2024年9月8日 聖霊降臨節第17主日 ペトロの手紙Ⅰ 2章11~25節

11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。

いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。

12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。

そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、

あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

13 主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、 14 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、

皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。

15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

16 自由な人として生活しなさい。

しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。

17 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。

 善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。

19 不当な苦しみを受けることになっても、

 神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。

20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。

 しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

21あなたがたが召されたのはこのためです。

 というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、

 その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

22 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」

23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、

 正しくお裁きになる方にお任せになりました。

24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。

 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、

 今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

目次

<説教> 「義によって生きる」

この手紙は、今日では疑義もあるのですが、伝統的には、著者はイエス・キリストの一番弟子だったペトロがローマから、シルワノという仲間に書かせたものと考えられています(5:12)ので、ここではペトロからの手紙として読んでいきます。

小アジアにあった、迫害を受けている諸教会を励ますための手紙です。「離散して仮住まいしている選ばれた人たち」(1:1)という言葉から、ユダヤ人からの改宗者に宛てているように思いますが、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」(2:10)との言葉から、異邦人からキリスト者になった人々に宛てた手紙だと推測されます。

 今日では想像しにくいことですが、当時はキリスト者であるというだけで迫害を受けたり、生き辛いことがあったようです。ローマ帝国による積極的な迫害は稀だったと言われますが、それでも、キリスト者だと告発されると、棄教を迫られたり、罰せられたりし、殺されることもありました。

 さて、そのような中でペトロのメッセージを見てみましょう。

「愛する人たち、あなたがたに勧めます。

いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」

 イエス・キリストを自らの救い主と信じ、神に属する者となった人の本国は天にあります(フィリピ3:20)。私たちはこの世で肉体を持ち、また、日本などの国籍を持っていますけれども、しかし、それは一時のこと。イエス・キリストが帰って来られるまでのことです。私たちはこの世界の旅人であり、仮住まいのようなものだから、帰るべき神の国の住人として、一時の肉の欲を避けなさいというのです。

「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。

そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、

あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」

 そして、異教徒の間で立派に生活するように勧めています。当時、キリスト教徒は異教徒の間で、悪人呼ばわりされていたようです。それは、キリスト教の大事にしている価値観が、当時の社会の人々の価値観とは大きく異なり、時には対立していたからでしょう。当時の地中海世界は、ローマ帝国が支配していました。皇帝は神の子と崇められ、神のように拝むことが強制された時もあります。また、多神教社会であり、人の手で石や木や金属で造られた像を拝んでいました。奴隷制があり、身分、階級制度があり、また不道徳な振る舞いがまかり通っていました。

 一方、キリスト教は目には見えない、唯一の神を拝み、また、偶像を避けるようにと教えられています。目に見える神々の像を拝まないキリスト教徒たちは、当時の人たちから無宗教の人々のように見えていたと聞きました。宗教を持たないということは、自分を律する教えを持たないと判断され、何をするか分からない、社会に悪を与えかねない悪人と考えられたのかもしれません。

また、キリスト教は、すべての人は神に造られたと信じています。どんな人も罪人であり、どんな人も神にイエス・キリストによって罪を赦され、愛されている大切な人だと考えます。たとえ皇帝であっても、神に造られた人間にすぎず、私たちと何も変わりません。だから、皇帝を拝むことはしません。それも、社会の秩序を乱すと捉えられたのでしょう。

 そうであっても、たとえ悪人呼ばわりされても、立派に、誰に恥じるところなく生活していく。そうすれば、訪れの日、イエス・キリストが帰って来られるときに、異教徒たちも、私たちの立派な行いを見て、唯一の神を信じるようになるかもしれない。それは、自分のためだけでなく、他者のため、ひいては神さまのためになるというのです。

 ここまでは、なるほどそうだよな、とすんなり受け入れられる気がします。しかし、この後に言われることは今日そのまま受け入れるには難しい言葉が語られます。

「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。

 それが、統治者としての皇帝であろうと、

 あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、

 皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。

 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。

 自由な人として生活しなさい。

 しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。

 すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」

 この「服従しなさい」という言葉に、私はどうしても引っ掛かりを覚えます。善い為政者であればいいだろうけれども、暴君や独裁者にも従わなくてはいけないのか。そうではないでしょう。歴史を見れば、キリスト教もたくさんの過ちを犯しました。第二次世界大戦前、ナチス・ドイツが台頭したとき、一部のドイツのキリスト教徒はそれを受け入れました。大日本帝国下でも、日本キリスト教団は天皇崇拝をし、戦争遂行に協力してしまいました。これらが間違いであったことは明らかです。

 制度にしても、アメリカの公民権運動において、黒人差別をする制度に対して、キング牧師をはじめとする多くのキリスト者が、その制度に反対し、非暴力不服従の抵抗を行いました。その他にも、政府の意向に反して、ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人のために、「命のビザ」を発行し、約6,000人の命を救った外交官、杉原千畝。アフガニスタンで水路を建設して約65万人を救い、政府の自衛隊派遣を批判した中村哲医師。彼らの抵抗が正しいことであったことは歴史が証明しています。そしてなにより、主イエス・キリストご自身が、時の宗教界の在り方に批判し、対立したからこそ、主は邪魔者扱いされ、政治犯として十字架につけられたのです。

 確かにイエスは武力による解放者ではありませんでしたが、それは先に挙げた人々も同じです。彼らは武力が支配する世の中において、それ以外の、最も価値あるもの、神の愛が支配する世界を夢見て、良心に従ったのです。

 では、ここをどう判断すればいいのでしょうか。ペトロは善を行うこと、自由な人として、神の僕として行動しなさいと言っています。そして、皇帝などの為政者だけでなく、すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れるようにといっています。この「畏れる」というのは、怖がることではなく、敬うということです。

 また、すべての人を敬うと言うことは、異邦人への使徒パウロも、ローマの信徒への手紙12章10節で、「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」と述べています。

 差別、そしてそれに引き続く迫害や虐殺は、他者を見下し、自分とは違うと線を引くことから始まります。そうすることで、相手を傷つけていい存在だと見做してしますのです。聖書は、そうではなく、互いに神に愛されている存在として敬意を払うことを教えています。

 非キリスト者の間にあって、善を行うことを勧めているのです。為政者というものは本来、「悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるため」、「公正と正義を行わせ」(列王記10:9)るために立てられていると聖書は語ります。神は私たち人間が善を行い、互いに助け合って生きることを望んでおられます。

 この世の制度は人間が立てた不完全なものですが、善を行わせ、秩序を守るという点においては神に従っています。法によって公平を重んじ、虐げられるものを守ることも神に従うことです。

「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(エレミヤ22:3)

と主は為政者に言っておられます。

しかし、為政者が不当な利益を追い求め、無実の人の血を流し、虐げと圧政をするなら(エレミヤ22:17)、当然、キリスト者はそれに従うことはできません。

私たちの本国は天にあり、この世では寄留者です。そのことを忘れず、どんな環境に置かれても、善を行うことこそが私たちの務めです。それは、最後の日に、今はキリストを信じていない人も、イエス・キリストを信じるという希望に繋がります。

生きるにも、死ぬにも、主のため。そのために、この世での生活を軽んじることは出来ません。私たちは神によって、イエス・キリストを通して自由にされましたが、その自由を、自分勝手に、悪を行うためではなく、神の民として善を行うために用いる(ガラテヤ15:16)ようにと言うのです。肉の欲にまみれた腐敗した世にあっても、自分たちは善を行う模範的な市民であろうというのです。隣人愛とは、すべての人を敬うこと。お互いに仕え合うことです。

「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。

しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。

あなたがたが召されたのはこのためです。

というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、

その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。

「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」

ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、

正しくお裁きになる方にお任せになりました。

そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。

わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」

 私たちはイエス・キリストによって罪赦され、神の子として招かれました。それは私たちが神さまの義によって生きるためです。神の子とされた私たちが、人生のどんな時も、善を選んで生きて行くことができますように。

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