1 終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。
もろもろの民は大河のようにそこに向かい
2 多くの国々が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。
3 主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
4 人はそれぞれ自分のぶどうの木の下 いちじくの木の下に座り
脅かすものは何もないと 万軍の主の口が語られた。
5 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む。
我々は、とこしえに 我らの神、主の御名によって歩む。
6 その日が来れば、と主は言われる。
わたしは足の萎えた者を集め 追いやられた者を呼び寄せる。
わたしは彼らを災いに遭わせた。
7 しかし、わたしは足の萎えた者を 残りの民としていたわり 遠く連れ去られた者を強い国とする。
シオンの山で、今よりとこしえに 主が彼らの上に王となられる。
<説教> 「その日が来れば」
私たちは教会暦において、「教会の半年」と言われる時期を過ごしています。
聖書日課では主日毎(日曜日)に4つの箇所が挙げられており、いつもそのうちの一つから選んで話しています。今日は旧約聖書の預言書、ミカ書からです。今日の箇所は同時代の預言者、イザヤが見た幻とほとんど同じ言葉です(イザヤ書2章)。神が同時代の預言者2人の口を通して語った言葉であり、何としても伝えたいと思われた言葉だったのだなと思わされます。
「剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」、戦争の道具である剣や槍はもう必要ない。
だから、作物を作り出すための鋤と、収穫するための鎌に作り替えよう。「国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」、「終わりの日」、神が帰って来られる、「その日が来れば」。残念ながら、現実はまだ、そうではないけれど、だからこそ、この預言は輝いています。
モレシェトの人、ミカは、おそらく農村出身の預言者でした。彼が活躍したのは紀元前8世紀ごろ。当時、古代イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、またアッシリア帝国などの他国の圧迫もありつつも、共に栄えていたそうです。けれども、その繁栄の陰で、貧富の差が拡大した時代でもあったそうです。
「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ 悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。
力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。
住人から家を、人々から嗣業を強奪する。」(ミカ2:1~2)
富や権力を持つものが悪をたくらみ、弱い人々から家や畑、土地などを奪い取り、搾取する。
そのような人々に対して、主は言われます。
「聞け、ヤコブの頭たち イスラエルの家の指導者たちよ。
正義を知ることが、お前たちの務めではないのか。
(それなのに)善を憎み、悪を愛する者 人々の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取る者らよ。
彼らはわが民の肉を食らい 皮をはぎ取り、
骨を解体して 鍋の中身のように、釜の中の肉のように砕く。」(ミカ3:1~3)
「(人を)食い物にする」「むさぼる」という言葉がありますが、まさにそのような様子が告発されています。この世界は神がお造りになったものであり、この世界の主は神です。人間は神に雇われた管理人のようなものであり、自分のものではない、この世界を好き勝手にしてはいけません。国の頭とされ、指導者とされた人たちに神が課された務め、それは正義を知ることだと言われています。「知る」とはただ知識として知るだけでなく、当然、それに従って行動することが求められています。ミカは言います。
「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8)
また、イザヤやアモス、エレミヤとなどの他の預言者も言っています。
「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。
悪い行いをわたしの目の前から取り除け。
悪を行うことをやめ 善を行うことを学び
裁きをどこまでも実行して 搾取する者を懲らし、
孤児の権利を守り やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ1:15~17)
「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。」(アモス5:24)
「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。
寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。
またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ22:3)
聖書や法律、新聞などには読み方があると習いました。それは、「~せよ」と言われているということは、「~できていない」。「~するな」と言われているということは、「~した」人がいるのだという具合です。つまり、彼らイスラエルの指導者、権力者らは神の御心に反して、正義を行わず、寄留の外国人や孤児、寡婦などの弱い立場の人を虐げた。無実の人の血を流し、公正をおろそかにして、弱い立場の人から搾取したのです。
それらの悪行に虐げられている者たちの祈り、叫びが神の耳に届く。神は怒り、預言者を通して警告する、つまり裁きを告げるのです。神は理不尽な方ではなく、私たち人間社会の側に悪があるのだと聖書は教えています。
これは決して他人事とは思えません。今日の私たちの住む日本でも、同じような悪が起こっています。政治家や企業の汚職、隠蔽。カルト宗教と政権の癒着。公正を失った検察や警察。現代の奴隷制とも言われる技能実習制度や低い難民認定率、人権侵害を繰り返し死者まで出す入国管理局の強制収容、差別やヘイト等の問題。基地反対、原発反対という地元の声を無視し続ける国。年々増える軍事費、平和憲法を無視した武器の輸出、支援の足りない教育や福祉、中抜きなどの搾取、メディアの沈黙、正義を求める人々に浴びせられる冷笑…。切りがありません。
「お前たちの咎がどれほど多いか その罪がどれほど重いか、わたしは知っている。
お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り 町の門で貧しい者の訴えを退けている。
それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。」
(アモス5:12~13)
神は預言者を通して告発し、警告します。悔い改めを勧め、神に立ち返るようにと教えます。悔い改めなければ、滅びると。この神からの警告は、本来、滅ぼすことが目的ではありません。反省させ、悔い改めさせて、悪い行いを正し、良い道へと導き、人を滅びから救うことが目的です。
「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。
むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。
立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。
イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル33:11)
神は私たち人間を含む、この世界を造り、そして愛しておられる。自分の子どものように思っておられる。それゆえに、滅びてほしくないのです。間違った道、滅びの道、自滅の道ではなく、正しい道、人が互いに大切にしあう道に帰り、救われてほしいと思っておられるのです。
けれども、イスラエルの指導者たち、権力者や裕福な人たちは警告を無視しました。
「こんなことについてたわごとを言うな。そんな非難は当たらない。
ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」
(ミカ2:6)
そう言って、聞き従わなかったのです。預言者は馬鹿にされ、迫害され、時に殺害されました。
今日でも、社会に対して警告する人たちは軽んじられています。
神の警告に従わなかった北イスラエルも、南ユダも共に滅びました。どれほど栄華を極めた国々も、滅ぶ。地上において永遠に続くものはありません。富や名声、地位も権力も一時の夢。人はいつか必ず死に、国もいつか必ず滅びます。それは日本も例外ではありません。歴史を見ても滅びなかった国は一つもありません。
「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40:8)
国も人も滅ぶけれど、神の言葉は永遠に残る。神の言、それはイエス・キリスト、神の愛です。
イエスは、神を「生きている者の神」(ルカ福音書20:38)と呼ばれました。
それは神がすべてのものを生かすからです。私たちは神から離れては生きることは出来ません。
神は人が幸せに暮らすための掟、律法を与えました。その律法を完成させるものは、イエス・キリスト。神の愛です。私たちすべての人を愛し、そして私たちに互いに愛し合いなさいと命じられる方です。
「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(Ⅰコリ3:11)
「愛がなければ、無に等しい。」(Ⅰコリ13:2)
ミカ達、主の預言者は社会の不正と同時に偶像崇拝を告発しました。偶像崇拝とは、神ではないものを絶対的な価値あるものとして拝み、偽りの神にしてしまう行為です。神以外の、自分にとって最も価値あるものと考えると、どんなもでも偶像になりえます。指導者や国、民族、権力者、富、名誉、自分自身などなど。なぜ偶像崇拝がいけないのか。それは、愛である神以外のものを拝むとき、私たちは他者を軽んじるようになってしまうからではないでしょうか。だから搾取したり、虐げても、なんとも思わないようになってしまう。その結果が人間社会にある不正義や戦争なのです。
ミカはイスラエルの罪の初めが、神ではなく、戦車や軍馬などの自らの武力を頼みにしたことだと語っています(ミカ1:13)。神は「殺してはならない」、「隣人のものを欲してはならない」と言っておられます。
私たちは今日、ミカ書を通して、平和の幻を見ました。その幻はまだ実現していないけれど、一生追い続けるのにふさわしい、そのような幻です。その幻が完成するのは「終わりの日」、イエス・キリストが帰って来られる「その日」、ですから、残念ながらまだまだ先のことのように思えます。
でも、聖書は言います。「見よ、わたしはすぐに来る。」(黙示録22:12)
イエスは言われます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。」(マルコ福音書13:32)
誰も知らないのだから、それはもしかしたら明日かもしれない。いつ主イエス・キリストが帰って来られても良いように生きたいなと思いますし、その日が来れば、この平和の幻もいつか必ず、主がかなえてくださると思うのです。
「主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
人はそれぞれ自分のぶどうの木の下 いちじくの木の下に座り 脅かすものは何もない」
どうかその日が早く来ますように。
今日の箇所とほぼ同じ、イザヤ書2章では、今日のみ言葉の後にこう続きます。
「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」
神がしてくださるから、それで私たちは何もしなくても良い、とは聖書は言いません。
私たちの信仰は、神の光であるキリストに従って、与えられた生涯を歩んでいくものです。
平和の幻の実現のために、まず私たちが、「剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」、戦争を問題解決の手段にしないことを徹底したいと思います。
主イエスのお帰りになるその日を待ち望みつつ、私たちを愛してくださる主に従って、互いに愛し合うことができますように。
