2024年9月15日 聖霊降臨日第18主日・召天者記念礼拝 エフェソの信徒への手紙 3章14~21節

14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。

15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。

16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、  

17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、

 あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。

18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、

 キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、

19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、

  そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。 

20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、

  思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、

21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

目次

<説教> 「愛の立方体」

 おはようございます。今日の礼拝は先に神さまのもとへと召された、信仰の先輩方を偲び、共に神を礼拝する召天者記念礼拝です。

 先輩方は何を信じていたのでしょうか。それは、この世界を造られた神がおられ、すべての人は神によって愛されていること。そして、その神の子であるイエス・キリストがすべての人の救い主だと言うことです。地上にあるすべての者はいつか必ず終わりを迎えるけれども、神は永遠であり、イエス・キリストが復活されたように、自分たちにも復活させられる。キリスト教においては、死は終わりではない。それが先輩方も信じたキリスト教の信仰です。神が与えてくださる希望があるからこそ、私たちはこの地上で、どんな困難な時も、神に従って、互いに愛し合いながら生きて行きたいと思うのです。先に召された方々も、同じ希望を抱いて、それぞれに神さまから与えられた人生を立派に歩かれました。

 もちろん、信仰があるからと言って、そのそれぞれの人生は必ずしも楽なものではなかったことでしょう。今日お読みいただいた聖書の箇所、エフェソの手紙を書いたパウロと言う宣教者の人生も苦難の連続でした。この手紙は、おそらくパウロがローマで投獄されているときに、現在のトルコにあるエフェソと言うところにいる信仰の仲間たちに宛てて書いた手紙と考えられています。

 パウロはキリスト教を広めたため、しばしば他宗教の人々から敵視され、イエスと言う別の王がいると言ってローマ皇帝に反逆しているとして訴えられたのです。

 エフェソの教会はパウロの宣教によってできた教会でした。だから、パウロがローマで投獄された時には、大いに心配しました。パウロは使徒であり、神さまに守られているはずではなかったのか。それなのになぜ…。わたしたちもこの世で苦難に遭うとき、つい神を疑ってしまします。神はどこにおられるのか。わたしたちは神から見捨てられてしまったのか。

 しかしパウロは手紙で「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないで下さい」と励まします。そして、パウロは「この苦難はあなたがたの栄光なのです」とまで言うのです。

 自分は投獄されており、命の危険もあったでしょう。それなのになぜ、パウロは他者を思いやり、励ますことができるのか。それは、パウロは神が人知を超えたお方であり、秘めた計画をお持ちであることを、身をもって知ったからではないでしょうか。

 この世界をお造りなられた神さまのなさることは、実に不思議です。パウロは以前には、熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒を迫害していました。しかし、復活したイエス・キリストに出会い、神によって異邦人への使徒へと変えれました。知らずの内に神の民を迫害していたものが、その罪を赦されて、神に用いられる者とされたのです。

 キリスト教ではすべての人は罪があると考えます。いや、自分は何も悪いことはしていない、と考える方もおられるかもしれませんね。もう少し説明しますと、キリスト教のいう罪とは、新約聖書の書かれたギリシャ語でハマルティアといい、「的外れ」という意味です。聖書では神は愛だと言われています。その愛である神の方を向かないで、自分中心的、利己的に生きてしまう、そのような性質を、キリスト教では「罪」と言っています。これは人間ならだれでも持っているものです。

 私たちが生きる上での苦しみは、誰かの上に立たなければということから起こっていることが多いように思います。誰かよりも偉くならなくては、誰かよりも強くなくては、誰かより正しくなくては…。しかし、そんなことは必要ない。神さまの目から見れば、誰でも等しく罪人なんだから。私たちは誰かを見下すことなんてできないし、そんな必要もない。それを知れば、楽になります。

 そして、私たちはただ罪人であるだけでなく、神に愛されているということも聖書は教えています。神は善であるお方なので、悪に対しては罰を下されます。罪とは愛から離れて自己中心的に生きることだと言いましたが、命である神から離れた私たち人間は、いつか必ず死ぬ存在となりました。しかし、神は愛であり、私たちを愛してくださっているので、私たちを救うために、神の子イエス・キリストをこの世界に派遣してくださいました。そしてイエス・キリストがすべての人の罪に対する罰を引き受けてくださったので、私たちの罪は赦された。

罪を赦された私たちは、神に感謝して、神が望んでおられるように、互いに愛し合って生きて行こうとする。救われるために善いことをしようと言うのではなく、神に救っていただいたから神の望まれる善い存在として生きて行こうとする、それがキリスト教の信仰だと思います。

 また、神はイエスを死んだままになさらず、復活させてくださいました。それは、イエスを救い主だと信じる者たちの模範となり、永遠の命を与えるためだと聖書は言います。だから、パウロは、いま受けている苦難が、ただの苦難で終わらないことを知っていました。たとえ苦難の末に命を失っても、イエス・キリストの苦しみが神によって復活と永遠の命に変えられたように、私たちの苦難もいつか報われる。その希望があるから、困難の時も、投獄されても、パウロは絶望しません。

 このパウロを支える希望は、私たちの信仰の先輩の人生をも支えていたのだと私は信じます。

 イエス・キリストはすべての人の身代わりなって十字架につけられました。これは言い換えるなら、私たちの罪が、私たちがイエスを殺したようなものです。しかし、イエスはご自身を殺した私たちのために救い主となってすべての人の罪を赦してくださいました。それだけでなく、神の家族なのだと言ってくださいました。そのようにイエス・キリストは、神さまは、常識を超えた、底抜けの愛の方であると聖書は教えています。そして、そんな神さまに愛されているのだから、あなたたちも神の子として、愛し合って仲良く生きなさいと聖書は言うのです。

 今日の箇所で、パウロは、神の子であり神の家族である私たちが、父である神に強められ、心の内にキリストに住んでいただいて、愛にしっかりと立つ者としてくださるように、そして、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができるようにと祈っています。

 パウロは、キリストの愛には広さ、長さ、高さ、深さがあると言うのです。これは面白い表現だなと思います。これを読んだとき、私は立方体のようだと思いました。

 キリストの愛は多面的。けれど、私たちはしばしばその一面しか見えていないのかもしれません。

 私たちはキリストに自分の見たい一面を託します。優しい神、怖い神、裁く神、赦す神…。同じ信仰者であっても、神やキリストに抱いているイメージは同じではないかもしれない。立方体のように神にはたくさんの面があるから。そして、立方体、立体は一面だけで立つことは出来ません。それぞれ違う神の面を見ている私たち一人ひとりが集まることで、神は、神の愛は立ち上がってくるように思います。

 もちろん、永遠の存在である神のことを、有限の存在である私たちには完全には分かり得ることはないでしょう。それでも、分かることがある。それは、神はいろいろな面をお持ちだけれども、神は愛なのだということ。いろいろな面があっても、その中心にあるのは、神の全ての存在への愛だと言うこと。

 

 キリスト教は愛を説きます。神は互いに愛し合いなさいと言われます。けれど、私は自分を振り返ってみると、自分の中には愛はないなと良く思います。でも、それでもいいんです。私は他者を愛することは下手でも、私の中に住み、一緒にいてくださるキリストは愛の方だから。そして私自身の中に愛はなくても、キリストは、愛の方へ押し出してくださる。そう思うのです。

 愛とはなんでしょう。どうやって私たちは愛し合って行けばいいのでしょうか。日常で私たちは愛と聞くと、すぐに恋愛を思い浮かべるのではないでしょうか。世の中には愛を歌ううたが溢れています。またある人は親子や親しい友人との関係を思い浮かべるでしょう。確かに、それも愛の一つの形だと思います。でも愛には他にもいろいろな形がありそうです。私たちの模範であるキリストは、自分を敵視する者を救うために、命を捨てられました。そこまでではなくとも、ある人は、愛とは嫌いな人とでも一緒にご飯を食べることだといいます。ある人は、愛とは他人のために自分の時間を使うことだといいます。また、愛するとは大切にするということだとも言います。キリストの愛が立方体のように多面的であるように、愛には色んな面がありそうです。

 そのすべてを知ることは出来ないし、すべてを真似することもできないけれど、わたしたちには模範となる方がおられます。それはイエス・キリストであり、また、信仰の先輩方です。

 大きな例では、アメリカの人種差別に立ち向かったキング牧師や、誰にも顧みられずインドの道端で死んでいく人々のお世話をしたマザー・テレサ、アフガニスタンで水路を作ることによって人々の生活の基盤を守り命を落とした中村哲医師、命のビザを発給した杉原千畝…。そうした人に知られるような働きではなくても教育・医療・芸術などの様々な分野で活躍するキリスト教徒たち、また、教会や家庭やご近所などで親切にすることや、小さな親切に「ありがとう」と感謝されることにだって、日常の挨拶にだって、私たちは愛を感じることがあります。そうした様々な形で現れる愛を喜び合って、一緒に大切にして行けたら素敵だなと思うのです。

 私たち一人ひとりにできることは小さなことでしょう。立方体も一面だけでは立つことができないように、一人では私たちも愛に立ち続けることは難しいかもしれません。でも、私たちは一人ではありません。私たちにはキリストが共におられ、そして私たちには支え合う信仰の家族の集まりである教会が与えられています。この教会も勝手に立っているわけではありません。この教会に連なってくださる諸先輩たち、そして聖書の時代から続く、たくさんの信仰者の祈りに支えられてここに立っています。そうした方々に祈られていることを覚えながら、私たちもまた、小さな日常の中から、他者のために祈り、愛の業に励みつつ、それぞれの定められた時まで、人生の歩みを続けたいと願います。

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