2024年11月10日 降誕前第7主日 マタイによる福音書 3章7~12節

7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。

8 悔い改めにふさわしい実を結べ。

9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

目次

<説教> 「アブラハムの子」

今週は、日本キリスト教団では「障がい者週間」とされています。これはNCC(日本キリスト教協議会)という、キリスト教の超教派の集まりである団体が、1979年に制定したものに合わせたものです。障がいのある方のことを覚え、祈る時として用いて頂けたらと思います。今日、バリアフリー化やユニバーサル・デザインという考えが少しずつ浸透してきていますが、ますます進んで行けばと思います。すべての人が共に暮らしやすい社会になりますように。

さて、今日は洗礼者ヨハネの記事について書かれた箇所です。洗礼者ヨハネは、ルカによる福音書によるとイエス・キリストの母方の親戚で、イエスよりも先に預言者として活動した人でした。彼がイスラエル南部のユダヤの荒れ野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えると、たちまち評判となり、大勢の人が彼のもとに集まって来たそうです。彼は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」そうです。この姿は旧約聖書に出てくる預言者エリヤにそっくりです。

当時のユダヤの人々はマラキ書3章23節の預言、「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす」などから、神が帰って来られすべての人が神の前に立たされるという主の日の前には預言者エリヤが帰ってくると信じていました。

その彼らの前に、エリヤにそっくりな預言者ヨハネが現れたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉は、ローマ帝国の支配に苦しむユダヤの人々にとって、どれほどの恐れと喜びを与えたことでしょう。人々は大勢、ヨハネのもとへとやってきました。

ヨハネは彼のもとに集まってきた人々とともに、イエスラエルの北部にあるガリラヤ地方のガリラヤ湖から、イスラエルの南部にある死海に流れるヨルダン川へと移動し、水で洗礼を受けさせます。

日本でも外から家に帰ってくるときや食事の前にも手を洗いますが、ユダヤの人々も同じように手や足などを洗っていたようです。ただし、それは衛生面からというよりは、穢れを持ち込まないためと考えられていたようです。日本の神社仏閣などでも参拝前に手を洗うところがありますが、それに近い感覚かもしれません。福音書にはイエスの弟子たちが食事前に手を洗わなかったと指摘される場面がありますが、当時の人たちからすると、現代の私たちが思うよりも奇異なことだったのかもしれませんね。

また、浴槽のようなものに水をためて身を清める沐浴もよく行われていたようです。だから、ユダヤの人々からすると川で身を清めるということもそれほど違和感のないことだったかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネの洗礼は、ユダヤの人々が普段からしている清めの儀式とは決定的に違う点がありました。それは、その目的が「悔い改めに導くため」だったということです。

「悔い改め」とは新約聖書の書かれた古代ギリシャ語でメタノイア。「向きを変える」とか「方向転換」といった意味なのですが、他のものも紹介します。メタには「高い次元の」とか「超越した」といった意味もあるそうです。ノイアは「心」とか「知性」、「思い」といった意味。自分の思いを越える、視点を変える、そのようにも理解できます。自分中心だった生き方から、それを越えて神の思いに生きる。それまでとは全く世界観が変えられる、そのような悔い改めに導くための洗礼をヨハネは授けていたというのです。それは「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」するため、主が来られるときに来やすくするために道を整えるのです。

約束されたエリヤの再来であるヨハネが来た。エリヤが帰ってくるという約束が成就したのだから、主が来られるという約束も成就する。人々は大勢、ヨハネのもとに来て洗礼を受けました。

その評判を聞きつけたのでしょう。ファリサイ派とサドカイ派の人々も大勢、ヨハネのもとに洗礼を受けに来たといいます。しかし、その彼らにヨハネは激しい言葉で語りかけます。それが今日の聖書の場面です。

「蝮の子らよ」マムシはパレスチナにはいませんから、これは意訳なのですが音の響きは良いですよね。日本人にとってイメージしやすい面白い訳だなと思いますが、これは毒蛇ととらえていればいいでしょう。毒蛇は人を苦しめ、時には殺してしまう、恐ろしい嫌なイメージです。そのような毒蛇の子のようだというのです。ファリサイ派は一般の人の中で、特に宗教的に熱心だった人々。聖書に書かれてある掟の他に口伝えの掟も守る人々でした。その熱心さで人を傷つけてしまうことがしばしばあったようで、新約聖書の中ではイエス・キリストと対立し、イエスが十字架にかけられる原因となりました。一方のサドカイ派は、エルサレム神殿の祭司や貴族たちです。モーセ五書しか信じず、ローマ帝国に従おうとする立場の人が多かったようです。彼らも後にイエスと対立します。どちらもユダヤ人社会では一目置かれる立場にいた人たちでした。そのような人たちまで洗礼を受けに来た。それを見た民衆は、やはりヨハネは凄い人だと思ったでしょう。しかし、そのような彼らに対して、ヨハネは蝮の子、毒蛇の子と言ったのです。それは、彼らに警告するためでした。

「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。

『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」

マタイによる福音書では、ヨハネの洗礼は罪の赦しを得させるためではなく、悔い改めに導くためのものです。

そして、洗礼を受けて罪が赦されてそれで終わりではなく、悔い改めにふさわしい実を結びなさいと言われています。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」ということは、思っていたということです。自分たちはアブラハム子、神に愛されたアブラハムの子孫なのだから神の怒りを免れられるだろうと思っていたのでしょう。それだけでなく、他の人を裁き、見下すようなこともしていたことが、聖書からは読み取れます。

私はこの後の言葉が大好きです。

「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」

これは原語では、石とアブラハムの子というのが言葉遊びになってるそうですが、日本語でも十分面白い。

ファリサイ派やサドカイ派の人々は自分たちがアブラハムの子、子孫だと自慢していた。

しかし、神はそこら辺りに転がっている石からですら、アブラハムの子たちを造り出すことができるというのです。旧約聖書の創世神話では人は土の塵から造られましたから、考えてみれば当然かもしれませんが、ユダヤ人ではない異邦人である私からすれば、これはとってもほっとする言葉です。神は人を分け隔てなさらない。すべての人を愛してくださるというメッセージが、この言葉からも受け取れます。

自分だけが特別だ、自分は他の人よりも優れていると思い上がってはならない。アブラハムの子を、神は何もないような所からだって造り出せる。神の前ではみな同じ。傲りを捨て、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

これは今日の招きの言葉でお読みいただいたパウロの言葉とも通じます。

『信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。

聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、

「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。

それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。』

(ガラテヤの信徒への手紙 3章7~9節)

パウロがこの言葉を語った当時、一部のユダヤ人のキリスト教徒が、ユダヤ人以外のキリスト教徒に割礼を受けたり律法を守ることを強制しようとしていました。それに対してパウロは、ユダヤ人としての見せかけの行いではなく、信仰、神を信頼して、キリストに従って生きる人々こそがアブラハムの子だと諭したのです。

ペトロも言います。「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」

(Ⅰペトロ3章21節)

心が変えられることを望むこと。それが洗礼です。

さて、エリヤの再来であるヨハネは預言の通り、自分の後に、自分よりも優れた方が来られると言います。

その方こそ、イエス・キリストです。ヨハネは水で洗礼を授けていたけれど、その方は聖霊と火で洗礼を授けてくださる。

今日、私たちもキリスト教徒になるときに水で洗礼を受けます。その時には「父と子と聖霊の名によって」受けますから、水と聖霊の洗礼を受けていることになります。では、火の洗礼はどこにいったのでしょうか。

火は悪いものを集めて焼き払われるような洗礼ですから、神の裁きを表しているように思います。神は正しい裁判官ですから、その裁きに不正なところなどないのですが、一方で私たち人間には悪があり、自分の行いで自分を正しいと証明して自分を救うことは出来ません。本来であれば誰も逃れられないようなものが火の洗礼です。

しかし、その私たちが受けるべき洗礼を、実はイエス・キリストが私たちに代わって受けてくださった。それがイエス・キリストの十字架の死です。

だからこそパウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。」(ガラテヤ6章14節)と言い、洗礼者ヨハネは「、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言うのです。

もう大丈夫。裁きはすべてキリストが引き受けてくださいました。

神は私たちを、すべての人を、神に愛されたアブラハムの子として招き、祝福してくださいます。

自分の傲りを打ち砕き、私たちの心を平らにして、主イエス・キリストを迎えましょう。

主イエスは言われます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

目次