1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
<説教> 「大切なのは」
異邦人、ユダヤ人ではない人々への使徒パウロから、コリント教会の人々に宛てられた手紙です。
この教会はパウロと仲間たちの宣教によってできました。コリントというのは、現在のギリシャにあった都市で、交通の貿易の要所として栄えた都市でした。
この手紙が書かれた理由はなんだったのでしょうか。それは、この教会の中で分裂が起きていることをパウロが聞き、教会の一致を願ったからでした。
パウロは手紙の冒頭で、「コリントにある神の教会へ」と呼びかけ、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と呼びかけています。(Ⅰコリント1:2)教会は神のものです。そして、そこに集う人たちは、キリスト・イエス、救い主であるイエスによって招かれ、恵み、神からの一方的な愛によって、聖なる者とされました。あなたはイエス・キリストのものです。その自覚を持ちなさい、とパウロは言うのです。
そして、イエス・キリストはパウロたちとコリントの人々、私たちとあなたたちの共通の、同じ主人であることを再確認させています。
「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」
(Ⅰコリント1:10)
ということは、残念ながらコリントの人々は皆、勝手なことを言い、仲違いをして、心を一つにせず、思いを一つにせず、バラバラになっていたのです。そのことを聞いて心を痛めたパウロは、なんとかしたくて、この手紙を書いたのです。
パウロは「兄弟たち」と呼びかけます。まさに、イエス・キリストを自らの救い主だと信じる人々は兄弟のような存在です。同じ天の父がおられるのですから。しかし、コリントの教会の人々はそのことを忘れてしまい、争っていたようです。
あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(Ⅰコリント1:12~13)
神はお一人であり、神の教会は、たくさんあっても、さまざまな教派や教団があっても、一つです。それぞれ違いがあっても一つです。すべては神のものなのですから。
しかし、コリント教会の人々は、それぞれに違う教師たちを旗印にして、どちらが正しいか、どちらが優れているか、争い、競うようになってしまった。
「私は教会を建てたパウロにつく」、「私はパウロの後任で、話の上手な力ある説教者のアポロに」、「いやいや、わたしはイエスの一番弟子で教会の指導者であるケファ、ペトロにつく」、「いやいや、わたしはキリストそのものに」
いろんな人が自分勝手にキリストにつくというけれど、キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。そんなはずはないでしょう。パウロにつくというけれど、私パウロがあなたたちのために十字架で身代わりになったのですか?私の名前を通して洗礼を受けたのですか?違うでしょう。すべてはイエス・キリストです。
パウロ、アポロ、ケファ…。当時の教会には優れた、魅力的な指導者たちがいました。しかし、彼ら教師はみな同じく、神の僕です。そこに優劣はないのに、勝手に優劣をつけ、派閥をつくり、党派をつくり、争ってしまう。
これは今日の教会でもしばしば耳にする出来事ではないでしょうか。
「私は初代牧師につく」、「私は二代目に」、「いやいや、どこどこ教会の〇〇牧師に」「いや、わたしは〇〇さんに」きっとパウロが見たら、そしてイエス・キリストが見たら、さぞ心を痛めたことでしょう。
イエスは教会の頭であり、教会も、そこに集う私たちも、みなイエス・キリストの部分だとパウロは言っています。それぞれの教会に違いはあっても、一人ひとりに違いはあっても、優劣はない。必要のない人は居ない。どんな人も、神に愛されている大切な人です。
神は、わたしたちに違いを与えてつくり、その違いが尊ばれ、互いに大切にされ、互いに愛し合うようにと望んでおられます。
それなのに、コリントの教会の人々は、互いに相手よりも自分を優れた存在だと思っていたようです。自分の方が霊的に優れていると自慢していたようです。
そのような人々に、パウロは冷や水を浴びせます。
「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」
この箇所でパウロは食べ物のたとえを使っています。
わたしたちは、初めはみんな乳飲み子のよう。はじめは固い、難しいことは受け入れられず、栄養のある乳を貰って育ちます。でも、乳飲み子はいつまでも乳飲み子ではない。時が来れば、柔らかい離乳食に進み、やがて大人と同じように固い物も食べることができるようになってくる。そのように、信仰者も、成長していくことが望まれています。
コリント教会の人々が、互いにねたみあわず、争わず、主にあって一致し、仲良くし、成長することをパウロは願っている。自分が、自分が、ではなく、他者の上に立とうとせず、他者のことを思いやる。互いに愛し合うことこそ、パウロの示すキリスト者の道です。それなのに、分裂があるなら、御霊に満たされた人とは言えません。
「ねたみ(ゼロス)」という言葉は「熱心」とも訳されます。パウロも過去には、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害しました。新約聖書に出てくる、イエスの敵対者、ファリサイ派などの他のユダヤ教徒も熱心に神に仕えていました。そして、律法を守れない人を罪人だと熱心に裁いていました。しかし、このような熱心さは正しい認識に基づくものではありません(ローマ10:2)。
自分も誤った熱心さによってキリスト教徒を迫害したことのあるパウロだからこそ、コリントの教会の人々の陥っている状況に、心を痛めていたのではないかと思います。
今日のキリスト教においても、しばしば霊的であることを誇るような言説や、自分の熱心な信仰心を誇るような言説を見聞きすることがあります。「私は異言が語れる」、「私は預言できる」、「あなたには悪霊が付いている」、「あなたは聖霊が分かっていない」などなど。
しかし、それが他者を見下し、裁き、争い、分裂を生み出すようなら、それは霊的ではなく、相変わらず肉の人である証拠です。
霊的である、神の霊を受けて歩んでいるとはどういうことか。
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制」(ガラテヤ5章22~23節)だとパウロは語っています。
私たちの救い主イエスは、ご自分を柔和で謙遜な者といい、そのイエスから学ぶようにと言っておられます(マタイ11:29)。
今日の聖書箇所、私にとって耳の痛いところでもあります。
恥ずかしながら私も、キリスト教徒になりたての頃、自分が他の人より偉くなったかのように錯覚して、傲慢になっていた時期があります。また、日本人だからといって、先進国に生まれたからと言って、発展途上国の人々を見下していた時がありました。思い返すと、本当に情けなくて恥ずかしい。私は何にも偉くないのに、私は何にも誇ることなどできないのに。でも、いいんです。気が付くのに遅い時はありません。失敗もまた糧とさせてくださるのが神さまです。神さまは人との出会いや、聖書のみ言葉を通して、自らの弱さや愚かさを教えて下さり、そして少しずつでも成長させてくださり、失敗から学ばせ、やり直させてくださいます。
さて、コリント教会には党派があり、誰が互いに争っていました。「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロにつく」しかし、パウロもアポロも本来、対立関係にありません。
どちらも神の僕であり、人々を神のもとへと連れていく役目を与えられた、神の道具です。
主役はパウロでもアポロでもありません。主役は神です。
パウロは教会を開拓し、アポロは教会を引き継いで世話をした。それはパウロが植え、アポロが水を注いだようなもの。しかし、成長させてくださったのは神。神さまがいなければ、無に等しい。
大切なのは神さま。植えるものも、水を注ぐものも、どちらも神の僕。それぞれその働きに応じて報いてくださるだろうけれども、そこに優劣はありません。それぞれが主にいただいた賜物を用いているだけで、それは自分を誇ることではないのです。
そして神さまのためという、同じ目的のために働いている。神さまのために働くというのはチームですること。一人でできるようなことではありません。私たちの教会も、皆さんのお働きがなければ立ちゆきません。でも、そのために、お互い助け合うために、わたしたちは神の民として、イエス・キリストに招かれているのです。
大切なのはパウロでもアポロでもなく、神さまです。私たちのために十字架にかかり、私たちを招いてくださっているイエス・キリスト。その神さまは、私たちが互いに愛し合うことを望んでおられます。党派争いなんてくだらない。神のためと言いながら、神を悲しませているのですから。
だから、最も大切なものに目をとめましょう。私たちを愛して、成長させてくださる、大切な方に従って、私たちも愛の道を歩んでいくことができますように。