉しく思い、彼女のしたことはレントの時期に、毎年のように語り伝えられるようになりました。イエスは、ご自分を思ってなされるどのような奉仕をも、喜んで受けてくださる。そして、それを意味あるものに変えてくださる。この物語はそのことを教えてくれているように思います。

誰かと比べる必要はなく、誰かを責める必要もない。主は私たち一人ひとりにきっと、何かを与えてくださっている。「ナルドの香油にはあらねど…」と歌う讃美歌がありましたが、他の人ではなく、この私は、イエス・キリストにたいして何が出来るだろう。そう考えてみたいなと思います。

私たちのする、どのような奉仕も、イエスは喜んでくださるはずですから。

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