2024年6月23日 聖霊降誕節第6主日 エフェソの信徒への手紙 2章11~22節

11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、

 いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。

12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、

 約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。

13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、

 今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、

 御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、

15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。

 こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

17 キリストはおいでに  なり、遠く離れているあなたがたにも、

 また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、

 御父に近づくことができるのです。

19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、

 聖なる民に属する者、神の家族であり、

20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。

 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、

21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

目次

<説教> 「神の家族」

先週の金曜日は夏至でした。一年で最も昼間が長い日とされる日で、世界の各地で夏の到来が祝われます。夏至に近い6月24日はローマ・カトリック教会では洗礼者ヨハネの日として祝われています。これは、ルカ福音書1章26節により、ヨハネがイエス・キリストより半年早く生まれたと考えられているからだそうです。

夏至を過ぎると、冬至に向けて日が少しずつ短くなっていきます。ヨハネ福音書3章30節で、洗礼者ヨハネはイエスを指して、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言っています。

その言葉通り、夏至を過ぎ、力を失っていく太陽は、冬至、イエス・キリストの誕生を通して新たに再生されていく。昔の人々は、神がお造りになったこの世界の季節のサイクルを通して、神の救いの物語を身近に感じていたようです。

神の救いは遠い昔の物語ではなく、私たちもその物語の中で生かされている。祭りや礼拝を通して、そして日毎の生活の中で、キリストと共に生きて行く。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちは新たにされ、生かされている。

今日の手紙もイエス・キリストによって新しくされたことについて語っています。

前半と後半に分けられ、1~3章はキリスト教の信じる救いについての教え、4~6節は信じる者の生活における実践についての教えが語られています。今回の聖書箇所は、その前半部分の中から、神は人を分け隔てなさらず、イエス・キリストによって一つにされることが語られています。ご一緒に見ていきましょう。

この手紙は、異邦人の使徒パウロから、現在のトルコにあるエフェソの信仰共同体に宛てた手紙とされています。古い写本によると宛先にエフェソの名がないので、色々な教会で回覧されるために書かれた手紙なのかもしれません。異邦人キリスト者、ユダヤ人ではないけれどイエスを救い主・キリストと信じるようになった方々に宛てて書かれた手紙です。

「だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、

いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。

また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、

約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」

                                     

エフェソの教会はユダヤ人ではない、異邦人の多い教会だったようです。

現在では土砂が堆積し、港から離れているそうですが、当時のエフェソは港湾都市で、古代世界の七不思議の一つと言われる壮麗なアルテミス神殿がありました。また、ローマ帝国、アシア属州の首都として栄えていたそうです。多神教である古代ギリシャ・ローマの文化圏であり、様々な神々に囲まれた生活だったことでしょう。しかしそれは、あくまでも人間が勝手に作りだしたものであり、この世界を造られた唯一の神とは関係がなく、その意味で真の神を知らず生きていました。

私たちの住む、この世界の創造主であり、命の与え主である神を知らず、また愛である神から離れて自分勝手に利己的に罪の中で生きていました。その意味で、彼らは死んだも同然だった、とパウロは言っています(エフェソ2章1節)。

しかし、神はそのような彼らを愛し、憐み、イエス・キリストによって、キリストと共に新たに生きる者としてくださった。その意味で、彼らも神によって復活させられたというのです。

この話を聞くとき、私はルカ福音書15章においてイエス・キリストが語られた「放蕩息子のたとえ」を思い出します。父の家を飛び出して、遠い外国で放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、何もかも失って帰ってきた息子を、父親である神は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」といって喜びました(ルカ福音書15章24節)。

いのちの与え主である神のもとを離れて死んだも同然だった一人の人間が、悔い改めて神のもとへ帰ってきた。それは新たに命を得たも同じことです。私たちをご自分の子と言ってくださる神は、そのことを喜んでくださいます。

「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」

イエス・キリストが私たちの身代わりとして十字架の上で血を流すことによって、私たちへの罰を引き受けてくださった。そして私たちの罪を赦し、私たちをご自分のもとへ子として招いてくださった。

パウロは言います。

「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(Ⅱコリント5章15節)

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5章17節)

私たちすべての人の過去の罪はイエス・キリストによって赦されました。神は過去の罪についてもはや問われません。私たちがそのことを信じるとき、私たちは新しく創造されたものです。それは私たちがイエス・キリストのものとなり、自分のためでなく、「互いに愛し合いなさい」と言われるキリストのために生きる神の民になるためです。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、

御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、

十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、

また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、

御父に近づくことができるのです。」

イスラエルの民は、アブラハムやモーセを通して、神と契約し、神の民となりました。

それはアブラハムを通し、「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」(創世記18章18節)ためでした。

神は、神の民となった人々に、互いに幸福に生きるために掟、律法を与えました。しかし彼らは神に背き、国を亡ぼされ、故郷を失いました。その後、約70年して、イスラエルに帰ることが赦されたかれらは、神の民であり続けるために律法を重視しましたが、それは次第に規則と戒律づくめになっていきました。また、戒律と律法は内と外を分け、敵意という隔ての壁を築いてしまった。

イエス・キリストはそうした敵意と隔ての壁を打ち壊し、民族によらず、すべての人を神の民とするために来られました。すべての人が神によって愛され、イエス・キリストによって罪赦された。それが神の恵みであり、誰も自分自身を誇って他者を見下すようなことをせず、ただ神に感謝し、互いに仕え合いながら生きるようになる。それこそが平和です。私も、あなたも同じ。どちらも罪人であり、どちらも神に愛されている。私たちは神に赦されたけれど、それは神の恵みによるもの。私はどうして自分を誇ることができようか。私たちは誰も他人に対して自分の方が優れている、正しい、偉い、勝ちたい、なんて思う必要はない。私たちはもうそのままで十分に恵まれているのだから。神に与えられているそれぞれの賜物を喜び、助け合う。キリストは私たちの間におられる。私たちの間に満ち満ちておられる。

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、

聖なる民に属する者、神の家族であり、

使徒や預言者という土台の上に建てられています。

そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、

キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」

私たちはイエス・キリストによって赦され、神の子として招かれている。そのことを受け入れるなら、私たちはもう神と無関係な外国人でも、寄留者でもない。

私たちは聖なる神に属する民であり、神の家族であり、新約聖書の使徒や旧約聖書の預言者たちが伝えた救いの物語に生きる者なのです。

私は役者をやっていたということもあり、「物語」という言葉が好きです。物語は神が私たちに与えてくださった想像力の扉を開き、人を他者と繋ぎます。私たちにあるべき姿、理想を夢みさせ、そのように生きる力を与えてくれます。世界には様々な物語があります。しかし、その中で、私たちは神が書き、始められたこの物語に命を与えられ、神の家族として生きるのです。

私たちの共有する神の民、神の家族と言う物語において、最も大切なのはイエス・キリストです。

私たちはイエス・キリストを土台、基礎として、イエス・キリストを中心とし、イエス・キリストとともに、イエス・キリストに向かって進むのです。

私たちは何か同じグループに属していると思うと、親近感が湧き、結束できる反面、グループに属していない人を排除してしまうことがあります。また、結束するために、外に敵を作りだすことすらします。また同じグループ内にあっても、上下関係を作りだしてしまうことがあります。しかし、神の家族においては、そうであってはなりません。

イエス・キリストは隔ての壁を打ち壊したお方です。神は人の上に人を造らず、人の下に人を造らない。すべての人はみな同じく神に罪赦され愛されている人。私たちの上にはただイエス・キリストが居られる。どんなことをするにも、イエス・キリストを中心に考える。私たちの間に、イエス・キリストが居られる。

私たちはイエス・キリストによって新しい人、神の家族として建てられ、神の霊、聖霊が住んでくださる神の神殿となる、とパウロは語っています。私たちの内に神が住み、神がいつも共に居てくださる。今週も神の子として、神の家族の一員として、共に生きて行きましょう。

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