1 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、
律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
2 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、
夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。
3 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、
夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。
4 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。
それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、
こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
5 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。
その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
<説教> 「新しい生き方」
異邦人への使徒パウロから、ローマにあった教会(信仰共同体)に宛てられた手紙です。
この手紙は宗教改革者ルターに影響を与えたものとして知られています。
新約聖書はイエス・キリストの出来事を伝える4つの福音書と、ルカ福音書の続編で、キリストが天に帰った後の出来事を伝える使徒言行録、そしてパウロらイエス・キリストの弟子たちからの手紙類、書簡類から成っています。このローマの信徒への手紙は、それら書簡の一番はじめに置かれており、新約聖書をまとめた初期のキリスト教会にとっても、大切な書だと考えられていたことが読み取れます。
ガラテヤ書などとも内容が似ていますが、より詳細になっており、パウロの手紙の中でも最後の方に書かれたものだと考えられています。
パウロは、地中海世界、現在のシリア、トルコ、ギリシャのあたりに宣教し、たくさんの教会ができました。しかし、このローマの教会はパウロが建てたものではなく、彼はまだローマの教会に行ったことはありませんでしたが、同労者であるアキラとプリスカらから、彼らのことを聞いており、スペイン(イスパニア)宣教のための後ろ盾となってほしいと思っていたようです。しかし、そのためには解決しなくてはならない問題がありました。同時、ローマの教会ではユダヤ人のキリスト者と、異邦人のキリスト者の間で対立があったようなのです。
ローマのユダヤ人のキリスト者たちは、ユダヤ人としての習慣、律法や割礼を誇っていました。
そして、そうした律法を持たない、割礼を受けない異邦人のキリスト者を罪人だと裁いていたようです。
そのようなローマの教会に、パウロは福音がなんであるかを再確認させ、両者を和解させたいと願いました。
パウロが信じ、パウロが伝えた福音「良い知らせ」とはなにか。それは、あの十字架にかけられて死に、復活したイエスこそがキリスト・救い主であり、「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であり、「神の義は、信仰によって実現される」ということです(ローマ1章16~17節)。
このことは宗教改革における核心です。神の義、神と私たち人間が正しい関係になることは、信仰によって実現されるのであって、行いによるのではないのだとパウロは言うのです。
それは人間側の誇りが取り除かれるためです。それは旧約聖書から一貫したテーマでもあります。
神はユダヤ人を選びました。それは彼らが最も小さく弱い集団だったからです(申命記7章7節)。強い人たちが選ばれるなら、その人たちは自分たちが立派だったからだと自分を誇るでしょう。私たち人間の常識では、大きなもの、強いもの、賢いもの、美しいものなど、優れて見えるものが選ばれます。しかし、神はそのようには見られません。神は人が見向きもしないような小さなものに目を向けられます。そのように、当たり前ではないことが行われることで、私たち人間は見えない神のことを知ることができるのではないでしょうか。
しかし、ユダヤ人たちは勘違いをし、神から与えられた律法を持つ、自分たち自身を誇るようになってしまった。そして、他者を見下すようになってしまった。それは、神が望まれることではありませんでした。
神がアブラハムを選んだのは、彼によってすべての人が祝福されるためであり(創世記18章18節)、すべての人が神のもとで互いに愛し合って生きるようになるためです。
十戒をはじめとする、守るべき掟、神から与えられた律法は、神の民として幸福に暮らすために与えられました。律法は神が与えられたものであり、もともとは良いものです。しかし、罪人である人間にはそれを完全に守ることができません。
もし、律法を完全に守ることができるなら、キリストはこの世に来られる必要はなかったことでしょう。しかし、すべての人間には罪がある。キリスト教のいう「罪」とは自己中心的、利己的な性質のことで、これは残念ながらどんな人でも持っているものです。
しかし、だからこそ神の子イエスがキリスト、すべての人の救い主としてこの世に来てくださった。
イエスは全ての人の身代わりとして十字架で死に、復活することで神の約束は確かなものであると教えてくださいました。
私たちはイエス・キリストによってしか救われない。それは誰も自分自身を誇ることがないためです。私たち人間の社会では人の上に立つのが良いこととされます。いつも誰かと比べられ、競争し、上に立つためには誰かを下にしなければなりません。
しかしイエスが支配する神の国では、誰も人の上に立つ必要も、誰を見下す必要もありません。
すべての人は自分を誇ることのできない罪人であり、同時に、イエスによって罪赦され、神に愛されている神の子とされているのです。そのような神の国が、一人ひとりが大切にされる世界が、天にあるように、地上でも実現することが私たちキリスト者の祈りです。
さて今日の箇所です。今日の箇所は律法を知っているユダヤ人キリスト者に向けられているようです。パウロは、キリスト者はイエス・キリストによってユダヤ人と異邦人を隔てる律法から自由にされたことを、律法による結婚の決りのたとえから教えています。
律法は人が生きている間だけ支配します。それは結婚のようです。ユダヤ人にとって、結婚は律法によって結ばれた契約です。旧約聖書と新約聖書の「約」とは神さまとの「約束」、それも「契約」のことです。ただの口約束ではなく、実効性、拘束性をもつ重い約束で、その一つの例が結婚です。
それは相手が生きている限り続きますが、「死がふたりを分かつまで」と言われるように、一方の死によってその契約は解消されます。
ユダヤ人キリスト者たちは、ユダヤ人として律法と結ばれていました。しかし、イエスを自らの救い主と信じ、洗礼を受けたとき、律法から解放されました。
洗礼は、水を通して行われます。水は死と復活を表します。洗礼によって私たちは一度死に、そして新たに生かされた。それを象徴しています。
私たちが洗礼によって死んだ以上、私たちは律法から解放されました。そして、新たにイエス・キリストのものとなったのです。それは、「わたしたちが神に対して実を結ぶようになるため」だとパウロは言います。良い実とは、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制などなど。イエス・キリストも、聞く耳を持ち、良い実を結ぶようにと言っておられます。
しかし、律法のもとにいるときは、肉に従い、死に至る悪い実を結んでいた。敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ…。律法の専門家であるファリサイ派や神殿の祭司たちはねたみによりイエスを敵視し、十字架につけて殺しました。ファリサイ派としてエリート教育を受け、「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言うパウロは、神の教会を熱心に迫害しました(フィリピ3章6節)。熱心に律法を守ろうとして、正反対のことを行っていました。
律法は「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 (ローマ13章9節)。
しかし、分かっていても実行できない私たち…。
その律法を完成される方、それがイエス・キリストです。
十字架の死と復活によって、イエスはすでに私たちの罪を赦してくださった。
私たちは私たちをがんじがらめにしていた罪、負い目から解放された。
そうして、神の子とされた。
イエスを信頼し、そのことを感謝して受け入れるのが救いです。
私たちは、律法、良いことをするから救われるのではなく、すでに救われたのだから、イエス・キリスト、神の愛に従って、互いに愛し合あおうとするのです。
「今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、
律法から解放されています。
その結果、文字に従う古い生き方ではなく、
“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」
パウロはすでに、そうなっているのだと言います。
私たちが洗礼を受けた以上、私たちはすでに、水によって死に、新たにされて、神の霊、聖霊を受けました。私たちにはいつも、神が一緒にいてくださっています。
そうして、神の霊に従って、互いに愛し合う、互いに大切にしあう生き方へと押し出してくださいます。
それは恐れや恐怖からするのではありません。そうしないと叱られるからするのではありません。
そうではなく、私たちが神の子とされた喜びからするのです。
書かれているから、そうしなさいと言われるからではなく、見えない“霊”、神の愛に従って、神の子として、自分で考え、自発的に行えるようになる、そのようになりたいと願います。