2024年12月8日 降誕前第3主日・待降節第2主日 イザヤ書 59章1~20節

1 主の手が短くて救えないのではない。 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

2 むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て

 お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

3 お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ 唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。

4 正しい訴えをする者はなく 真実をもって弁護する者もない。

 むなしいことを頼みとし、偽って語り 労苦をはらみ、災いを産む。

5 彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。

 その卵を食べる者は死に卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。

6 くもの糸は着物にならず その織物で身を覆うことはできない。

 彼らの織物は災いの織物 その手には不法の業がある。

7 彼らの足は悪に走り 罪のない者の血を流そうと急ぐ。

 彼らの計画は災いの計画。 破壊と崩壊がその道にある。

8 彼らは平和の道を知らず その歩む道には裁きがない。

 彼らは自分の道を曲げ その道を歩む者はだれも平和を知らない。

9 それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ 恵みの業はわたしたちに追いつかない。

 わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ 輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。

10 盲人のように壁を手探りし 目をもたない人のように手探りする。

 真昼にも夕暮れ時のようにつまずき 死人のように暗闇に包まれる。

11 わたしたちは皆、熊のようにうなり 鳩のような声を立てる。

 正義を望んだが、それはなかった。 救いを望んだが、わたしたちを遠く去った。

12 御前に、わたしたちの背きの罪は重く わたしたち自身の罪が不利な証言をする。

 背きの罪はわたしたちと共にあり わたしたちは自分の咎を知っている。

13 主に対して偽り背き わたしたちの神から離れ去り

 虐げと裏切りを謀り 偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。

14 こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。

 まことは広場でよろめき 正しいことは通ることもできない。

15 まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる。

 主は正義の行われていないことを見られた。 それは主の御目に悪と映った。

16 主は人ひとりいないのを見 執り成す人がいないのを驚かれた。

 主の救いは主の御腕により 主を支えるのは主の恵みの御業。

17 主は恵みの御業を鎧としてまとい 救いを兜としてかぶり、

 報復を衣としてまとい 熱情を上着として身を包まれた。

18 主は人の業に従って報い 刃向かう者の仇に憤りを表し

 敵に報い、島々に報いを返される。

19 西では主の御名を畏れ 東では主の栄光を畏れる。

 主は激しい流れのように臨み 主の霊がその上を吹く。

20 主は贖う者として、シオンに来られる。

 ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。

目次

<説教> 「罪を悔いる人」

 第2アドベントです。2本目の蝋燭に火が灯りました。2本目のテーマは平和です。

 先週は日本のお隣の国、韓国で大きな事件がありました。大統領が失政や自身の身内のスキャンダルなどから国民の信頼を失い、政権運営に行き詰まりを感じたためでしょうか、「権力を掌握するため」非常戒厳を宣言しました。これは韓国が軍事独裁政権だったときのなごりで、戦争などの緊急な時に出され、市民や報道などに制限をかけるものだそうです。1980年にはこの非常戒厳のもと、軍事政権による市民の虐殺も起こりました。今回、大統領は自分の思い通りにならない国会に軍隊を差し向けますが、夜中にも関わらず集まった市民たちの非暴力による抵抗によって国会を守り、与野党の議員が全会一致で非常戒厳の無効を可決したそうです。軍も市民に発砲することなく撤退しました。もう二度と軍事独裁政権に戻すまいとの韓国の人々の思いによって韓国の民主主義が守られた出来事でした。

 このことは私たちにとっても他人事ではありません。政治が腐敗し、権力者が権力を乱用して自分の地位を守ろうとするとき、当たり前と思っていた平和が破られることがあるということを教えてくれます。幸い、今日の日本には戒厳令にあたる制度はありませんが、与党や一部の野党は憲法を改悪して非常事態条項という戒厳令のような制度を作ろうと目論んでいます。そうなれば私たちの自由や平和、日常の生活も信仰生活も脅かされます。

 日本国憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにする」こと、「主権が国民に存する」こと、「恒久の平和を祈願する」こと、「日本国民は…全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」などが謳われています。また、私たちの主イエス・キリストは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と言っておられます。平和と自由を守るために、私たちも悪い流れには反対の声を上げなければと思わされました。

 さて、今日の聖書箇所も旧約聖書のイザヤ書が選ばれています。イザヤ書はイザヤをはじめとする何人かの預言者の言葉がまとめられたものと考えられています。1~39章が第1イザヤ、40~55章が第2イザヤ。56~66章が第3イザヤと呼ばれています。

第2イザヤはバビロンを征服し、捕囚となっていたユダヤ人たちを解放したペルシャの王キュロス王の台頭を背景とし、第3は帰還後のエルサレムの神殿再建を背景としています。

第2イザヤが告げた慰めと回復の預言通り、バビロンに囚われていた人々は帰還を許されました。しかし、帰還先での生活は困難を極めたようです。その原因を、神殿を建てなおしていないことに求めた預言者たちもいますが、イザヤは偶像崇拝の罪や社会的正義の欠如を語っています。

民のイスラエルへの帰還によって、一応でもエルサレム神殿は建て直されてきて、そこで動物の生け贄を献げるなどの祭儀は行われている。断食や苦行や祈りはなされている。しかし、それは形ばかりになっていた。また、現世の利益を謳う異教の神々に民は心をひかれていたようです。祭司や民の指導者は強欲になり、自分の利益ばかりを求め、貧富の差は拡大し、搾取が横行する。孤児や寡婦、寄留の外国人は虐げられ、無実の人が血を流すなど、帰還先でイスラエルの人々は、捕囚前と同じように暮らしていたようです。そのことをイザヤは告発しているのです。

 イスラエルの人々が異教の神々に心惹かれたのは理由があるかもしれません。彼らは敗戦によって荒廃した故郷に帰ってきた。故郷を離れて何十年も経ち、自分たちの住んでいた家もない。これではバビロンに居たほうが良かったのではないかと思った人もいるでしょう。神さまは預言者を通して救いを告げたのに、困難が待っている。私たちの神さまは本当にあてになるんだろうか。他の神々は富や繁栄を謳っている。そっちの方がいいんじゃないだろうか。そう思ったのかもしれません。

私たちも時に、神さまに非難の声を上げたくなることがあるかもしれません。思い通りにいかない時、自分や誰かが苦しみや困難に遭うとき、戦争や災害が起こった時…。なぜ神さまは救ってくれないのか、なぜ私の祈りを聞いてくれないのかと憤りたくなるかもしれません。

しかし今日の箇所でイザヤは言います。

「主の手が短くて救えないのではない。 主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

むしろお前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て

お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」

 もしかしたら、私たちはなんでもすぐに神さまのせいにしてしまっているのかもしれません。

十戒で「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20章7章)と言われています。これは神さまの名前を呼ぶことと理解されて、イスラエルの人々は「神」や「主」と呼び、真の名前は忘れてしまったと言われていますが、本当は、なんでもすぐに神さまのせいにするなと言われていたんじゃないかと思っています。

 私が高校生の時、演劇部でした。そこでは創作の劇をおこなっていたのですが、ある時、部員の一人のお兄さんが書いたという作品をやることになりました。

 でも、私はどうしてもその作品が嫌で、裏方としては参加したのですが、役者としては参加しませんでした。その理由は、その作品の中では神が戦争好きな自分勝手な子どものように描写されていたからです。どうしても自分の信仰理解とは異なるので、その作品に出ることはできなかったのです。これはなにも、その作品に限ったことではありません。いろいろなメディアの創作物で、神や宗教は戦争を起こす悪として安直に描かれることが多いように思います。確かに、キリスト教は十字軍という過ちを起こしましたし、旧約聖書にはイスラエルによる侵略を肯定するかのような描写もあります。そうした聖書の記述から侵略戦争や差別や奴隷制が肯定されてきたという負の歴史も確かにあります。それらは反省すべき、恥ずべき出来事です。

 しかし、そうした悪事は神さまが引き起こしたのでしょうか。本当は、私たち人間自身が引き起こしたのではありませんか。神さまは「殺してはならない」、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われるお方です。私にはイエス・キリストが示してくださった愛である神さまが、悪事を励行するようなことを言われるとはどうしても思えないのです。そうではなく、私たち人間が、神さまの名前を自分の悪事の免罪のために用いてきたのではないでしょうか。

 神さまの手が短いから、私たちに手を伸ばして救うことができないのではない。神さまは耳が遠いから、私たちの祈りや嘆きを聞いてくださらないのではない。神さまは私たちにすでに手を伸ばし、私たちに命を与え、食べものを与え、資源を与え、分け合い助け合えば生きて行けるだけのものを与えてくださっているのに、私たちにそのための力と、知恵の希望の言葉をくださっているのに、私たちがそれを無視しているのではないか。自分は神に従っていないのに、悪いことが起こった時に神さまのせいにしているのではないか。イザヤの言葉はそれを表しているように思うのです。

 イザヤは預言者です。預言者の仕事は、未来を予知することではありません。そうではなく、預言者の目的は、人々を悔い改めに導き、神さまへと立ち返らせることです。そのために、時に警告し、裁きを告げ、時に慰め、希望の言葉を語るのです。

神さまは預言者を通し、み言葉によってイスラエルに警告します。悪い行いを捨て、立ち返るようにと何度も何度も。しかし、その度にイスラエルは預言者を無視し、迫害し、神さまに背き、ついには罰せられます。それでも、神さまはイスラエルを見捨てず、慰め、励まします。まるで親のようです。

神さまは、私たち子どもがどれほど間違っても、何度間違っても、決して見捨てない。そして帰っておいで、帰っておいでと呼びかけ、待ち続けていてくださるのです。

私たち人間は不完全です。いっぱい間違います。でも、その度に反省してやり直すことができる。

そうして、少しずつでも成長していきます。

 昔は「日本人はすぐに謝る」と言われていたそうです。でも、今日では「謝るのが下手な人が増えた」と言われています。謝ったら負け、と考える人が増えたのでしょうか。テレビなどを見ていても、謝罪のように見えて謝罪になっていない言葉を口にする政治家などが増えたように思います。気持ちは分かる気がします。自分の非を素直に認めたくなくて、ついつい言い訳を口にしてしまうことは、自分でもあるなと思います。

 でも本当は、素直に自分の非を認められた方がいいなと思います。それは決して恥ずかしいことでも悪いことでもないはずです。そしてそれは、神さまに喜ばれることのはずです。

 旧約聖書に出てくるダビデ王。彼は神さまに愛された人として描かれていますが、必ずしも良い人ではありませんでした。自分の欲望のために無実の人を陥れ、殺すという悪を行っています。

 彼は罰を受けますが、それでも、神さまは彼を見捨てることはありませんでした。それは、彼が自らの非を認め悔いたからです。ダビデは言います。

 「もしいけにえがあなたに喜ばれ

焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51編18~19節)

 

 また主なる神も言われます。

「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり

へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。

わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。

霊がわたしの前で弱り果てることがないように わたしの造った命ある者が。」

(イザヤ57章15~16節)

 神さまは聖なる方であり、善なるお方であり、悪を行ってしまう私たちとは断絶があって、はるか高いところにおられるのに、へりくだる私たちと共にいてくださるお方です。

 そしてそのお言葉通り、神の子イエス・キリストは世に来られた。

 「主は贖う者として、シオンに来られる。

ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。」(イザヤ59章20節)

アドベントを表す色の一つは紫。悔い改めを表す色です。悔い改めの先には、希望と平和があります。自らを、そしてこの社会を振り返りつつ、愛である神さまに立ち返って、イエス・キリストに従っていくことができますように。

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