イエスはまた群衆にも言われた。
「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
説教題:「赤い球をひろいますか?」 説教者:小西陽祐牧師(北星学園女子中学高等学校宗教主任)
おはようございます。
先日、1997年に発行された「北星学園女子中学・高等学校の110年」という記念誌をパラパラとめくっていましたら、ある記事に目が留まりました。タイトルは「赤い球事件」
この事件が起きたのは戦争中の1937年のことでした。
北星学園の50周年記念の行事を滞りなく終えて、 夏休みを間近にした1937年7月7日。中国・北京郊外の蘆溝橋付近で, 日本軍と中国軍の衝突が起こります。7月7日夜、盧溝橋付近の河原で日本軍が夜間演習中、実弾を撃ち込まれ、点呼の時に兵士の1人が所在不明だったため、中国軍からの攻撃があったと判断して起きた事件だと言われます。
かなりあいまいな状態のきっかけがもとになって、7月28日には日本軍による中国北部の侵略が始まり、日本と中国は全面戦争に入ってしまいました。
時代は戦争中です。多くのキリスト教会も戦争に反対するどころか、むしろ積極的に戦争に賛成していきました。日本と中国が戦争になったことで、日本の政策を批判するアメリカやイギリスと関係の深いキリスト教会たいして、日本政府は疑いを募らせていきます。そして、日を追うごとに教会への監視の目が厳しくなっていきました。もちろん、全国のキリスト教学校も監視の対象とされていきます。
当然、北星女子もその対象です。
全校生徒による勤労作業を行ったり、キリスト教学校にもかかわらず札幌神社や護国神社への全校生徒の参拝をさせたり、戦争の気持ちを高めるために、戦勝祝賀行事への参加など、むしろ戦争に積極的に加担していったと言えます。
そうした戦争一色の雰囲気の中、1939年の12月に「赤い球事件」が起きました。
ある日、内務省の防空局から「某日、赤い玉を飛行機から落とすからそれを爆弾と思って防火訓練を実施せよ」という電話連絡が学校にありました。それをある先生が受けたようですが、連絡ミスで、誰にも知らされませんでした。連絡通り、12月1日、校庭に赤い球が落とされます。
ところが、連絡がうまくいっていなかったので、何も知らずに登校した生徒は校庭に転がっている赤い玉を蹴ったり拾ったりして遊んでいたそうです。
事態を知った寄宿生たちによって、防火訓練が始められたのですが、他の生徒は校舎の窓から眺めているだけ。それを見て、視察に来ていた消防団や警防団役員は激怒します。そして、当時の新島善直校長以下全教職員, 生徒一同は講堂に集められ、さんざん怒られました。このことのショックで新島校長は体調を崩します。
生徒や先生が怒られたのはなぜでしょうか?悪いことをしたからでしょうか?
よく考えたら、生徒や先生は何かわるいことをしたのでしょうか?
そもそも、飛行機からの爆弾だと思って防火訓練をさせるような国にこそ問題があると僕は思います。
これは85年前の出来事です。遠い昔の話とは言えない現実がわたしたちの目の前にはあります。
世界を見渡すと、ウクライナで戦争が起き、パレスチナやイスラエルで戦争が起きています。世界は平和とは言えません。
では日本はどうでしょうか??
1月に起きた能登半島地震で被災し続けている人たちがいます。貧困に苦しむ人たちがいます。福島第一原発の事故のことも忘れ去られたかのように、ほとんど報道されていません。自ら命を絶つ人が2万人以上もいます。にもかかわらず、2025年度の防衛費は過去最大の8兆4989億円を計上される見通しとなり、敵の基地攻撃・反撃に使用する長い射程のミサイルの保有を進めようとしています。この国が平和だとはとても言えないとわたしは思います。
さすがにあれだけの悲惨な戦争をわずか80年前に経験したのだから、同じ過ちは繰り返さない。そう思いたくもなります。
でも果たしてそうでしょうか?
ナチスドイツでヒトラーに継ぐ人物であったヘルマン・ゲーリングの言葉を思い出します。彼はこう言いました。
「…もちろん、国民は戦争を望みませんよ。運がよくてもせいぜい無傷で帰って来るぐらいしかない戦争に、貧しい農民が命を賭けようなんて思うはずがありません。一般国民は戦争を望みません。ソ連でも、イギリスでも、アメリカでも、そしてその点ではドイツでも同じ事です。政策を決めるのはその国の指導者です。そして国民は常に指導者の言いなりになるように仕向けられます。
……反対の声があろうがなかろうが、人々を政治指導者の望むようにするのは簡単です。
国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。そして国を更なる危険に曝す。このやり方はどんな国でも有効ですよ。」
「国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り」という言葉に何かを感じませんか?中国や北朝鮮が何かしたらどうするのかと不安をあおっているのが、今の政府であり、マスコミではないでしょうか。
だから、ゲーリングの方法は今も、有効だと僕は思います。わたしたちはいつでもニュースやネットなどを使って、気持ちを煽られてしまうのです。そして、気づけば、自衛隊がアメリカと一緒に海外へ攻撃に出かけているなんてこともあり得ない話ではありません。
それは2000年前から全く変わっていない人間の姿です。思い返してみると、イエスが十字架につけられたのも時の権力者たちに扇動された民衆たちが「十字架につけろ」と叫んだからです。
わたしたちは権力者や群衆の言葉に流されやすいのです。
だからこそ、イエスは集まってきた群衆に言いました。
「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
見分けるという言葉は、「見抜く」と翻訳した方がよいと言葉です。
「偽善者よ」という言葉を聞くと、イエスが集まってきた人々を「この偽善者」と責めているようにも聞こえます。でもそうではないんです。だから、「偽善者」と言う言葉は、「自分自身を偽るな、演じるな」と訳す方がしっくりきます。
イエスは言います。
「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。
そうやって、自分の頭で判断し、天気を予想することができるのだから、「今の時」を見抜く、時代を予想することをできないはずがない。」
「自分を偽ることなく、今の時代を自分自身の頭で直感的に判断して見抜け」とイエスは勧め、そして、それがあなたたちにはできるのだと群衆を励ましているのです。
そして、イエスは当時の群衆だけを励ましているのではありません。今を生きるわたしたちをも励ましています。
「AIや様々な便利な道具を使って、あなたたちは天気の動向を予想することができる。そういうあなたたちだからこそ、群衆の1人として情報に踊らされるのではなく、今の時代を自分自身の頭で直感的に判断して見抜け。それがあなたたちにはできるのだから」
人間として自分の弱さ・情けなさを知りつつ、この世の中の課題や問題を1人の個人として見抜き、群衆から抜け出すことができるとイエスはわたしたちを励ますのです。
最後に、ナチス・ドイツに対して抵抗運動をしたマルティン・二―メラーという牧師の言葉を思い起こしましょう。
「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。」
「遅すぎた」とこの言葉が心に刺さります。
「遅すぎた」という言葉をわたしたちが二度と口にすることのないように、赤い球を蹴って怒られることが二度とないように、今という時代を見抜き、平和をつくりだす働きをそれぞれの場所で担っていきましょう。
祈りをささげます。