2024年11月17日 降誕前第6主日 申命記 18章15~22節

15 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、

 わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。

16 このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、

 この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。

17 主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。

18 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口に

 わたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。

19 彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。

20 ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、

 あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」

21 あなたは心の中で、

 「どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか」と言うであろう。

22 その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、

 それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない。

目次

<説教> 「救いの約束」

今日は旧約聖書、申命記の預言からイエス・キリストの登場を指し示す記事について見ていきます。

申命記はモーセが律法を解説したものとされている書です。エルサレム神殿の改修の際に見つかったという伝説があり、南ユダ王国のヨシヤ王の宗教改革に用いられたと考えられています。

今日の箇所では、モーセのような預言者が再び与えられるとの預言が語られています。それはヘブライ人たちが、ホレブで集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と神さまに求めたことによっていると言われます。

ホレブというのは神の山とも呼ばれ、モーセが神さまから呼びかけられた場所。また後には有名な十戒を授けられたところです。同じような記述があることから、シナイ山と同じ山だったのではないかとも考えられていますが、はっきりしたことは分かりません。後に預言者エリヤもホレブで神さまから語り掛けられていますから、ヘブライ人たちにとって重要な山だったのでしょう(列王記上19章)。ただし、日本に住む私たちが想像するような緑豊かな山ではなく、シナイの荒れ野にある渇いた土地、緑はまばらで、岩と砂の多い山だったようです。

いずれにしても、シナイ半島にある山でモーセは神さまに呼びかけられ(出エジプト3章)、エジプトで奴隷となっていたヘブライ人たちをホレブまで導いて来た時に、神さまから十戒・律法を授けられました(出エジプト19~33章)。

その時、ヘブライ人たちは神さまから直接語りかけられることを恐れたと言います。それは神に近づいたものは死ぬと考えられていたからです。彼らの代わりにモーセが山に登り、神さまと会話しに行きますが、なかなか帰って来ないので、民は偶像を造り、それを神として拝むという罪を犯します。

神さまは彼らに怒りを燃やされますが、モーセが執り成し、なだめます。神さまはモーセとは友人と語るように顔と顔を合わせて語ったと書かれています。

人々の代わりに神さまの言葉を聞き、執り成し、神さまの言葉を伝える預言者モーセ。そのモーセのような預言者たちを、モーセの後も与えると申命記では語られています。

神の民は預言者の言葉を神さまの言葉として聞き従わなければならない。しかし、神さまが語っていないことを勝手に語ったり、他の神々の名前で偽りの言葉を語る偽預言者たちもいたようです。

今日の箇所では「預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」と言われています。

実現しない言葉は神の言葉ではなく、偽預言者だという考えがあったのです。しかし申命記13章3節によれば偽預言者の預言が当たることもあります。また、エレミヤ書18章7~10節やヨナ書のように、本当の預言者が裁きを語っても、指導者や民が悔い改めて神に立ち返り、道徳的に良い方へと変化すると、神さまは裁きを思い直されることもあります。

ではどうやって見分けるのか。申命記13章によれば、偽預言者は他の神々を拝むように誘うと書いてあります。

どの時代にも、偽りの預言者がいます。イエス・キリストも偽メシアや偽預言者に気を付けるよう警告しておられます。そうした偽メシアや偽預言者は、私たちを惑わし、神さまやイエスさまから遠ざけようとします。その時には「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイに福音書24章11節)。「神は愛」であるのに、神さまから離れてしまう。互いに愛し合いなさい、互いに大切にしあいなさいと言われているのに、利己的に、自分勝手にふるまってしまう、それが偽預言者に従っている状態です。

そうではなく、本当の預言者に従いたいと思います。では今日、預言者はいるのでしょうか。

使徒言行録などでは、イエスの復活後も預言する人があったことが描かれているので、今日でも預言はないとは言い切れないと思います。しかし、それと同時に偽預言者も、偽メシアもいる。キリスト教系カルトでは「何時いつまでに終末は起こる」とか、「あなたには悪霊、サタンが憑いている」と言って人を怖がらせ、他者をコントロールしようとします。そうして洗脳し、不道徳なことをして傷つけたり、お金をだまし取ったりします。また、「私こそがメシアの再臨だ」と言ったりする。「宣教のためには嘘も許される」などと言ったりする。どれも愚かな偽りであり、気を付けたいことです。誰かの上に立ちたい、誰かを支配したい、そのような欲こそ、悪霊の仕業であると言わざるを得ません。

私たちの救い主、イエス・キリストは柔和で謙遜な方であり、ご自分に倣うように言われました。また、世の終わりは必ず起きるが、それがいつ起きるのか、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ福音書24章36節)とイエスご自身が言っておられます。神の子ですら知らないのだから、私たち人間に分かるはずがありません。

私たちに出来るのは、いつイエス・キリストが帰って来られても良いように、神さまを信頼し、キリストの弟子として互いに愛し合って生きることだけです。

ルカによる福音書の続編、使徒言行録では「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1章11節)と天使たちが弟子たちに告げました。そしてルカ福音書の最後でイエスは天に帰られる際に、弟子たちを「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ福音書24章50~51節)。ですからきっと、イエスは弟子たちを祝福する姿で帰って来られる。イエスが帰って来られる終わりの日は、恐怖の日ではなく、喜びの日なのです。

この世界を神さまが支配されており、やがて裁きの日が来るというのは、私たちが謙虚になって、自分勝手な、利己的な生き方から離れて、「互いに愛し合いなさい」という神さまの御命令に従うようになるためです。神さまの目的は、私たちを滅ぼすためではなく、私たちが神さまに立ち返って、神さまの子として生きるようになるためです(エゼキエル18章23節、33章11節)。

私たちがイエス・キリストに従うのは、終わりの日への恐怖からではなく、神が愛してくださっているという喜びからでありたいと思います。

さて、いままでモーセの後に与えられる預言者たち一般について語ってきました。一方で、今日の箇所はもう一つの読み方があります。それは、今日の箇所が預言者たち一般について語っているのではなく、モーセのような特定の預言者について語っているという読み方です。すなわち、救い主・メシア・キリストについて語っているという読み方です。

申命記において預言者モーセは、彼の後に続く預言者の理想・モデルとして提示されていました。

そして、申命記18章15節「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」と預言されていました。しかし、これは申命記の最後、34章10節の、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」という言葉によってこの預言は否定されています。つまり、これはまだこの申命記が書かれた時点で実現していない未来の預言でした。すなわち、これは預言者一般を指す言葉ではなく、将来に来るモーセのような預言者、特別な方、イエス・キリストの登場を指し示しているのです。これはヨハネによる福音書1章21節、5章46節にも表れています。

旧約聖書の預言がイエス・キリストによって実現した。使徒言行録3章でイエスの一番弟子だったペトロは言います。

「預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」

今の時、つまりイエス・キリストが来られたとこの時のことを、預言者たちは皆語っていた。

マタイによる福音書11章13節も「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」と記しています。

洗礼者ヨハネ以後、イエス・キリストを通して神は新たなことを始められました。

イエス・キリストが十字架で死んだとき、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ福音書27章51節、マルコ福音書15章38節、ルカ福音書22章45節)。

神殿の最奥、至聖所と言われるところには神さまがいると考えられていました。そして神殿の至聖所には大きな垂れ幕がかかっており、その幕が至聖所とその他の場所を分けていました。至聖所には大祭司など選ばれた人しか入ることができませんでした。神を見たものは死ぬと考えられていたからです。しかし、イエス・キリストによって、その神さまと人とを隔てていた幕が破られた。

だから私たちは、神さまのことをアッバ、「お父ちゃん」と親しく呼びかけ、祈ることができるのです。

神さまがモーセを通して、そして、それ以降の預言者たちを通して語られた救いの約束は、イエス・キリストを通して実現しました。

もうじきアドベントです。私たち一人ひとりを悪から離れさせ、その祝福にあずからせてくださる方の誕生を、今年も喜び、待ち望みましょう。

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