2024年7月21日 聖霊降臨節第10主日 ローマの信徒への手紙14章10~23節

10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。

 また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

11 こう書いてあります。

 「主は言われる。

 『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」

12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 兄弟を罪に誘ってはならない

13 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。

 むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

14 それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。

 汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。

15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。

 食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。

17 神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

18 このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。

19 だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

20 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。

 すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。

21 肉も食べなければぶどう酒も飲まず、

 そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。

22 あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。

 自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。

23 疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。

 確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

目次

<説教> 「神の国は…」

異邦人への使徒パウロから、ローマにいたキリスト教徒たちに宛てられた手紙です。

現在のシリア、トルコ、ギリシャといった地方で宣教し、教会(信仰共同体)を建てていったパウロ。

彼は次に、当時、「地の果て」と考えられていたイスパニア、現在のスペインへの宣教を考えていました。パウロはまだローマの教会に行ったことはありませんでしたが、ローマの教会の人々に、

スペイン宣教の後ろ盾となってほしいと思っていたようです。

しかしその前に、一つ大きな問題がありました。それはローマの教会内での不和です。

ローマの教会はもともと、ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じるようになってできた教会のようです。イスラエル王国とユダ王国というヘブライ人たちの王国が神に背いて滅びた後、ヘブライ人、今日のユダヤ人たちは世界各地に分かれて住むようになりました。この手紙が書かれた当時、ローマにも多くのユダヤ人が住んでいたようです。

ローマの教会は、イエスが復活した後、天に帰って20年たたないうちにできているようなので、もしかしたら、聖霊がイエスの弟子たちに下ったペンテコステの日に、エルサレムに巡礼に来て、ペトロの説教を聞いて改宗した人々がローマに帰って作った教会なのかもしれません。

しかし、ローマに住むユダヤ人と、キリスト教徒になったユダヤ人の間で対立が起きたため、ローマ皇帝クラウディウスによって、ユダヤ人追放令(西暦49年)が出され、キリスト教徒を含むユダヤ人たちはローマから追い出されてしまいました。パウロはギリシャのコリントに宣教に赴いた時、ローマから追放されてきたアキラとプリスキラという夫婦に出会い、仲間になっています。

パウロはローマの教会に行ったことはありませんでしたが、アキラとプリスキラから、ローマの教会について聞いていたのでしょう。

さて、皇帝クラウディウスが死ぬ(西暦54年)とユダヤ人追放令が解かれ、ユダヤ人キリスト者たちもローマに帰ります。しかしローマの教会では、ユダヤ人がいない間に、ユダヤ人ではない異邦人キリスト者の方が多くなっていたようです。

ユダヤ人キリスト者の多くは、割礼や食物規程、豚は食べてはいけない、血を抜いた肉でなければ食べてはならない、偶像に捧げた肉は食べてはならない…、安息日(金曜の日没から土曜の日没まで)を守る等、ユダヤ人としての習慣も守っていました。

一方、異邦人のキリスト者はそういったユダヤ人の風習はすでに廃棄されたものとして、守っていなかったようです。そこで、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に、双方が互いを見下すという対立が起こっていました。パウロはこの手紙を通して、両者を和解させたいと思っていたようです。

今日の箇所の少し前で、パウロは「信仰の強い人」に、「信仰の弱い人」を受け入れ、批判しないようにしなさい。また相互に、軽蔑したり、裁いたりしないようにと教えています。

「信仰の強い人」、これはおそらく多数派であった異邦人キリスト者のことを指しているのでしょう。「信仰の弱い人」、こちらは律法も守るユダヤ人キリスト者のことを指しているのだと考えられます。

エルサレム神殿があった時、焼き尽くす全焼の生け贄以外は、生け贄の奉げた後、血を抜いた肉は下げて食べることができました(申命記12章27節)。

それと同じように、当時、市場に出回る肉は、異教の神に奉げられ、そして下げられてから市場に出されたのだそうです。日本でも仏壇がある家では、先祖や仏さんに食べ物を供えた後、下げて食べますよね。それと同じようなイメージでしょうか。

ですから、多神教社会であるローマでは、市場に売られている肉を食べようとするときに、その肉が偶像に奉げられたものである可能性が高かったのです。そこで、偶像に奉げられた肉を避けるために、野菜だけ食べる人たちがいました。

一方、神は唯一であり、他の宗教の神々、偶像は木や石、金属などで勝手に造り出したものにすぎないのだから、食べても問題ないと考える人々もいたようです。

ローマではそのように気にせず肉を食べる人が主流派で、野菜しか食べない人を軽蔑していたようです。一方で、野菜しか食べない人たちは野菜を食べる人たちを、律法に背いていると裁いていたようです。そのような問題から、ローマの教会では分裂が起こっていたのです。

パウロは異邦人には異邦人のように、ユダヤ人にはユダヤ人のようになった、と言っていますし、おそらく偶像に奉げられた肉でも気にせずに食べていたかもしれません。その意味で、彼は「信仰の強い人」だったと思います。しかし、パウロはそのどちらか一方に立つようなことをせず、その両者の和解を望みました。

この、「信仰の強い人」、「信仰の弱い人」という言葉に引っかかりを感じる人がいるかもしれません。私もそうです。ここに出てくる、他者を軽蔑し、見下す人たちが、本当に「信仰の強い人」だとは思えないからです。

では、本当に「信仰の強い人」とは、どんな人でしょう。それは神と人を愛し、イエス・キリストに従う人。柔和で謙遜であり、他者を軽んじず、貧しい人や病人に心を配り、平和、正義、公正を求める。泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜び、どんなときでも希望を捨てず、小さなことにも喜びを見つけ、神に感謝し、賛美する、そのような人ではないでしょうか。まぁ、私のような人間ではないことだけは確かです。いずれにしても、自分は「信仰が強い」と誇れるというのは、傲慢になっており、少し問題だと思います。信仰とは神に与えられたものであるはずですから。

この「信仰の強い人」という言い方は、もしかしたら多数派である肉を食べる人たちの自称で、彼らを説得するために、パウロが戦略的に使った言葉かもしれません。あなたがたは信仰が強いのでしょう?ならば弱い人を受け入れなさい。

一方で、「信仰の弱い人」と呼ばれている人たちにも問題がある。彼らは彼らで、他者を裁いていたのです。

食べる人も、食べない人も、特定の日を重んじる人も、重んじない人も、どんな人も、神の僕。

人それぞれ、信じ方や、大切にしているものは違うでしょう。でも、どんな人も、その人なりに神を重んじ、神に感謝しているから、そのようにしているのだ、

どんな人の上にも神が居られる。人を裁くのは神のなさることであり、私たち人間のすることではない。すべての人は主のものです。

「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。

わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」とパウロは両者をたしなめます。

イエス・キリストが帰って来られるときには、正しい者も、正しくない者も(使徒言行録24章15節)、どんな人も復活させられ、生きている人も、死んだ人も、みな、神の前に立たされる。そして、兄弟を裁き、兄弟を侮ったことについて、「お前は私の僕に過ぎないのに、なぜ自分のものではない、私の僕を、勝手に裁き、勝手に侮ったのか」と問われる神に申し開きをしなければならななくなる。

だから、もう互いに裁き合わず、相手の妨げになるようなことを避けようとパウロは勧めます。

すべては神が造られたものであり、それ自体で汚れたものは何もないとイエス・キリストは教えてくださいました。だから、私たちは何を食べてもいいのですが、それによってつまずく人がいるのなら、その自由を放棄して、その人のために食べるのを避けよう、平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう。それがイエス・キリスト、愛に従うことなのだとパウロは言います。

私たちはイエス・キリストにより罪から解放されて、自由な人となりました。けれども、それで自分勝手に生きるならば、それは神とは何のかかわりもない者になってしまいます。そうではなく、

私たちは自由な者、神の子として、イエス・キリストに従って生きていこう。それは、自分を低くして隣人に仕える道です。イエスは私たちの模範として、私たちに仕えてくださったのです。

ここで私が大事だと思うのは、イエス・キリストが言われた「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13章34節、15章12節、15章17節)という言葉です。パウロも「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」(ローマ15章7節)と言っています。

私たちは、ともすれば、一方的に相手に仕えてもらうことを望んでしまうのではないでしょうか。

一方的に相手に譲歩を求めてしまうのではないでしょうか。しかし、「互いに」と言われるのですから、そうであってはいけない。お互いに歩みよらなければと思うのです。

わたしも、あなたも、どんな人も、神に愛されている神の子ども。神はどの人をも大切に思っておられます。神は私たちの間に居られ、私たち神の子どもたちが仲良くすることを望んでおられる。互いに愛し合い、互いに大切にしあうことを望んでおられる。私たちが裁き合わず、見下し合わず、互いに尊重し合うことを神は望んでおられるのです。

イエスも、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5章23~24節)と言っておられます。まず、仲直りしてから礼拝しなさい、と言われているのです。それほどまでに、神は私たちが仲良くすることを望んでおられるのです。

私たちには違いがある。信じ方も、大切にしていることも違う。でも、神が望んでおられるのだから、互いに裁かず、互いに見下さず、違いを喜び合えるようになりたいと思うのです。

パウロは、神の国は、何を食べるのか、何を飲むのか、といったような些末な決まり事ではなく、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」なのだと教えています。

聖霊、目には見えないけれど、いつも私たちともに居てくださる神によって与えられる、義と平和と喜び。それが神の国。義とはイエス・キリストによって罪赦され、神の民とされること。平和とは、「シャローム」。単に戦争状態にないだけでなく、神と人とがあるべき関係になり、神が私たちを治めてくださる状態のこと。それは愛にあふれ、一人ひとりが神の家族として、大切にされる状態です。それは神にとっても私たちにとっても喜ばしいことです。

イエスは、「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ福音書17章21節)と言っておられます。

神の国は、私たち人間が互いに愛し合うとき、大切にしあうとき、その関係性の中に姿を表すのです。

しかし、互いが相手に何かしてくれるのを期待していたら、何も始まりません。愛してくれるから愛そう、では、なにも始まらないでしょう。ですから、まず、自分が愛しなさい。自分が譲歩しなさいと言われているのではないでしょうか。何よりもまず、神が、イエス・キリストを通して私たちを愛し、ご自分の民としてくださったのですから、その愛に押し出されて、愛の道を歩みたいと思うのです。神の民として、神に呼び集められた私たちが、互いに大切にしあいながら、一緒に生きていけますように。

目次