2024年12月15日 降誕前第2主日・待降節第3主日 詩編113編1~9節

1 ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ 主の御名を賛美せよ。

2 今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。

3 日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。

4 主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く。

5 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き

6 なお、低く下って天と地を御覧になる。

7 弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ

8 自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる。

9 子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。

目次

<説教> 「主を讃美せよ」

第3アドベントです。第3アドベントのテーマは「喜び」です。神さまのひとり子が、私たちの兄弟となってくださった!その喜びをお祝いするクリスマスが近づいてきています。

今日の聖書箇所は旧約聖書の詩編です。ハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる、いい詩だなぁと思います。ハレルヤとは、「神を賛美せよ」、「主を賛美せよ」という意味です。賛美とは、素晴らしい方だとほめたたえること。称賛すること。私の神さまは素晴らしい方だ!神さまへの信頼によって、心から湧き出る喜び!そのような言葉です。

残念ながら、私たちの人生は嬉しい、楽しい時ばかりではありません。

困難や苦しみ、葛藤から喜べない時もあるでしょう。

しかし、そのような時こそ、この詩編の言葉は私たちに力をくれると思います。

もともとこの詩編は、過越し祭の食事の前に歌われていたのだそうです。最後の晩餐の前に、イエス・キリストも弟子たちも、この詩編で神さまを賛美したのかもしれないと思うと、より身近に感じられる気がします。

過越しの祭りは、今から3,500年程前に、エジプトで奴隷とされていたユダヤ人の祖先、ヘブライ人たちの苦しみの声を神さまが聞き、モーセという預言者を通して奴隷の身分から解放し、今日のパレスチナの地に向けて導いたという救いの物語に、出エジプトの出来事に由来しています。

ユダヤ人たちにとってとても大事な祭りの一つであり、この神さまが苦しみから解放してくださるという物語は、後々の時代の中でも、その時代々々の出来事と照らし合わされ、その時代の人自身の物語として再解釈され、人々に希望を与えてきました。

例えば、アメリカで白人たちから奴隷とされたアフリカン・アメリカンの人々は、出エジプト記の出来事と自分たちの境遇と、エジプトで奴隷とされたヘブライ人たちを重ね合わせ、この物語から、解放の希望を得、夢を見、困難に耐える力を得てきたのです。

聖書にはその時代々々に起こった特定の出来事に対して、神さまが預言者たちを通して語られた言葉や、その時代の信仰者たちが語った言葉などが纏められています。それは特定の時代の、特定の読者に向けられているという点で、全てが今日の私たちにそのまま向けられているとは言えません。例えば、差別的な内容や、民族主義的なところをそのまま受け入れることは出来ません。だから今日、聖書を読むときにはその書かれた当時の、またそのテキストの文脈を知って読むことが大切だと言われます。それはそうです。ただしそれだけでは、聖書は遠い昔に起こった、自分たちとは遠い物語になってしまいます。

ですから、それだけでなく、私たちは限界を自覚しつつも、それでも聖書な中には普遍的な真理、すべての人に向けられた神さまからのメッセージがあると信じ、読んでいきます。そして、過去に起こった出来事を踏まえて語られた言葉や預言を、現在の私たちに向けたものとして再解釈し、理解していくのです。そのとき、聖書のみ言葉や物語が、私たちの中で生き、私たちを慰め、励まし、力づけ、私たちの生きる力となってくれるのです。私たちの物語になるのです。

今日の聖書箇所では、世界の造り主であり、私たちすべての人の主人である神さまの御名がたたえられますようにと歌っています。神さまの御名がたたえられますようにというのは、神さまがたたえられますようにというのと同じ意味です。

「日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように」、東の果てから西の果てまで、つまり世界中で、神さまの御名が賛えられるようにと歌われています。ここにも神さまの普遍性が現れています。神さまはユダヤ人だけの神ではなく、すべての人の神なのです。

「主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く。」

どのような国が栄華を極め、その富や力を誇ろうと、神さまはその国々を超えてはるか高くに居られ、その栄光は天を超えて輝いている。いつの時代にも力の強い国があり、その国に虐げられる人々がいる。ヘブライ人もそのように大国に虐げられる弱い民でした。アフリカン・アメリカンの人々も強大な力を持つ白人に虐げられていました。いつの時代も虐げる者がおり、自分では対抗できる力を持たないけれど、しかし、私たちの神はそのような国々を超えておられる。そして、どれだけ強大な国も、いつか必ず滅び去る。

「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか」。いや、誰もいない。神は唯一なのだから。

その他のものは私たち人間が造り出した偽り、偶像に過ぎないのだから。

そのように神さまは私たち人間を超越し、すべてを支配し、人のおよばない高い天の王座におられる。それなのに、神は低く下って、身を低くして、私たちと同じところまで降りて来てくださり、この世界の全てを、私たちを知ってくださる。ここに、私たちはイエス・キリストの姿を見ます。

私たちの神は、小さくされた者に目をとめ、私たちの苦しみを知り、その苦しみを担って下さり、救ってくださる神。普遍的で、唯一であり、すべての人の神。

神さまの前ではみな同じです。イスラエルは神に選ばれた民だと言われますが、預言書であるアモス書9章7節では、イスラエルもクシュ(今日のエチオピアの辺り)など他の国と同じだと言われています。イスラエルが傲慢になるとき、どこかの国や民族が、誰かが、そして私たちが傲慢になるとき、それは聖書のみ言葉によって相対化されます。

聖書において、イスラエルは神の民として選ばれました。それはイスラエルが特別だったからではありません。それは彼らが最弱の民だったからだと申命記7章6~7節で語られています。また、アブラハムら先祖の神への信頼ゆえに、神はイスラエルを選ばれたとも語られています。それは、アブラハムを通しすべての人が祝福されるためでした。自分たちだけが特別だとして、他者を見下し、他者への祝福を怠るなら、それは神の民としての職務を放棄していると言えるのではないでしょうか。聖書の神さま、私たちの神さまは「小さき者の神」です。虐げられている者の味方です。

「弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ

自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる」

力あるものによって、無に等しいものとされている人々を起こし、高く上げ、

解放し、自由を返してくださる。この返してくださるという言葉は大切だと思います。

神さまは、私たちすべての人を自由な人として創ってくださった。本来、私たちは対等な自由な人なのです。

それなのに、私たち人間の社会は時に、他者の自由を奪ってしまう。

神さまはそのような歪んだ力関係を、元へと戻してくださるのです。

一人ひとりは大切だ、あなたは私の目に尊いと言ってくださるのです。

私たちの礼拝は天の国の先取りだと言われます。神の国では、すべての人は神の前に同じ。

みな罪人であり、同時に神さまに愛されて、罪赦された神さまの子どもです。

人間社会には身分、民族、職業などによって差別がある。しかし、そんなものは人間が勝手に造り出したものです。神さまの前ではそうであってはならない。神さまの家であり、すべての人の祈りの家である教会ではそうであってはならない、そう思わされます。

「子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」

旧約聖書のサラ(創17章)、リベカ(創25章)、ラケルとレア(創29章)。彼女たちはヘブライ人の祖先であり、アブラハム、イサク、ヤコブの妻です。また、怪力の士師サムソンの母マノア(士師13章)、最後の士師サムエルの母ハンナ(サムエル上2:1~10)…。旧約聖書には子どもを持たない女性が神さまによって子を授かるという物語が多くあります。

今日とは違う、古代の家父長制の社会にあって、子どものいない女性は家の中で立場が弱く、それを理由に離婚させられてしまうことがありました。そうなれば、生活に困ることになります。ここでも、苦しい立場にある人に目をとめてくださる神さまが描かれています。

特に、7節の「弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ」と全く同じ言葉が、ハンナがサムエルを神さまから授かった時に、神さまに感謝して祈った「ハンナの祈り」にも出てきます。私たちの神さまは、救いが必要な人を起こしてくださる神。高いものを低くし、低くされているものを高くしてくださる、逆転の神。持たないものの神なのです。そのような神が私たちと共にいてくださる。

それはイエス・キリストの母となったマリアが神さまに感謝して歌った「マリアの賛歌」(ルカ1:46~55)にも表れています。

ごくごく普通の、もしかしたら普通以下の女の子を選び、神の子の母とされた。普通であれば選ばれないような人を神は選んで用いられる。社会からは見向きもされないような人を、神さまは選んでくださる。だからこそ、私たちは神さまの素晴らしさを知り、神さまはたたえられるのです。

たとえ私たちが喜べないような時でも、社会や周りの人たちから見捨てられても、神さまは、神さまだけは私たちを見捨てない。そして私たちと共に苦しみ、私たちの苦しみを代わりに担ってくださるイエス・キリストを与えてくださった。

神の子イエス・キリストが私たちの友となり、兄弟となってくださった。

イエスは自分の命を差し出すほどに私たちを愛し、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と言われる。

私たちが持っていると思っているものも、やがては過ぎ去ります。この世界に永遠のものはありません。しかし、たとえすべての物が奪われても、なくなっても、この喜びだけは無くならない、奪えない。私たちに与えられた、神の愛だけは永遠です。その愛は、私たちに向けられている。その証拠に、イエス・キリストが私たちの、私の救い主として生まれてくださった。私たちは何も持たないようでいて、実は最も偉大なものを持っている。クリスマスはそのことを思い出し、心に刻む時です。

主は来られた、私たちのために。だから、喜んで主を賛美しながら、今年もクリスマスの訪れを待ち望みましょう。

目次