2024年6月30日 聖霊降臨節第7主日 マルコによる福音書12章28~34節 

28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 

29 イエスはお答えになった。

 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 

30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 

31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 

32 律法学者はイエスに言った。

 「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 

33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、

 どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 

34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。

 もはや、あえて質問する者はなかった。

目次

<説教> 「神への愛、人々への愛」 久保 𠮷隆 伝道師(西札幌伝道所)

本日、ここ西札幌伝道所から札幌地区10の教会の愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げる喜びを感謝いたします。7月から西札幌伝道所の主任担任教師となります久保吉隆と申します。初めてお会いする方が、たくさん居ると思います。まずは私の補教師合格までを支えて頂いた皆様、お一人、お一人のお顔が浮かびます。

優しいお言葉と𠮟咤激励、心から感謝しております。

准允式の挨拶では緊張の余り選挙演説のようだった、との指摘を受けました。

今日は穏やかにお話ができればと思っております。

ここ、西札幌伝道所の創立者である立石賢治牧師は私の伯父であり、私は立石牧師から洗礼を受けました。

「この伝道所は地区、教区の宣教計画によって作られたのではありません。私は御霊の働きによって作られた伝道所であると信じています。」と立石牧師がこう語ったように、この伝道所は札幌の桑園地区に開拓伝道を目標として建てられました。

三浦綾子作「ちいろば先生物語」は榎本保郎牧師をモデルに書かれた作品です。この物語に立石牧師は教会に放火しようとした男として登場します。

立石牧師は5年前の2019年4月22日。イースターの朝、100歳をもって、神の国と召されました。

50歳で悔い改め、60歳で牧師となり、70歳でこの伝道所を創立しました。

私は晩年の立石牧師から多くのことを学びました。

札幌北光教会での告別式で、おもいでを語りました。立石牧師が最後に私に述べた御言葉はマルコ福音書5章36節〈恐れることはない、ただ信じなさい〉。でした。

さて、私は信徒奨励の時からマルコ福音書を読み進めて来ました。

今回のマルコによる福音書の部分は、ルカによる福音書では「善きサマリア人」へと続く、皆さんが良く知っている聖書箇所かもしれません。

これまで、祭司長、長老、ヘロデ党、ファリサイ派やサドカイ派の律法学者たちが、イエス様を陥れるための質問を続けました。そして、この前節では復活を信じないサドカイ派の前でイエス様は「神は生きている者の神である」と明言されました。

すると、ここまでのエルサレムの神殿で繰り返された問答を見ていたのでしょうか一人の律法学者が、またイエス様の前に進み出ました。

このマルコ福音書の箇所では今までの質問者にあった、イエス様を陥れようとする試みは、この律法学者には、示されていません。それよりも主イエスが立派にお答えになったのをずっと見ていて、感心して進み出たように描かれています。

そして、この律法学者は最後に「あなたは神の国から遠くない」と主イエスに言われます。ここまで続いた数々の論争が終わりとなりました。この律法学者とイエス様の会話を見てみましょう。

当時のユダヤの掟には、「しなければならない戒め」が248。

「してはならない戒め」が365。合計で613の戒めがあったといいます。

この律法学者が聞いたのは、あらゆる掟の中で何が一番の掟か、ということです。

この質問からイエス様を陥れる試みは感じられませんが、随分乱暴な質問であるとも言えます。この質問を言い換えると自分が最も集中するべき神の言葉は何かということです。

そこで、二つ大事なことがあると主イエスは言います。言うまでもなく、それは愛であり、それは一つではなく、二つの愛への集中であると述べました。

一つ目は〈心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。〉と申命記からお答えになりました。

申命記6章節以下(旧約聖書291P)を見ますとその最初の言葉「聞け」のヘブライ語からシェマーと呼ばれ、信仰深いユダヤ人は毎日これを暗唱したと言われています。

当然この律法学者も子供の頃から毎日これを唱えていたでしょう。子供でも知っている言葉をイエス様は第一の掟としてあげられました。

私たちの神である主は唯一の主であり。神は他のものが決して与えることのできない愛と恵みを与えてくださる方であり、他のどんなものをもってしても替えることのできない方であることを言い表しています。

二つ目は〈隣人を自分のように愛しなさい。〉とレビ記の中からお答えになりました。

〈自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。〉と記されている、レビ記19章以下の文(旧約聖書191P)には、隣人に対する私たちの日常の生活に気を配る神の愛があります。

9節10節を見ますと、穀物畑の所有者が収穫の時に穂が落ちたら全部を拾い集める事をしてはいけない、と命じられています。また、ぶどう畑に至っては摘み尽くさないで残しておくようにと記されています。それは自分の食べるものを得ることのできない人がぶどうを摘み、落穂を拾うことを許す。むしろ、それを勧める。その人々達にきちんと残してあげる。自分の収穫を人に分け与えるということです。

あるいは14節に〈耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない〉とあります。当たり前のことでは有りますが障害者に対する思いやりの心を持っているか、ということです。

最近、地下鉄のトイレのゴミ箱に防臭のためにフタがされて、車イスの方が困っているという記事を見ました。これもまさに隣人に対しての愛の配慮の足りなさから生じた結果だと言えると思います。

そして、このレビ記から、隣人を愛する根拠を考えるとすれば10節の終わりにある〈私はあなたたちの神、主である〉ということです。

隣人、生活に困っている人、障害を持つ人を愛することは神の命令である。

神を信じ、神である主を愛していると言いながら隣人を軽んじている者は、神である主を心から拝んでいないことになる、というのです。

ここで神を愛することと隣人を愛することが一つになります。

イエス様が律法学者に語った二つの愛の集中がここに示されるのです。〈心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。〉そして〈隣人を自分のように愛しなさい。〉

今までの律法学者とは違い、この律法学者は素直な気持ちでイエス様の言葉を受け止めたのだと思います。子供のようにならなければ入れない、神の国に近づいたのです。

「あなたは神の国から遠くない」こう告げられた律法学者はイエス様の愛を感じたと思います。そこにはイエス様の愛のこもった約束が感じられます。

心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神は私たちを愛して下さったのです。その故に主イエス・キリストを私たちに与えて下さいました。

この西札幌伝道所から献身された江古田教会の中井牧師は西札幌の40周年の記念誌にこう寄せられました。「立石牧師はうらやましいほど神に愛された生涯だった。」と。

50年、神に逆らい続け、50年、神に尽き従った立石牧師を神はうらやむほどに愛してくれました。私たちが神の国から遠くないことを祈りながら私たちは主イエスの、この愛の命令に集中しましょう。この命令に、私たちが、従う時、神はそれ以上に、私たちをうらやましいほどに愛してくれるのです。

目次