2024年12月1日 待降節第1主日・アドベント イザヤ書2章1~5節

1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

2 終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。

 国々はこぞって大河のようにそこに向かい

3 多くの民が来て言う。

 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。 

 主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。

 主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。

4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。

 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

目次

<説教>「主の光の中を歩もう」

一つ目の蠟燭に火が灯り、今年もアドベントが始まりました。

アドベントは神の御子、すべての人の救い主であるイエス・キリストが、私たちのために生まれてくださったことをお祝いするクリスマスを待ち望む期間です。

私たちはこれから毎週、一本ずつ蝋燭に火を灯していき、クリスマスには全ての蠟燭に火が灯ります。それは、私たちを明るく照らしてくださるイエス・キリストを象徴しています。

こども園しののめでは赤色の蝋燭が、月寒教会では紫色の蝋燭が使われています。赤はキリストの流された血や命を表しています。紫は悔い改めの色で、救い主を待ち望む時期に自らを振り返ろうという意味が込められています。また、アドベントクランツの緑は常緑樹の色であり、永遠の命を表しています。

この4本の蝋燭にはそれぞれに意味があり、1本目は希望、2本目は平和、3本目は喜び、4本目は愛を表すと言われています。教会によっては3本目の蠟燭に喜びを表すピンク色を用いたりします。そして5本目はキリストを表す白い蝋燭が用いられます。

今日は示された聖書箇所を、希望をテーマに見ていきます。

また、私たちの属する日本キリスト教団では、12月の第1主日は社会事業奨励日とされています。

社会事業に関心を持ち、祈る時です。

私たちはイエス・キリストを通して神さまに招かれ、神の子とされました。

神の子とは「平和を実現する者」であると聖書は言います。

私たちの主人であるキリストは、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように教えてくださいました。

そして、「行ってあなたも同じようにしなさい」と言われました。

ですから、私たちは「平和の道具にしてください」と祈ります。

普段は自分のことで精一杯かもしれません。この主が与えてくださった時期、他者のために働く方々を覚えて祈り、何か自分に出来ることを捜す、そのような時として用いて頂けたらと思います。

さて、今日はイザヤ書の預言です。国連の壁にも引用されている万国平和の預言で、ミカ書4章にもほとんど同じ言葉が記されています。私たちに希望を与えてくれる、そのような力強い預言だと思います。

ウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争、ミャンマーやアフリカなどでの紛争が続く今日、またこの日本でも政府によって戦争に向けた空気が造られつつある中、この言葉の実現を祈らざるを得ません。

この預言の言葉が語られたのは今から約2,700年前。南ユダ王国の預言者であったアモツの子イザヤが幻を見、語った預言です。

当時、イスラエルは南北2つの王国に分裂していましたが、どちらも経済的に繁栄していたそうです。

しかし、その陰では搾取や不正が横行し、貧富の差が広がっていたそうです。また、アッシリアやエジプトといった大国の脅威のなか、王たちは武力や軍事同盟に頼っていました。その様を、イザヤたち神の預言者は批判し、神に立ち返るようにと訴えています。

1章ではユダとイスラエルの人々に向かって、「ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ」と呼びかけています。

神に背き、悪を行い続けるなら、ソドムとゴモラのように滅びると警告しているのです。

神さまはイザヤを通して言われます。あなた方が神殿でしている礼拝や祈り、生け贄に何の意味があろうか。それよりも、

「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。

 悪い行いをわたしの目の前から取り除け。

 悪を行うことをやめ善を行うことを学び

 裁きをどこまでも実行して

 搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り

 やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ1:15~17)

神が望んでおられるのは社会正義の実現です。

時々、教会で社会正義について語られるのを好まない方がいると聞きます。

確かに、耳が痛いと思います。自分も我が身を振り返った時、

「自分はどれほどの者だろう。人様に何か言えるような清い人間ではないのに」と思います。

それでも、語らなければなりません。自分はどうあれ、神さまはそう語っておられるのですから。

私たちは神さまの僕です。語りたくないことも語らねばなりません。聞きたくないことも、聞かなければなりません。

説教はどのようにして説教になるのでしょうか。

それは、皆さんが聞こうとされるとき、説教になるのだと思います。

ですから、説教を聞くとき、奨励を聞くとき、証しを聞くとき、どうかお願いします。

その語り手のために祈りながら聞いてください。

語り手も皆さんと何ら変わらない、ただの不完全な人間です。ただの一人の罪人です。

本来であれば、とてもではないけれど神さまのみ言葉を取り次ぐことなどできません。

しかし、そのような者を神さまは用いてくださるというのが、私たちの信仰です。

「神さま、どうかあなたご自身がお語りくださいますように」、「神さま、どうかこの人にみ言葉を語らせてください」、「私は聞きます」、語り手も聞き手も、そう祈りながら語られ、聞くとき、はじめて説教は説教になるのだと思うのです。神の国はどこかではなく、私たちの間にあるのですから。

私たちが、「聞く耳のある人は聞きなさい」と言われる主の呼びかけに応えて、

「御心が天でなるごとく、地でもなりますように」との祈りが、口だけでなく、私たちの本心となりますように。

今日の箇所で、神さまは形式だけの祈りや礼拝、捧げものは好まないと言われます。

他者を虐げ、搾取し、血にまみれている手のままで礼拝するなと言われます。

そうではなく、社会正義を実現せよと言われるのです。

教会はお祈りだけしていればいいと言われた、という話を聞いたことがあります。

でも、それは聖書が言っていることではありません。

確かに、人間には罪があり、自分で自分を救うことはできません。

だからこそ、イエス・キリストが来られました。

では、人間は何もできないのでしょうか。何もしないでもいいのでしょうか。

確かに、聖書には人間の一生は草のように儚いと言われています。

しかし、私たちにはそれぞれ賜物が与えられているとも語られています。

そして、その賜物を用いるようにとイエス・キリストは言っておられます。

私たちは微力かもしれませんが、無力ではありません。

なにか出来ることが与えられているはずです。

もちろん、一人では何もできないかもしれません。

しかし、私たち一人ひとりはイエス・キリストの体の部分です。一つの部分だけでは何もできなくとも、それぞれに違った部分が組み合わされば、何かできるはずです。

マザー・テレサは言ったそうです。

「神さまが私たちに求めておられるのは成功することではなく、挑戦すること」だと。

教会の少子高齢化が叫ばれて久しい今日、私たちに出来ることは少ないかもしれません。

でも、たとえ自分で出来なくても、挑戦しているだれかを、何かの形で応援することくらいは出来るかもしれません。

それはきっと、皆様もすでに何かされていると思います。

まだ何もできてないなと思っておられる方も大丈夫。きっと、なにか見つかるはずです。

誰かと比べる必要はありません。自分にできる何かを、祈りながら、探してみてください。

今日の聖書箇所でも、私たちに行動することが求められています。

「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。 

主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」

主の山に登り、神さまの家に行こう。私たちの主人である神さまが示された道を歩もう。

私たちは登り、行き、示された道を歩むことが求められています。

神さまが示された道、それはイエス・キリストが教えてくださった道です。

「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

神さまは私たちを愛しておられ、そして神さまに愛された者同士、お互いに愛し合うことを望んでおられます。どんな人も大切にされることを望んでおられます。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。

 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。

 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」

ヘブライ人たちと神さまがモーセを通して神の民となる契約を結んだ時に与えられた掟、十戒でも「殺してはならない」と言われており、今日の箇所でも明らかに、神さまは戦争がなくなることを望んでおられます。私たちが戦争をしないことを望んでおられます。

私たちが神さまに示された道、主の光を歩もうとするなら、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ことが求められています。誰かを傷つけ、殺す武器ではなく、誰かを養い、生かす物に、造り出すものに変えなさいと言われています。

マザー・テレサは「全ての人が自分の家の前を奇麗にしたら、世界は奇麗になる」と言ったそうです。誰かが戦争や暴力を選ぶとしても、私はそれを選ばない。それに加担しない。反対する。そう決めた人が増えて行けば、戦争はいつかなくなるんじゃないでしょうか。そうなってほしいと祈っています。せめて、私たち主に従う者はそうありたいと思います。私たちの主人、イエス・キリストも武力で敵を倒す王ではなく、愛で人の罪を覆う方としてこの世に来られたのですから。

平和を求めると、「現実的でない」「お花畑だ」と言う人がいますが、人が憎み合い、血を流しあう地獄のような「現実」よりも、お花畑の方がよっぽど素敵だと思います。宗教は神が見せてくださる理想、幻、進むべき道を見せてくれます。確かに悲惨な現実や自らの罪を見つめることは必要ですが、それらは乗り越えるべきものです。そこに留まるものではないとパウロも言っています(ローマ6:1~2)。

私は、私たちは、清くも正しくもない、俗な存在かもしれません。でも、私たちと共にいてくださる神さまはそうではありません。そして私たちを変えてくださいます。

「論じ合おうではないか、と主は言われる。

 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも 雪のように白くなることができる。

 たとえ、紅のようであっても 羊の毛のようになることができる」(イザヤ1:18)

私たちの罪を赦し、白くしてくださる方。それが神さまであり、そのためにイエスさまが生まれてくださいました。

私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によって罪赦されました。

私たちはもはや闇の中ではなく、光の中にいます。

そのことを思い出すために、毎週の礼拝があり、毎年のクリスマスがあるのだと思います。

大丈夫、神の子が約束通りにお生まれになったように、主はまた必ず帰って来られる。

私たちの祈り、想いや努力は無駄ではない。その希望を与えてくれるのがクリスマスです。

「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」

ヤコブは旧約聖書に出てくる人で、イスラエルの人々の祖となった人です。しかし彼は兄を騙すような、とてもじゃないけれども褒められた人ではありませんでした。けれども、そのような人でも神さまは見捨てませんでした。

私たち人間は皆、罪人です。誰だって、何かしら人には言えない、後ろめたさ、負い目があるでしょう。それでも、神さまは私たちを見捨てません。

大丈夫、私たちの罪は赦された。だから、闇に囚われず、光の子として、いま、愛の主イエスに従って、主の光の中を歩みましょう。

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