神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。
御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。
これが神に対するわたしたちの確信です。
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。
不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。
わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
子たちよ、偶像を避けなさい。
<説教> 「神に属する者」
先日は北海教区の働きでの出張と夏期休暇を頂きましてありがとうございました。
私は教区では平和部門委員会と東日本大震災支援委員会という委員会に入っていまして、今回はこの東日本大震災支援委員会の出張で福島県や宮城県、岩手県に行ってきました。
今回、一緒に行ったメンバーは久世そらち牧師、韓守賢北海教区幹事、北海道クリスチャンセンターの板谷良彦さんです。
今から13年前の東日本大震災の時、北海教区は主に岩手県の大船渡教会と新生釜石教会を支援したそうです。だから、現在の状況を知りたいということも旅の目的の一つでした。そこで、1日目は仙台空港からレンタカーで岩手県に移動し、両教会をお訪ねしてきました。牧師は時と共に任地が変わることが常ですが、これらの教会は震災当時から牧師が変わっていないということで、当時のお話や現在のお話を詳しく教えていただくことが出来ました。
そして、この委員会の現在の主な働きは、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって土地が汚染され、安心して暮らすことのできない福島県の子どもたちやそのご家族を、わずかの間でもその不安から解放して、過ごしてもらおうという保養プログラムを東北教区(福島県、宮城県、山形県)と奥羽教区(青森県、秋田県、岩手県)と協力して企画・実施することです。
けれども、震災から13年経ち、以前のような形での支援は経済的理由などから難しくなってきて、今後はどのような支援や関りを持つことができるか、模索している最中です。
そこで、今回は北海道の私たちが福島県をお尋ねし、これまで保養プログラムに参加してくださった方々の現在の声を聞くために保養プログラムのOB会を開催することにしました。
しかし、福島県は、北海道、岩手県に次ぐ日本第3位の広さだそうで、一度に集まるのは難しい。そこで、内陸側にある郡山市の郡山教会と、海側にある常磐教会を会場にお借りして、保養プログラムのOB会を実施しました。過去の保養プラグラムの写真のスライドショーを見たり、思い出を語り合ったり、皆さまの現状や思いを聞くことが出来たりと、楽しく、貴重な一時となりました。
ご参加いただいた皆さん、それぞれ事情は違いますが、自分たちが良くしてもらった分、今度は自分たちが助ける側に回りたいと語っておられるのが印象的でした。久しぶりに会い、表情の硬かった子どもたちも、帰るときには表情が和らいで、握手でお別れすることができました。東北教区の皆さんの継続的なお働きに、北海教区も参加し、教区を越えて共働でき、そこに繋がりが生まれる。
本当に尊い働きであったのだと感じることができた一時でした。主にあって出会った方々と、これからどのような繋がり、関りを継続していけるのか、今後の課題です。
また、今回の訪問をコーディネートしてくださったのは、東北教区の運営する「放射能問題対策室いずみ」でして、この保養プログラムもいずみが企画・実施してきたものに北海教区の東日本大震災支援委員会も協力しているものですが、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事後から13年経ちましたが、事故はいまだ収束していない、そのことの学びの時も与えられました。
まずは、有名な医師、野口英世も通っていたという、会津若松市にある若松栄町教会の会津放射能情報センターをお訪ねし、現状をお聞きしました。そして、事故当時、海から風が陸へ向かって風が吹いたために大量の放射性物質に汚染され、2017年まで帰宅困難区域だった浪江町津島地区を訪ね、元住民方から廃墟となってしまった自宅や周辺を案内していただき、裁判について教えていただきました。現在では避難指示が解除され、帰ることは出来るけれど、いまだに放射線量は高いこと(他の地域では通常0.02μ㏜くらいだが、浪江津島では除染された役場支所で0.26μ㏜と10倍以上、放棄された家や草むらなどでは0.6~1.7μ㏜くらいと依然と高い。それでも、事後直後は100μ㏜以上あったとのこと)、帰っても生活が成り立たないことなど、苦しい胸の内をお聞きしました。現在は国に責任を認めさせることを第一に裁判されているそうです。それは、自分たちだけのためではなく、政府が原発推進の姿勢を変えない限り、起こるであろう次の原発事故で苦しむ人たちのため、自分たちのように苦しむ人を出さないためだと聞いて、心を揺さぶられました。
その後は浪江伝道所と小高伝道所、そして南相馬の原町教会をお訪ねし、お話をお聞きしました。
そして日曜日は、私は原町教会で、韓守賢北海教区幹事は宮城県の鳴子教会で、久世そらち牧師は宮城県のいずみ愛泉教会と涌谷教会で、それぞれ礼拝説教を担当するため分かれて解散しました。
原町教会では教会の皆さまとお昼を一緒し、皆さんのお話やこども園のお話などもお聞きました。
今では立派な大人となった、北海道での保養第一回目の参加者も挨拶に来てくださいまして、嬉しい一時でした。また、津波の跡が残る中浜小学校跡を案内していただき、10mの高さまで来た津波の怖さを目の当たりにしてきました。レンタカーでの走行距離はざっと900~1000㎞くらいでしょうか。学びと出会いの盛りだくさんの旅でした。その後は、妻と合流し、福島県を旅行してきました。夏の休暇を頂きまして、本当にありがとうございました。
さて、今日の聖書箇所のお話です。
この手紙は、ヨハネよる福音書と同じ著者の手によるものだと考えられています。
教会への迫害や、異なる教えによって、教会から離れる人が出てきた、そのような危機の時代に、教会に残った人々を励まそうと書かれた手紙のようです。今日のところは、その最後の部分です。
この手紙の著者ヨハネは、私たちがイエスを主と告白することができるのは、聖霊の力、私たちの目には見えないけれど、私たちの間で今も働いてくださる神の霊によるのだと教えます。ということは、私たちがイエス・キリストが自分の主人、救い主だと告白できるとき、目には見えなくても、感じなくても、聖霊なる神が私たちと一緒にいてくださっているということが分かります。
聖霊はイエス・キリストが水と血によって来られたことを教えます。イエス・キリストは、洗礼だけでなく、十字架での苦難と死を通ってこられた。これは当時、イエスの神性や人性の片方のみを強調する人々への反論でしょう。イエスは洗礼によって神の養子にされたとか、イエスは神であるから死なないので十字架の死はなかったとか、そういった主張をする人がいたようです。しかし、イエスの神性と人性のそのどちらもが大切なのだというのです。イエスは全き神であり、同時に全き人間である。だからこそ、私たち人間の苦しみを知り、父なる神に私たちを赦してくださるようにとりなしてくださるのです。イエス・キリスト以外に自分にとって救いはない。それが私たちキリスト教徒の確信です。その確信は、わたしたちと共に居てくださる聖霊が与えてくださっているのです。これは「神の証し」であるとヨハネは言います。
「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」
神は私たちの罪を赦して、永遠の命を私たちに与えてくださった。その命は私たちの代わりに十字架で死に、復活したイエスが持っているものです。だから、イエス抜きに永遠の命はありません。
「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」
イエスをキリストと信じている私たちは、すでに永遠の命を得ている。私たちには聖霊が共に居られる。だから、迫害や異なった教えによって、教会から離脱する人が出てきたとしても、イエス。キリストを信じるあなたたちは、恐れず、惑わされないようにと、ヨハネは励ましているのです。
次に、ヨハネは祈りについて教えます。
「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」
イエスは、
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)と言われました。
私たちが何よりもまず求めるべき、最も大切なこと、それは神の国と神の義です。神の国とは神が直接ご支配されている、神のみ心が行われている国、領域のこと。聖書では天の国とも言われています。私たちが神に従い、神を愛し、他者を自分のように互いに愛しあうならば、そこは神の国です。そして、神の義とは、神によって「良し」とされることです。
私たち人間はだれでも、生まれながらに、自己中心的で利己的な性質を持っており、それをキリスト教では「罪」と呼んでいます。私たち人間は誰でも、神に反する、罪あるものですが、イエス・キリストが私たち人間を神にとりなして、神と人とを和解させてくださいました。イエスを自分の救い主キリストと信じ、従うことこそ、神の国と神の義を求めることに他なりません。
私たちにはイエス・キリストによって、聖霊によって、最も大事な神の国と神の義が与えられました。だからその他のことも、何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、叶えてくださると確信できる、そうヨハネは言うのです。
御心に適わない、間違った祈り、自分勝手な祈りは聞かれない。これは本当にありがたいことです。私は幼稚園の時、いじめられていました。どれだけ訴えても先生たちは何もしてくれない、頑張ってなんとか仕返しをしても、自分だけが叱られる。理不尽だ、そう思って、何度も相手に消えてほしいと願いました。今思えばなんと恐ろしい願い事をしたのでしょう、聞かれなくて本当に良かったと思います。時に、私たちは自分が何を望んでいるのか分からない、そんな時が多々あるように思います。でも神さまは、私たちに必要なものをご存じです。
では、御心に適った祈りとはなんでしょうか。それは、他者のための祈り、とりなしの祈りです。
イエス・キリストは私たちを救うために、神にとりなしを祈ってくださいました。私たちはキリストの祈りによって生かされ、永遠の命を与えられた神に属するものとなりました。だから、私たちもキリストに倣って、他者のために祈るのです。
ヨハネは、私たちは皆罪人だけれども、死に至る罪と、死に至らない罪があると言います。これがどういうことかを理解するために、イエスの語られた言葉を見てみましょう。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ福音書3章28~29節)
私たちは罪がありまた、罪を犯します。けれども、神はイエス・キリストの十字架の死と復活を通して、私たちを赦してくださいました。私たちが犯してきた罪も、知らずに言った冒涜の言葉も、神は赦してくださる。これが死に至らない罪です。それに対して、死に至る罪とは、イエス・キリストが私たちを愛し、救ってくださっているのに、その救いを受け入れないことです。せっかくイエス・キリストが私たちの罪を赦してくださったのに、そのことを聖霊が教えて下っているのに、そのことを受け入れないなら、いったい誰が私たちを赦すことができるでしょう。
ヨハネはこの手紙の結びに、「子たちよ、偶像を避けなさい」と言います。偶像とは、神ではないものを私たちが神のように扱うことです。愛である神以外の偽りのものを、神のように扱うことです。それによって、私たちは真実の神から遠ざかってしまいます。私たちは神に属する者として、諸々の偶像を遠ざけ、愛であるイエス・キリストの神にのみ、従うことができますように。