5月12日 復活節第7主日 ヨハネ福音書 7章32~39節

32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。

  祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。

33 そこで、イエスは言われた。

「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。

34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。  ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。

36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」

37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

目次

<説教> 「愛のタンクと生きた水」

今日は「母の日」です。お母さま方、いつもお疲れさまです。主の祝福がありますように。

また、すでに天に召されたお母さま方に、主の平安がありますように。

私たちの教会も属する日本キリスト教団では、今週はアジア・エキュメニカル週間とされています。

「エキュメニカル」とは、新約聖書の書かれたギリシャ語の「オイコス」という「家」を意味する言葉に由来します。さまざまな教団教派に分かれたキリスト教が、同じ神の家に住まわせていただいている者同士、互いの違いを尊重しつつ、主イエス・キリストによる一致を目指す運動です。

次週は聖霊降臨日ですが、神の霊、聖霊による一致を求め、ペンテコステの前の週に設定されています。特に、アジアの諸教会を覚えてお祈りする時とされています。

先日、台湾東部で大きな地震がありました。北海道には台湾の原住民族出身のディヴァン・スクルマン宣教師がおられますが、ディヴァン先生の学ばれた玉山神学院も大きな被害に遭いました。支援をするべく、日本キリスト教団社会委員会から緊急募金が呼びかけられています。月寒教会でも応援しようと役員会で話し合われ、5月末まで募金箱を設置することになりました。皆さまのお祈り、ご協力をいただけましたら幸いです。

 さて、次週は聖霊降臨日・ペンテコステです。クリスマスやイースターは世間でも耳にすることがありますが、ペンテコステはあまり知られていないと思います。これは、天へと帰られたイエス・キリストがあらかじめ約束されていた通り、イエスの弟子たちに聖霊・見えない神の霊が与えられたことを記念します。イエスの弟子たちは、イエスが十字架にかけられる際には、怖くなってイエスを見捨てて逃げました。しかし、復活したイエス・キリストに出会い、聖霊を受けてからは、命を惜しまず宣教するようになりました。聖霊は神の霊であり、天へ帰られたイエスの代わりに私たち信仰者に与えられた存在です。聖霊はいつも私たちと共に居て、私たちを慰め、力づけ、励まし、愛の業へと押し出します。私たちがイエスをキリストだと信じられるのも、実は聖霊が働いてくださっており、『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない』と聖書は言っています(コリントⅠ 12章3節)。

 今週の聖書箇所も聖霊についての箇所です。今日の舞台はエルサレム神殿の境内で、仮庵祭の時の出来事です。仮庵の祭りとは、ユダヤ教の三大祭りの一つと言われ、エジプトから導き出された祖先が荒れ野で神に養われたことを記念します(レビ記23章34~43節、民数記29章12~39節)。仮庵とは仮の庵、天幕・テント、移動式の簡易住居のことです。10月ごろに祝われる、8日間続く秋の収穫感謝の祭りでもあります。

 イエスはこの祭りに来て、神殿の境内で人々に教えておられました。大勢の人がイエスをメシア・救い主だと期待していました。そのことを知ったファリサイ派と祭司長たち、当時のユダヤ教の宗教的な権威者たちは手下を派遣してイエスを捕らえようとします。当時、救い主・メシアとは武力による解放者だと思われていたので、ローマ帝国の支配下での体制維持を望むエルサレム神殿の祭司たちにとってイエスは邪魔な存在でした。また、聖書の教師であるファリサイ派の人々は、しばしば自分たちの教えと対立し、しかも人気のあるイエスのことが妬ましく、亡き者にしたいと思っていました。

イエスは捕らえに来た人を見て、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と言われました。これはイエス・キリストが復活したのち、天へと帰ることが示されています。イエスは復活したのち、40日の間、弟子たちと共にいて教え、そして教えを伝える役目を弟子たちに与え、世の終わりに再び帰ってくることを告げて天へと帰られました。しかし、そのことは復活したイエスに出会ったとき初めて理解されます。だから、この時に聞いた人々は何を言っているのか理解できません。イエスを捕らえにきた人々も、理解できないながらも、イエスをただものではないと思ったようです。捕らえずにそのまま帰っていきました。

 そして、8日目、祭りが最も盛大に祝われる最終日になりました。

 イエスは立ち上がり、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と大声で言われました。

仮庵の祭りは、秋の収穫祭であると同時に、雨乞いの祭りでもあります。イエスラエルは夏は乾燥し、冬に雨が多いという地中海性気候で、4月頃~10月が乾期、11月~3月頃が雨期になります。四国位の広さで、南北に細長く、北部は比較的雨も多く緑も豊かですが、南部は乾燥しているところが多いそうで、エルサレムの辺りでは乾季にはほとんど雨が降らず、特に6~8月にはまったく雨が降らないそうです。仮庵の祭りは10月辺りに行われるので、乾期の最後に行われる祭りです。日本とは違って雨が多くなく、今日のように水道の蛇口をひねれば簡単に水が手に入るとはいかない時代、雨はどれほど待ち遠しいものだったことでしょう。水がなければ人は生きて行くことは出来ません。また、雨期が来ることによって、春と夏に収穫物を得ることが出来ます。ユダヤ人たちの祖先、ヘブライ人たちが荒れ野にいたころ、神によってマナという日毎の糧を与えられて養われましたが、水も同じように与えられました。もうじき、神が恵みの雨を降らせてくださる。

そのことを待ち望み、また感謝し喜ぶ、そのような祭りでもあったのです。

 この祭りの中で、人々はシロアムという池から水を汲み、エルサレム神殿の祭壇に注ぎかけるという儀式を行っていました。貴重な水を、乾期のさなかに使うことで、神への信頼を表そうとしているようにも思います。

 そのような祭りの日に、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、イエスは水をたとえとして用いて語られたのです。これはイエスを信じる人々が受けることになる“霊”、聖霊について言われていると書かれています。

イエスは、霊的に渇く人、義に飢え渇く人はイエスのところへ来て飲むようにと促しています。

イエスのところへ来て飲むとは、イエスを自分の救い主・キリストとして信じ、自分の内に受け入れるということ。私たちのうちに共に居てくださるイエスは、生きた水源となり、あふれるばかりに聖霊で満たし、永遠の命を与えてくださるのです。

その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。(ゼカリヤ13章1節)

その日、エルサレムから命の水が湧き出で 

半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい 夏も冬も流れ続ける。(ゼカリヤ14章8節)

その日には、あなたは言うであろう。

「主よ、わたしはあなたに感謝します。

あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。

見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」

あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む。(イザヤ書12章1~3節)

わたしは乾いている地に水を注ぎ 乾いた土地に流れを与える。

あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ あなたの末にわたしの祝福を与える。(イザヤ44章3節)

イエス・キリストは天に帰られ、もう私たちの目には見えませんが、

私たちに霊を注ぎ、私たちと共に居て、私たちを慰め、力づけてくださる。

復活したイエスはご自身の弟子たちに聖霊を注ぎ、世へと派遣します。

世に派遣された弟子たちの使命とは何か。それはイエス・キリストの福音、赦しを伝え、そしてこの世にあって、イエスが再び帰って来られる日を待ち望みながら、互いに愛し合って生きることです。

イエスの一番弟子であるペトロは言っています。

「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(Ⅰペトロ4章8節)

今日のこどもメッセージの箇所、マタイ福音書5章44節では敵すら愛しなさいと言っておられます。愛、愛、愛。神に愛されている私たちを、神は他者を愛するために用いられるのです。

とはいえ、他者を愛するのは難しい。よし、頑張ろう、愛そうと思ってみても、なかなか続かない。

そのような私たちの状態を、私の先輩は「愛のタンク」にたとえていて、面白いなと思ったので紹介します。

私たちは他者に注ぐことのできる愛のタンクを持っている。そしてそのタンクには蛇口が付いていて、そこから他者へと愛を注ぐ。タンクの容量や蛇口の大きさは人それぞれで、簡単にたくさん注げる人もいれば、容量が少なかったり、蛇口が固かったりして、少しずつしか注げない人もいるでしょう。どんな人も共通しているのは、タンクが空になってしまえば、注ぐことが出来ないということ。親や家族や友人たちから愛を注いでもらって、タンクに愛が溜まっているからこそ、他者に注ぐことが出来る。また親や周りの人が蛇口をひねって愛を注ぐ仕方を見て、学び、自分も同じように蛇口をひねって愛を注いでいくのです。

でも、「愛しなさい」と言われて、愛そうとしてみても、愛する一方ではタンクが空になって疲れてしまいます。イエスさまはそのことをご存じだからこそ、「互いに愛し合いなさい」と言われたのだと思うのです。お互いに、愛し合う。お互いに大切にしあう、その事がとっても大切だと思うのです。

とはいえ、なかなか他者から愛されてるな、大切にされてるな、と思えなくって、もうすっかりタンクの容量が空だと思う時もあるでしょう。そんな時、神が私たちを愛してくださっているということに目を止めたいと思います。もう空だ…、と思っていても、実は神がずっと私たちに愛を注ぎ続けてくださっている。私たちの内には聖霊なる神が住んでおられ、尽きない生きた愛の水を溢れるばかりに、注いでくださっています。主の与えてくださる生きた水に元気をもらいつつ、今週も歩んでいくことができますように。

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