7月28日 聖霊降臨節第11主日 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23~29節

7月28日 聖霊降臨節第11主日 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23~29節

(招きの言葉: ヨハネ福音書 6章37~39節)

父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。

わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、

わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、

終わりの日に復活させることである。

(聖書本文 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23~29節)

23わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、

24感謝の祈りをささげてそれを裂き、

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。

わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

25また、食事の後で、杯も同じようにして、

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。

飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

26だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、

主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

27従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、

主の体と血に対して罪を犯すことになります。

28だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

29主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、

自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

「パンくずさえひろうにも」

1 パンくずさえ拾うにも 値せぬものなれど、み招きに従いて 主の食卓を囲む。

2 神の子と呼ばれるに 値せぬものなれど、罪深きわれに主の 愛とゆるしをたまえ。

3 「わがもとにいこえよ」と、主のみ声われ聞けり。くぎうたれ傷つきし 主の足もとに集わん。

4 わが歌とわが祈り あがないの主にささげん。いま、心高くあげ、主の食卓を囲まん。

目次

<説教> 「主の晩餐」

今日の手紙は、異邦人への使徒パウロと、同労者のソステネから、アカイア州、現在のギリシャにあったコリント教会の人々に宛てて書かれた手紙です。

今回の聖書箇所は「主の晩餐」、私たちが聖餐と呼んでいることについての記事です。

聖餐、聖餐式は、この教会では特別な礼拝の時に行われています。

その目的は、イエスの肉と血を象徴する、パンとブドウ酒を、食べ、飲むことで、イエス・キリストの十字架での死と復活を記念し、その死と復活は、自分自身のためであることを想い起こすために行われます。ブドウ酒は、今日ではアルコールを含まない、ぶどうジュースで代用しています。これは、アルコール依存症の人や未成年、お酒の飲めない人でも、一緒に聖餐に与ることができるようにとの配慮からです。

聖餐はイエス・キリストが捕らえられる晩の食事、「最後の晩餐」での出来事に由来します。

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。

わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

また、食事の後で、杯も同じようにして、

「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。

飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。

だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、

主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

と、言われています。

このことは、ユダヤ人の祖先、ヘブライ人たちが、神によってエジプトから脱出した出来事を記念する過越し祭の食事の出来事に重ねられています。イエスはこの食事に新たな意味を与えました。

「過越し」とは、出エジプトの際に、神の御命令通り、家の鴨居に子羊の血を塗ると、その家だけは神の裁きが通り過ぎて行ったという出来事です。また、ヘブライ人たちはシナイ山で神と契約を結び、神の民となりました。当時、契約を結ぶ際に、生け贄の血を振りかけました(出エジプト記24章5~8節)。それと同じように、イエス・キリストが十字架の上で流された血が私たちの罪を赦し、新たに神の民としてくださったことを思い起こすのです。

また、パンを取り、神に感謝の祈りをささげて裂いて分けることと、ぶどう酒を取って神に感謝の祈りをささげて分けることは、ユダヤ人たちの日常の食事風景でもありました。ブドウ酒は神から与えていただいている恵みや豊かさの象徴でもあり、パンは、神が普段の食事を私たちに与えてくださっていることを、この命は神さまにいただき、神さまに養われ、生かされていることを思い出させます。こども園でも、食事の際に神に感謝しますが、それと同じことを、ユダヤ人も、キリスト教徒も、昔から行ってきたのです。

また、新約聖書を読むと、イエス・キリストがいろんな人たちと食事をしたという記事が、たくさん出てきます。当時、宗教的に厳格なユダヤ人たちは、「罪人」とされて共同体から排斥された人たちや外国人とは食事をしませんでしたが、イエスはそのような隔ての壁を打ち破り、「罪人の友」となってくださいました。また、「5千人の給食」のような奇跡を通し、神が私たちを養ってくださっていることを教えてくださいました。そして、ご自身を命のパンにたとえて、イエス・キリストが私たちに永遠の命を与えてくださると教えてくださいました。イエスが死んで打ちひしがれていた弟子たちは、復活したイエスと一緒に食事をし、勇気づけられました。

そのように、最後の晩餐だけでなく、日常の食事も含めた、食事の風景は、キリスト教にとってとても重要で、イエス・キリストを思い出させてくれるものだったのです。

今日、礼拝の中で行われる聖餐と、礼拝後に行われる愛餐は分けられていますが、古代教会では聖餐と愛餐は分けられておらず、同じものだったそうです。聖餐と愛餐、そのどちらにも共通するのは、イエス・キリストを信じる者が、一緒に、同じものを飲食することでした。しかし、それは当時の社会において、とても非常識なことでした。当時の社会は奴隷制度があり、身分の違う人たちが一緒に、同じものを食べるなどありえないことでした。そのような世界において、教会は、神は人を分け隔てなさらない、すべての命は神に造られたものであり、どんな人も罪人で、どんな人も神に愛され赦されている大切な人だと教えたのです。

今日の聖書箇所では「ふさわしくない」ままで主のパンと盃、ぶどう酒を飲むなと言われています。

「ふさわしくない」と聞くと、なにか資格について問われているように思いますが、今日の前後を読むと、パウロは資格については語っていません。私たち日本キリスト教団が出し、私も聖餐式の際に参考にしている式文には「いさお(功績)のないまま」に聖餐に招かれていると言われています。また、今日の説教後に歌う讃美歌、「パンくずさえひろうにも」の歌詞にも、「パンくずさえ拾うにも 値せぬものなれど、み招きに従いて 主の食卓を囲む」と歌われています。

私たちの主人、すべての人の救いイエス・キリストは、すべての人を、その功績によらず、その食卓に招いてくださっています。私たち人間は、どんな人もみな罪人であり、神の前に誇るべきいさお・功績も、その値・価値もありません。永遠・無限・完全な存在である神に対し、有限・不完全な存在である人間は、誰も自分自身を誇ることは出来ないのです。

しかし、そのような存在を神は愛し、ご自身の子イエス・キリストを私たちの身代わりにしてくださったほどに大切に思ってくださっている。「ふさわしくない」私たちを、神が「ふさわしい」と言ってくださり、招いてくださっているのです。主の食卓は、そのような神と人との喜ばしい交わり、喜ばしい食事なのです。

「主の食卓」、聖餐はユーカリスト、「感謝」と呼ばれています。これは、「良い」と「喜び」という言葉が合わさった言葉です。聖餐に大事なのは、神に感謝し、喜びながら、社会的身分の違う人とも、神にある家族として、一緒に、同じものを食べることです。「主の食卓」、パンを裂くことは昔から、礼拝において中心になる、大切な出来事でした。

でも、残念ながら、その教えは当初から徹底できたわけではなかったようです。

パウロは、今日の少し前の箇所で、コリント教会で行われている聖餐の在り方を、「ほめることはできない」といい、そのような状態では、主の晩餐、主の食卓に「ふさわしくない」と言ったのです。パウロが「ふさわしくない」と言ったのは、資格ではなく、その聖餐の持ち方と教会内の好ましくない状況についてでした。

それは、①教会内に仲間割れがあること。②おのおの勝手に食べてしまい、一緒に食べていないこと。③貧しい人々に恥をかかせて、神の教会を見くびっていること。についてです。

先週も少し触れましたが、当時、「主の食卓」は、教会の人々が食事を持ち寄って行われたようです。持ち寄り、神に感謝をささげ、それからみんなで分けて食べたのです。しかし、当時は奴隷制があり、教会の中にも社会的階層や経済状況において格差がありました。だから、裕福な人たちは奴隷の人たちを働かせ、自分たちは早く教会に集まることができました。でも、貧しい人たちや奴隷の身分の人たちは、生きるために、働いてからでないと集まることができませんでした。

貧しい人たちや奴隷の身分の人たちがお腹を空かせながら、遅れて集会にやって来た時には、先に来た裕福な人たちが自分で持ってきたものを飲み食いし、酔っぱらい、食べる物が足りないという状態になっていたのです。また、当時の教会は家の教会で、そこまで広い空間はなかったようです。だから、裕福な人には良い場所が与えられ、そうではない人々には足元に座らされるという状況があったようです(ヤコブの手紙2章)。そのように、貧しい人々に恥をかかせることは、神の教会を見くびっているとパウロは言うのです。

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、

主の体と血に対して罪を犯すことになります。

だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。

主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、

自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

キリスト教の言う「罪」とは、「的を外すこと」。愛である神に従わないで、自分勝手に生き、神から離れた状態です。せっかく、神の子イエス・キリストが命をかけて私たちの罪を赦し、主の晩餐に招いてくださったのに、仲間割れをしたり、勝手に食べてしまったり、貧しい人を見くびったり、人を分け隔てするなら、それはもう「主の食卓」にはならないのです。

それは、なんともったいないことでしょう。私たちは功のないままに招かれたのに、まるで自分が偉くなったかのように勘違いして、他の人を軽んじるなら、それは先週の子どもメッセージで語られていた、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」の登場人物のようではないでしょうか。

聖書は「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10章13節)こと、そして主を呼び求める者には主に従うことを教えています(ルカ6章46節、マタイ7章21節)。主に従うとはどういうことか。それは、互いに裁かず、互いに人を分け隔てせず、「互いに愛し合」うことです(ヨハネ15章12節)。

主の晩餐、主の食卓、主の赦しの出来事を思い起こすたびに、すべての人は神に愛され、招かれているということを思い出し、主に感謝しましょう。私たちの勝手な思いではなく、私たちの主人、イエス・キリストの思いに従いましょう。私たちが愛の主イエスに従って行けますように。

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