5月5日 復活節第6主日 ヨハネ福音書16章25~33節 

25「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。

もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。

26その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。

わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。

27父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。

あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

28わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

29弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。

30あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。

これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

31イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。

32だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

33これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

目次

<説教> 「しかし、勇気を出しなさい」

 5月に入りました。今月も皆さまと共に礼拝できますことを感謝いたします。先日は、教会総会と教区総会が無事に終わりました。皆さまのご協力に心から感謝いたします。

 さて、教会総会の中で皆さまにご承認いただきました2024年度の年間聖句と教会標語について説明をというお声を頂きましたので、今日はまずそのことについてお話いたします。

年間聖句:「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。」(詩編122編1節)

教会標語:『神の恵みの中で共に生きる―「~せねばならない」から「~したい」へ』

 まず、年間聖句は詩編122編の1節を選びました。この詩編は、エルサレムへの巡礼の際に、巡礼者たちが歌った歌だと考えられています。主(神)の家(神殿)のあるエルサレムに、主の部族であるイスラエルの12部族が上って来て、主に結び合わされる平和と喜びを歌っています。

 今日、エルサレム神殿は無くなりましたが、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(ヨハネ福音書4章21節)」とイエスが言われた通り、今では神を信じる者が集まる教会が「主の家」と呼ばれます。また、イエス・キリストによって、ユダヤ人も異邦人も、どんな人種や民族も隔てなく、差別されることなく、すべての部族、すべての人が主の部族とされ、イエス・キリストによって一つとされる。

「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(Ⅰコリ12章13節)、

「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソ4章4~6節)。

 「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった」。「主の家」、教会とはどんなところでしょうか。私の教会の原風景は、人が集まり、あたたかくて、楽しくて、ほっと安心できる場所です。行くのが嬉しくなる場所です。皆さんにとっても、教会がそのような場所であってほしいですし、また、どなたかを教会にお誘いするときや、「教会に行ってみたい」と誰かに言われたとき、自分も嬉しくなる、そのような場所であってほしいと思います。「主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった」。この年間聖句のように、皆さんとご一緒に喜びを共有したくて選びました。

 次に、教会標語です。『神の恵みの中で共に生きる―「~せねばならない」から「~したい」へ』。

 私たちは皆、神に造られ生かされている。すべての人が神に対する罪人ですが、同時に、イエス・キリストの十字架によって罪が赦されている、罪赦された罪人です。私たちが赦されたのは、私たちが正しいからでも清いからでもない、ただ、神の一方的な私たちへの愛、恵みによるものです。それは誰も自分を誇り、他者を見下したりしないためです。人に優劣はなく、すべての人が神から愛されている、その恵みの中で、皆で一緒に生きる。そのことを喜ぶ教会でありたいと思います。

 そして、『「~せねばならない」から「~したい」へ』。この言葉は、以前、私が役者をしていた時にもらった言葉です。その当時、私は何とか役者として成功したくて、気が焦っていました。でも、そんな時は視野が狭くなりがちです。息苦しくて、他者にも冷たく、厳しくしてしまっていました。そして一番肝心な、楽しむという心を忘れていました。そんな私に、大切なことを気づかせてくれたのがこの言葉です。演劇で最も大切なことは、役者が楽しんでいること。そうでなくては、お客さんを楽しませる事なんてできません。そしてそれは、信仰においてもそうだと思うのです。信仰のある皆さんが教会に通うとき、楽しんでいなければ、それを見た信仰のない家族や友人が、「教会に行ってみたい」と思うでしょうか。「~せねばならない」という義務感でなく、神からの恵みに感謝し、喜びながら、こんなこと「してみたい」と楽しみをもって信仰生活が出来れば素敵です。

 キリスト教の新聞で「キリスト新聞」というのがあるのですが、その編集長の松谷さんという方が、若者向けにキリスト教を説明するために、「推し」という言葉を使っていました。これは好きなアイドルや好きなコンテンツを応援することを指します。また、そうした活動は「推し活」と呼ばれたりします。「推し」や「推し活」は、人生に喜びや活力を与えてくれます。その意味で、私たちキリスト教徒は、イエス・キリストを「推し」ているのだ、そのように松谷さんはたとえていました。これは言いえて妙だと思います。また「推し活」には布教活動が含まれます。自分が好きなアイドルや、コンテンツの良さを知ってもらいたいと、周囲の人に広めようとする行為が、宗教の布教にたとえられているのです。自分の好きなものを周りの人にも知ってもらいたい、一緒に喜びたい。その心を、私たちも信仰生活において大切にしたいなと思います。

 また、信仰は私たちの視点を変えてくれるものです。喉が渇いているとき、コップに水が半分入っているとして、「半分しかない」と思うのか、「半分もある」と思うのか。視点を変えて、「半分もある」と思えたら、「まだまだ新しく入れることが出来る」と思うことだって、「また汲めばいいから他の人に分けてあげよう」と思うことだって出来ると思うのです。今年度は、皆さんと一緒に、神さまに感謝しながら、柔らかな心を持って、楽しいをたくさん見つけていければと願っています。

 さて、今日の聖書箇所について見ていきましょう。イエスが十字架にかけられる前に、弟子たちに語った、いわゆる訣別説教の一部です。イエスは弟子たちに、十字架による死別と、復活による再会を予告しておられました。

 弟子たちはイエスの説教を聞いて、イエスが神のもとから来られたことを信じたと言いました。しかし、イエスは「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と弟子たちの裏切りを予告します。

 イエス・キリストの受難を覚えるレントと、イエス・キリストの復活を祝うイースターを過ぎたのに、なぜまたこの箇所が聖書日課で選ばれているのでしょうか。それはきっと、イエスのこの地上での教えは、イエス・キリストが復活したという出来事を通したとき、私たちの中で活き活きしたものになるからだと思います。

 弟子たちはイエスの説教を聞いて、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言いました。しかし、イエスは「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と、弟子たちの裏切りを予告します。そして、それは事実その通りになりました。なぜイエスは弟子たちの裏切りを予告したのでしょうか。彼らに恨み言を言うためだったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。イエスがこれらのことを話されたのは、弟子たちを励まし、弟子たちがイエス・キリストによって平和を得るためでした。

 なぜ、イエスを裏切るとの予告が、弟子たちが平和を得ることになるのでしょうか。それは、復活したイエス・キリストと弟子たちが出会ったとき、すべてが主である神の御計画だったことを知ることになるからでしょう。イエスが十字架にかかるまで、弟子たちはイエスが言っておられたことを理解することは出来ませんでした。しかし、あらかじめ予告しておられた通り、イエスが殺され、そして復活したイエスに出会ったとき、確かにイエスが言っておられたことは本当だったと証明されたのです。イエスは十字架にかけられた。しかし、イエスは独りきりではなかった。父である神が、イエスと一緒におられた。イエスは十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ。これは絶望の叫びですが、それだけではありません。この言葉は詩編22編の引用です。この詩編は神への絶望的な呼びかけから始まりますが、だんだんと神への信頼と賛美へと変えられていきます。それと同じように、イエスの死も、絶望で終わらず、神によって復活させられ、賛美へと変わります。それは神がイエスと共に居られるからです。イエスは弟子たちが理解していないながらも言った通り、神がいつも一緒に居られる、「神のもとから来られた」方なのです。

 イエスがこの世で苦難を受けたように、イエスの弟子である私たちにも苦難がある。「しかし、勇気を出しなさい」とイエスは言われます。なぜなら、イエスと共に神が居られるように、神は私たちと共に居られるからです。イエスは「父ご自身が、あなたがたを愛しておられる」と言ってくださいます。この世界をお造りになった神が、私たちを愛し、私たちと一緒に居てくださる。これほど心強く、私たちに平和を与えてくれることはありません。そして、イエスは「既に世に勝っている」と宣言しておられます。この世はイエスを十字架につけて殺したけれども、イエスの復活を阻むことは出来なかった。この世のものは過ぎ去るけれども、イエスの永遠の命を奪い去ることは出来ない。そしてその永遠の命が、私たちにも与えられている。

「いかに幸いなことでしょう

あなたによって勇気を出し

心に広い道を見ている人は。

嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。

雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

彼らはいよいよ力を増して進みついに、シオンで神にまみえるでしょう。」(詩編84編6~8節)  

 私たちが挫けそうになる時、私たちは独りではない、神が私たちを愛し、私たちと共に居られることを思い出し、「しかし、勇気を出しなさい」と言われる神から、慰めと勇気を頂きましょう。

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