2023年3月24日 棕梠の主日・受難週(~30日) ヨハネ福音書18章1~40節

1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。

そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。

2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。

イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。

3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを

引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。

4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、

「だれを捜しているのか」と言われた。

5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。

イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。

6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、

彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。

8 すると、イエスは言われた。

「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」

と言われたイエスの言葉が実現するためであった。

10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、

その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。

11 イエスはペトロに言われた。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、

13 まず、アンナスのところへ連れて行った。

彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。

14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、

ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。

この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、

16 ペトロは門の外に立っていた。

大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」

ペトロは、「違う」と言った。

18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。

ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。

20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。

わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。

ひそかに話したことは何もない。

21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。

その人々がわたしの話したことを知っている。」

22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、

「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。

23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったの なら、なぜわたしを打つのか。」

24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。

26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」

27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。

しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。

29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。

30 彼らは答えて、

「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。

31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、

ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。

32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、

イエスの言われた言葉が実現するためであった。

33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、

「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。

34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。

それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、

お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。

もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、

部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。

「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について

証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

38 ピラトは言った。「真理とは何か。」

ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。

「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」

40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

目次

<説教> 「だれを捜しているのか」

今日は棕梠の主日です。これはイエス・キリストが受難を前に、旧約の預言通りに、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された出来事を記念します。人々は手に棕梠、ナツメヤシの枝を持って、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と叫びながら、イエスを迎えました(ヨハネ福音書12章13節)。そして今日から受難週が始まります。受難週はイエスがエルサレムで受けた受難を思い起こす時です。明日からの三日間、受難週連続祈祷会を行います。今年は主イエス・キリストの「十字架への道行き」を想い、共に祈ります。

また、主が弟子たちの足を洗い、「互いに愛し合いなさい」との掟を与え、私たちに模範を示されたことを記念する洗足木曜日には聖餐礼拝も行います。宜しければご参加ください。

さて、エルサレムで、預言された王として大歓迎を受けたイエス。しかし、イエスはイスラエルの人々が思い描いていた、ダビデ王のような武力でローマ帝国の支配から解放してくれるメシアではありませんでした。イエスは十字架につけられることによって、すべての人々が赦されるために来られたのです。しかしそれは神の御計画であり、人に理解できるようなことではありませんでした。

イエスの人気を危険視し、その命を狙っていたユダヤの指導者たちは、イエスの弟子であったイスカリオテのユダの裏切りによって、イエスを捕らえる機会を得ます。

イエスは夕食を弟子たちと共にとり、祈るためにエルサレムの郊外へと出かけます。エルサレム神殿の東に、冬の雨季にだけ川が現れる、キドロンの谷があり、そこを越えてオリーブ山へ。オリーブ山にはゲッセマネの園と呼ばれる場所があり、イエスはそこで度々弟子たちと集まっていた。

日も暮れ、夕食をとった後のこと。イエスの周りに群衆の姿はなく、イエスの弟子たちだけがいました。そこへユダが兵士やイエスの敵対者の僕たちを案内します。「一隊の兵士」と訳されている言葉、「スペイラン」はローマ兵を指し、最大600人、最小で200人の部隊のことだそうです。そこには千人隊長もいたそうですから、これはローマ帝国の部隊です。それに祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちが加わりますから、結構な人数だったはずです。何が何でもイエスを逃がすまい、そういった決意が読み取れます。

祭司長というのはエルサレム神殿に仕える高位の祭司たち。彼らはサドカイ派というグループに属する人々が多かったそうです。サドカイ派は旧約聖書の初めの方にあるモーセ五書のみを信じ、天使や復活を信じていなかったそうです。一方、ファリサイ派は下級の祭司や市井の人々で構成され、旧約聖書の様々な書物や、書かれていない口伝の掟も、天使や復活も信じていた。こういった違いもあって、サドカイ派とファリサイ派は度々対立していたそうですが、その両派が手を組み、イエスを捕らえにやって来た。ローマの兵士は祭司長たちの要請によって派遣されたのでしょう。イエスは預言された「イスラエルの王」として人々から歓迎を受けました。しかし、当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、イスラエルの王になるためには皇帝や元老院の許可が必要でした。イエスの存在は、ローマの支配を脅かす危険な存在だと祭司長たちはローマ兵たちに訴えたのだと思います。大勢の人々が武装し、たいまつを手にして自分たちを取り囲んでいる。多勢に無勢、誰であっても、恐れをなしてしまうような光景です。

しかし、イエスは進み出て、「だれを捜しているのか」と尋ねます。

彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われました。

この「わたしである」、という言葉は、「わたしはある」とも訳せるそうです。

これは神がモーセに語られた名と同じです(出エジプト記3章14節)。

自分を捕らえに来た大勢の軍勢を前にして、堂々としているイエスに、神々しさをみたのでしょうか。圧倒的優位にあったはずの彼らは、思わず後ずさりして、地に倒れました。

イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、

彼らは再び、「ナザレのイエスだ」と答えました。

イエスは、「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」と言われました。

イエスは誰かを犠牲にするのではなく、ご自身が犠牲になられたのです。ここに、イエスを犠牲にすることで自分たちの地位を守ろうとするイスラエルの大祭司たちとの違いが見えます。

イエスの一番弟子、シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としました。イエスはペトロに言われた。

「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

マタイ福音書26章52節では、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言っておられます。神の救いは武器によるものではなく、また、イエスは私たちが武器を取ることも勧めない。十戒にある、「殺してはならない」との教えが思い起こされます。

弟子たちは逃げ、イエスは捕らえてアンナスのところへ連れて行かれました。

アンナスは、大祭司カイアファの舅で、以前に大祭司だった人です。大祭司でなくなった後も権力を持ち続けていたようです。

イエスの弟子の中に、このアンナスの知り合いがおり、その人の手引きで、ペトロはイエスの弟子ということを隠してアンナスの屋敷に潜り込むことが出来ました。様子を探り、あわよくばイエスを助け出したい、そう考えていたのかもしれません。しかしペトロの思いは実現しませんでした。

ペトロはイエスの弟子であることを見破られ、自分を守るために、三度、イエスを知らないと主張します。イエスのためなら命を捨てる、と言っていたペトロ。しかしその彼もイエスを裏切ってしまいます。イエスを裏切り、見捨てた弟子たち。しかしイエスはその弟子たちのためにも、ご自身を捨て、十字架にかけられました。

イエスはアンナスの屋敷で尋問と暴力を受けました。裁判には2~3人の証人が必要ですが、弁護人もなく、不当な裁判でした。次に大祭司カイアファの屋敷に送られます。

このカイアファは、イスラエルがローマ帝国に滅ぼされないために、イエスの命を狙い、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、好都合だ」と言った人でした。

カイアファの屋敷から次はローマ帝国から派遣されていた総督ピラトのもとへ送られるイエス。

人を殺すことを企みながら、自分たちだけは清いままでいようと、異邦人の屋敷には入ろうとしないユダヤ人たち。ピラトは、イエスに罪を見出すことは出来ませんでしたが、ユダヤ人の暴動が起こるよりはと思ったのでしょう。イエスの処刑を認めます。

スケープ・ゴート、身代わりの山羊。誰かを犠牲にして助かろうという行動は、歴史上、私たち人間がよくする行為です。今日の日本でも、政治家の汚職の際に、秘書や官僚が身代わりにされる光景をよく見聞きします。自分の出世のために、罪を捏造し冤罪を作り出す国家権力。危険な原子力発電所や基地を地方に押し付け、金の力で言うことを聞かそうとする政府。お金のために、武器を他国に売り、そのことによって誰かの血が流れ、命が失われても、気にしない企業や政治家。むしろ武器を売るために戦争を煽ることまでする。過酷な環境で搾取される技能実習生たち。非人道的な入管施設で虐待される異邦人たち…。命は全て、それをお造りになった神のものなのに、私たち人間は、いったい何をしているのでしょう。

「神と富とに仕えることは出来ない」(マタイ6章24節)と言われたイエス。「殺してはならない」、「むさぼってはならない」、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われる神から、遠く離れている私たちの社会。そう考えると、聖書における敵役、大祭司やファリサイ派、ローマ帝国は決して遠い昔の話ではありません。聖書は、今を生きる私たち自身の物語でもあります。

イエス一人を犠牲にして、イスラエルが助かろうとする行為。これは紛れもない、悪です。

しかし、ヨハネ福音書はそれも神の御計画だったと言います。人間が行う、どのような悪も、神には勝てない、神は悪からだって善を作り出す、そう言うのです。

イエス・キリストはユダヤ人のためだけでなく、弟子たちのためだけでなく、すべての人のために犠牲となられた。それは一体なぜだったのでしょうか。それはきっと、もう、自分以外の犠牲を出さなくてもいいようにということではないでしょうか。

イエス・キリストの十字架はただ一度きり。それでもう十分。私たちに他に救い主はいらない。

イエスは十字架につけられながら、すべての人を赦された。私の罪は赦された。イエスは私たちのために、私のために、死なれた。そうでなければ、私は赦されることはなかった。

でも、大丈夫。神はそんな私も、愛して、赦し、救ってくださった。

あなたも、わたしも、みんな。すべての人は、愛されている神の子ども。

もう止めよう。誰かを犠牲にするのは。

もう止めよう。だれか犠牲を捜すのは。

そんな必要はない。私たちにはもう十分、神さまの愛が注がれているのだから。

「だれを捜しているのか」

イエスは言われます、「わたしである」、「わたしはある」。「わたしはあなたと共にいる」。

私たちが、自分のうちにある悪ではなく、私たちを愛し、私たちのために十字架につかれた、イエス・キリストの愛に従って生きていくことが出来ますように。

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